見たままの場所に書き込める UI が好みです。 twitter や Facebook は対人能力に障害のある人間には向きません。 WordPress は管理画面に遷移するのが不満でした。 前のサーバでは使えなかった Social Articles があっけなく動作したので、 今後はこのプラグインで書くつもりです。 WordPress といえば、 創始者マット・マレンウェッグが三年前に来日したときの記事を読みました。 「ウェブが美しいのは 『僕たちにフォーカスが当たっているから』」 「地理的な状況による差別は良くない」 といった言葉に勇気づけられました。 出版の民主化。 当レーベルが目指すのはまさにそういうことです。 WordPress ばかりではありません。 そもそもウェブの目指すところが本来はそのようなものだとさえいえます。
ところがこの考え方は日本ではなかなか受け入れられません。 多くのひとは社会的な活動の一環として本を読みます。 交流の口実だったり人脈や社会階層をアピールするものだったりします。 そしてその前提として 「だれもが同じであること」 がまず第一に要求されます。 書いて出版することも同じです。 自由な出版に関係があるかのように謳う NPO に、 一時期ちょっとだけ所属していました。 実際には東京近辺のライターの人脈づくりを意図した団体でした。 地方で小説を書いて出版する 「僕たち」 とは無関係でした。 またあるとき何人かの有志で、 著者が自分たちで品質や価値を高めて販促するツールをつくろうとしたことがあります。 関係者に危害が及びかねない脅迫を受け、 断念せざるを得ませんでした。
ソーシャルメディアを眺めて感じるのは、 日本人は権力ありきだということです。 「常識」 にはだれもが従わねばならない。 人権は国家の寛大さにより賜るもので、 障害を持っていたり貧しかったり、 よそから来ていたり珍しいジェンダーだったり、 何かひとと違う要素があれば制限される。 大きな流れに身をゆだねたい、 ひとりひとりの人間がものを考えるようになっては困る⋯⋯。 敗戦から 70 年以上も経つのに、 ひとの価値観はそう簡単には変わらないのかもしれません。 あるいは逆に時代の変化によって、 社会規範をより重要に感じるようになったためでしょうか。 警官に火炎瓶を投げた世代が、 教育を受ける機会を子どもから奪ったり、 店員や駅員に暴力をふるったりするさまを反面教師とすれば、 やむを得ない流れかもしれません。
規範はもちろん重要です。 しかしそれはあくまでひとりひとりの権利を守るため。 責任を負うことは権利であって制約ではありません。 だれかのいいなりになることではないのです。 想いも言葉もそのひと自身のものです。 ありようを強制される謂われはありません。 ウェブはひとびとの関わり方を促進します。 ひとりひとりを尊ぶなら言葉の自由を、 だれもが同じであることを求めるなら同調圧力を加速します。 この国はどちらへ向かうのでしょうか。 だれかに認められることは、 少なくとも機能や手段としては、 読んで書いて出版する前提ではなくなりました。 「やれる」 と自分に証明するために技能を向上させたい。 動機はそれで充分です。