D.I.Y.出版日誌

連載第8回: 書きたいだけ

アバター画像書いた人: 杜 昌彦
2015.
05.08Fri

書きたいだけ

目の前のつまらない他人なんか相手にすべきではない文明崩壊後の人類最後のひとりを励ますくらいの気持で書こうぜ。 『悪魔とドライヴの第三回を書いたが発表手段がない第二回まではよそに載せてもらっていたしかし他人を頼るのはやはりだめだ日記に載せることも考えた実際に試すと縦スクロールに長い文章は適さないとわかった特に小説は読みにくいし扱いづらいvivliostyle が最適なので試したいが使い方がわからないあれが広く使われるようになれば web は本になるだろう本には確かにソーシャルな側面があるけれどもそれはあくまで個を突き詰めた結果として得られるものだ出口なしの孤独を経た不器用なものであって世渡りを競う web のソーシャルとは別物なのだここ数年そういう本をひらく話ばかり聞かされてうんざりしている現状の web では孤独は忌むべきものとして排除されるコンテンツはそれ自体ではなく関わった者の社会的価値ではかられる本をめぐる言説はすべて本の価値ではなく著者の人気を示すにすぎないweb はそのようにして不器用な人間をますます生きづらくしたその結果あらゆるコンテンツはつまらなくなるつまらないものを祭り上げていられる期間はかぎられる裸の王様も風邪をひけば服を着ざるを得ないいずれ web は閉じる方向へ進むだろうvivliostyle はその最初の原型のひとつだあるいは逆にこれまで通り世渡りを競い合う場としての機能が先鋭化されていくのかもしれないまぁいいやおまえらが多数派の健常者でいられるのはたまたま幸運が重なるあいだだけだからな日用品を買いに行ったショッピングモールで爆破テロがあるかもしれないし未知のウィルスで脳障害になるかもしれないあらゆることに不器用になり社会から疎外されおれと同じ孤独に突き落とされたときあんたらに何が残るかなそのときまで本が残っていてくれたらいいなあんたらが地上から抹消しようとしている孤独が

他人がどうなろうと知ったことか問題は悪魔とドライヴ公開方法で悩むより書くべきだとわかってはいる長いあいだ糞扱いされすぎたせいでいまだ健常者のように書けない去年の秋から書きはじめてようやく百十枚だいまのおれはプロットをまともに構築できないしかし考えてみればそもそも緻密に構築したプロットが読者に受け入れられた試しがない多くの読者は直線的に進む単純な物語を好むようだそこで前作ガラスの泡から書き方を変えた事前にプロットを用意せず行き当たりばったりで書いているいま書いている物語がこの先どうなるのかおれも知らない文化祭で銃撃戦になり主人公が死ぬことだけはわかっている今回はさほど大勢は殺さない当て馬として用意した人物を最初に殺すことはきのう決めた孤独な本では普通の人間が不当に扱われる現実とはあべこべにこの物語を恋愛小説と謳うのはもちろん詐称であるだれからも愛されたことのない人間が恋愛を書くわけがない。 『ミザリーベティ・ブルーと同系統創作にまつわる妄執の寓話なのだじゃあなぜそんな嘘をついたかといえばノルウェイの森に倣ったんである村上春樹は著者初のリアリズム小説ですと宣言したかったがそれではだれにも伝わらないそこで事実とは異なるキャッチーな文句を選んだおれは彼を責めないパクった。 『悪魔とドライヴでは多くの本や映画からパクっている。 『ベティ・ブルーバッファロー’66がそうだくっそつまらない映画恋に至る病もそのひとつである

