あんたらのソーシャルは社会的能力の競い合いだ。 社会に祝福された価値を人脈が金に変える。 評価経済の換金エンジンがあんたらのソーシャルなんだ。 あんたらはあたかも呼吸するみたいに、 そんな芸当を和気藹々とこなしちまう。 一方おれみたいな不具者はだれからも愛されない。 これまでもこれからも。 そういう人間には逆に、 どこまでもひたすら一方通行でしかない関係が救済になり得るんだ。 おれが求めてるのはそういうことだよ。 読書も執筆も著者支援も、 一方通行の愛なんだ。 あるいはどこにも届かない憎しみだ。
たとえばだ、 おれはこの文章を web に奉納する。 あんたら健常者が何か書けば、 バズるなりなんなりして、 社会に祝福されるだろう。 あまつさえ金まで降り注ぐ。 その匂いを嗅ぎつけた編集者から仕事の依頼がくるかもしれない。 よかったな。 ところがきらわれもののおれが何を書いたところで、 底のない闇に小石を放り込むようなものだ。 何も返ってこない。 ただ音もなく吸い込まれる。 おれが投げた小石なんて、 初めから存在しなかったみたいに。 それをたまたま、 あんたが読んだとしよう。 あんたはおれを憎む。 だが残念でした、 おれには知ったこっちゃない。 こっちは書いただけ、 あんたは不幸にして読んだだけだ。 そこに気持の通い合いなんてない。 そしてあんたがおれを糾弾するキャンペーンを張ったとしよう。 だからどうした。 おれは文章で生計を立てちゃいない。 だれもおれを黙らせることはできない。 そういうこった。 一方通行なんだ。
そのおかげでおれは、 いやおれみたいな不具者はほかにもいるはずなんで、 「おれたちは」 といおう。 おれたちは好きなように読んで好きなように思いをぶつけることができる。 いいものを読んだら、 よかったぜ。 つまらなければ、 糞だ。 面と向かってそういえる。 なにしろ著者と読者はおなじ土俵にゃ立っちゃいないからな。 これがあんたらの社会ならどうだ? 思うままには気兼ねしていえないだろう。 それどころか自由にものを感じることさえできないはずだ。 なんたってあんたらのソーシャルは地続きだから。 自分をよりよく見せ、 社会でよりいい思いをするための人脈づくり装置なんだからな。
おれの信じる本にそんなものは不要だ。 おれにとって本とは、 おれがおれでいられる場所、 おれでいることで謗られも嗤われもしない場所なんだ。 そして書くことは、 だれかにとってのそんな場所が見出されるための祈りだ。 どこにも届かない足掻きなんだ。 おれは毎日祈る。 神にその言葉は届かない。 知ったことか。 おれは祈る。