BuddyPress を当初は思考の過程を可視化するために使いはじめた。 twitter のような既存 SNS においてその性質はあくまで副産物でしかない。 インターネット特有の世渡りを楽しむゲームであり、 社会的能力に欠陥のある人間には適さない。 他人とうまくやれない自分を隔離しつつ目的を果たすには BuddyPress が最適だった。 やがて出版を民主化する道具の一部として考えるようになった。 アクティヴィティで企画や編集の会議をしつつその過程を見せ、 本の紹介で文脈を形成して周知と販促につなげる試みだった。 その後、 紆余曲折を経てごく私的で小規模な出版システムの一部として捉えなおした。 現在は単純にライフログとして使っている。 思考の過程を記録してあとで確認するためだ。
複数ユーザで運営する可能性も棄ててはいない。 最小の権限でだれでも気軽に本の紹介や日記を投稿できるようにしたい。 しかし現状はどの手段も一長一短で管理画面を使わせるほかない。 書影と本文のほかに ASIN (リンクが生成される) と要約文 (内容紹介として表示される) の入力欄が必要だし、 著者名のタグを指定できなければならない。 かつ自動生成された著者タグページに顔写真や紹介文を設定することまでフロントエンドで完結させるとなると、 どう考えても荷が重すぎる。 管理画面からはそれらの操作が簡単に行えるので、 むしろそちらの表示を限定するほうが近道かもしれない。
本の紹介と日記、 アクティヴィティを備えたサイトを複数ユーザで運用する意義は何か。 例えば随筆を投稿したり編集会議をしたり日常について語ったり情報やアイディアを共有したりできる。 古今東西の名作にまじえて自主刊行物を紹介すれば、 書店の棚づくりのように読書の文脈を付与できる。 紹介記事をまとめれば自主刊行物を紹介する本をつくれる。 タグを付与すれば自動的に特集ページが生成されるので販促にも使える。 副次的に交流が派生する余地は残しつつもそれを前提としない。 あくまで最終目的は出版だ。 管理画面に遷移せずフロントエンドだけで、 という理想以外は実現した。 有益な仕組みに思えるがなぜ悪意の標的にされたのか。
インターネットで商売するひとびとにとっては著者や読者に主体性を獲得されては不都合なのだろう。 縄張りを荒らされたように受けとられたのだ。 そうした 「権威」 におもねるのがこの国のセルフパブリッシングだった。 コミケ文化の延長でありムラ社会的な世渡りを楽しむゲームでしかなかった。 そこでは読むこと書くことも出版も、 ご近所づきあいや世渡りの手段にすぎず、 声の大きな人物に従うことが 「責任」 として語られる。 彼らの風習がどうあれ自由とは責任を負う権利であって主体的なものだ。 その権利を憎むひとびとからは距離を置きたい。