いやあこの映画ほんとにつまんないですよあまりのひどさに小谷野敦が一般人にまじってつまらないとレビューしてるくらい基本撮りたいだけ設定とか辻褄とかどうでもいい姿勢が露骨冴えない高校教師が女子生徒に強姦されxx が入れ替わる (「心と体じゃないよ話なんだけど肝心の設定を忘れたパンチラとかあるし投函すると郵便ポスト揺れるしここまでだめな映画も珍しい染谷将太なんでこんなのに出たのyoutube に違法アップロードされてるのでぜひご覧ください主人公の容姿とか嘔吐の繰り返しギャグとかまんまパクってて笑える片思いにおける力関係の寓話でだから強姦で XX が入れ替わる)、 教師は子ども時代への退行を経て加害者を赦し最後は風呂上がりみたいにさっぱりした顔になる女子生徒は彼から奪ったことで傷つき恥じるに至って教師が人間性を取り戻したのちはしらけた顔でどこかへ歩き去る事態を引っ掻きまわした同級生もまた熱が醒めたようにしらけた顔で別の方向へと歩き去る教師への執着は主人公を救わないばかりか何も残さないせいぜい身勝手な過去の過ちを赦されただけただ通り過ぎて忘れられていくのが人生であり自分もまた他人にそうする存在だと主人公は知るそのラストシーンが今村昌平豚と軍艦みたいなんだよね敗戦後間もない時代の女はこの地獄を生き抜いてやる!的な決然とした表情だったけれど現代の女の子はもっと体温が低いそもそも見える程度の先しかない人生なのだ要は子どもじみた身勝手な思い込みから卒業する話なんだけど強く逞しく通り過ぎるんじゃなくて奪ったことで深く傷ついて奪った以上に失って歩み去る男なんて道具だてに過ぎないはずの映画なのに女の子たちは救われないまま男の赦しは救いにならない終わる。 「撮りたいだけで撮っただけあって夏休みの光景がほんとうに美しいでも基本くそつまんない映画です女の子の動機に説得力ないからだね

元ネタの話ついでにバッファロー’66についても書いとくかこないだ数年ぶりに見返したんですよ最初に見たときは DV 野郎だと思ったし逃げないクリスティーナ・リッチをストックホルム症候群のように思ったんだけどそうじゃなかったクリスティーナ・リッチは最初から何かに怒っているまるで出会う前から主人公のために怒っているかに見える逃げないんじゃなくて主人公の癇癪が鎮まるのを辛抱強く待っている自分から積極的に関わって行ったのであってそのことはバレエ教室での電話を盗み見るショットで明確に表現されている主人公に対して初めて怒るのは自分がだれかの代わりにされていたと知ったときだしかもそのこと自体が彼の孤独をあらわすものだと知ってますます彼に肩入れするいくつかの転換点があってたとえばボーリング場の場面からずっと彼の上着を着ているんだけどもうこの時点で彼女は主人公に完全に肩入れしている主人公の服を身につけることで映像的にそのことを示している)。 自分がだれかの身代わりにされていたと知って傷つくシーンも大きな転換点だこのシークエンスは気が利いている主人公たちを直接には写さずに車外に流れる雨に濡れた夜景を写すことでクリスティーナ・リッチが泣いてることを示すのだ

主人公はきらっている両親にそっくりだ父親とそっくりな姿勢でため息をつきそっくりに女を罵倒し息子のチョコレートアレルギーを忘れる母親とそっくりにクリスティーナ・リッチが肉嫌いであることを忘れるクリスティーナ・リッチがその仕返しに執拗にホットチョコレートを求めるのがおもしろい彼女は主人公が自分を見ていない時点から主人公を見ている自分を見ようとしない主人公にずっと復讐しているんである最初から彼女の方がうわてなのだラストショットでクリスティーナ・リッチはまだ怒って主人公の人生をこんな風にしたやつらを睨みすえているまるで闘いの女神のようだそもそも彼女は何者なのか? おそらく彼女は主人公の願望が具現化した存在なのだ。 『ベティ・ブルーのベアトリス・ダルが創作衝動の女神であるのと同じようにでもって悪魔とドライヴではそのへんをパクりたい


(1975年6月18日 - )著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『血と言葉』(旧題:『悪魔とドライヴ』)が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。代表作に『ぼっちの帝国』『GONZO』など。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。