CLOUD 9

連載第6回: Get Off Of My Cloud(3)

アバター画像杜 昌彦, 2024年10月04日

八日後の霧がかった夜、のちに僕らのアルバムの装画を描き、僕とYのベーシストにもなるKVはひどく腹を立てていた。とはいってもMの癇癪のような常軌を逸した怒りではない。襟が高いロング丈のジッパーつきスウェード革ジャケット(これはやがてあの店でのかれの制服のようになる)を着て、湿った潮風に吹かれながら陰鬱に歩いていた。写真家の見習いをしている恋人と烈しい口論をした直後だった。AKのことは愛していたし、垢抜けない自分にファッション指南をしてくれたことにも感謝していたが、従順な着せ替え人形のように扱われつづけるのには閉口した。交際というよりも飼われている心地さえしないでもない。たしかに戦争に行った親世代やスポーツを嗜む同世代と較べれば、手脚が細く華奢で痩せていて、グラフィックデザインなどという肉体労働とは正反対の職業に就いた自分が、性的魅力を喚起しないのもむりはないし、初デートの相手に同意なく純潔を奪われ、獣じみた性欲に警戒するようになったAKの心情も理解できる。男らしさの発露としてユダヤ人やロマや障害者や同性愛者を皆殺しにしようとした親世代への反撥は自分にだってあるし、服の共有は低収入の身の上にはありがたく思える。彼女が望むなら前髪を下ろして切り揃えたゲイっぽい髪型も喜んで受け入れよう。だがどれだけ大人しく安全にふるまってみたところで所詮、自分は性欲に突き動かされた若者なのだ。恋人としてふるまうのであれば多少なりとも男として、一個の人間として尊重してほしかった。不満を訴えてもお嬢様育ちのAKには馬耳東風、不潔な暴君に対するがごとく断罪されるばかり。考えてみればつきあう前の学生時代からそうだった。作品のために枯葉を集めていたら、ほら変態がぼろを集めてやってきた、なんて嗤われたりした。あの日の同級生らの嘲笑はいまも耳に残る。あんな優しい女がどうしてそんなに冷酷になれるのか。女とはみんなそうなのか。経験に乏しいKVにはわからなかった。
 十代の夫婦が金のために中年男を殺そうとする映画を観たが憂さは晴れない。そもそも面皰にきびとそばかすだらけの自分があんな美人とつきあえたのも、ゲイだと思われたからではとの疑いすらある。現に彼女の雇用主でもある恩師はそう勘違いしていたし、かれの事務所の男たちも期待を裏切られてがっかりしていた。僕だって男なんだと心中で何度もつぶやき、埠頭の近くを長いあいだ歩いた。帰りは治安が悪いのでいつもは通らない歓楽街ザンクトパウリ地区のグロッセフライハイト通りを抜けて近道しようとした。レイパーバーンとの角で揚げ芋を買った。爆撃の痕が残る建物、毒々しいネオンサイン、客待ちの売春婦、酔って大きな身ぶりで叫ぶように話す水夫や港湾労働者。小さい驢馬がくるくる廻る馬場の近くで、半開きの扉から昂奮した声が聞こえ、肥った女が泥相撲をやっているのがかいま見えた。店員に危うく引っ張り込まれそうになり、必死に腕を振りほどいたそのとき、荒々しい音楽が地下の小窓から突き上げてきた。KVは一瞬、足を止めたが店の戸口にたむろする革ジャンの屈強な男たち、ハルプシュタルケとかシュレーガーとか呼ばれる連中に気づいて考えなおした。厄介ごとに巻き込まれるのはまっぴらだ。執拗につきまとうポン引きを無視して突き進んだ。グラフィックデザイン科の同級生たちのあれで男? がっかりねという聞こえよがしな陰口や、AKの冷ややかな拒絶が脳裏に蘇って歩みを止めた。そんな自分を変えたいと思ったのではなかったか? すぐに引き返した。強い訛りで猥談に興ずる男たちはKVを一瞥もせずに通してくれた。入場券を確認され手の甲に判が押された。暗がりでつんのめった。座るか出て行くかどっちかにしろと給仕に嗤われた。
 湿った熱気に包まれた地下牢めいた店には、五百人は収容できるフロア、舞台が霞むほど充満する紫煙、天井に吊られた投網やガラスの浮きや船のキャビンを模した円い窓、二艘の木製救命艇を縦半分に切った椅子、席やカウンターにひしめくがさつな客、拳銃型の催涙ガスやメリケンサックや警棒で武装した白ジャケットの給仕、元ナチの支配人、それに敗戦国ドイツの若者KVが生まれてはじめて体験する正真正銘のロックンロールがあった。それまではお高くとまったジャズやナット・キング・コール、せいぜいがプラターズまでしか聴いたことがなかった。KVが入店する直前に僕らと交代して舞台に上がったのはリンゴ・キッドならぬ「  指輪のリンゴS」(当時はこういう西部劇風の命名が流行っていた)ことRが当時在籍していた人気バンドで、ぱっとしないながらも唯一ドラマーにだけはKVも心を掴まれたことになっている。僕ら若きロックンロールバンドは当時、英国港町の業者にとって、低賃金と過酷な労働条件でいくらでも搾取できるお手軽な輸出品だった。僕らは業者のお情けでエロ映画館のスクリーン裏にある便所の臭いのする狭い物置、いや物置呼ばわりしたら物置に失礼と思えるような用具置き場で寝泊まりしていた。窓は中庭を見下ろすやけに高い位置に小さなのがひとつあるきり、鰯の油漬けのほうがまだしも快適と思える暮らしで、いちばんましな簡易寝台はもちろん僕が占有していた。二階の老婆が騒音に苦情を申し立てくれたおかげで追い出された前の店に較べたら、その職場は僕らにとっちゃ大出世だったのだけれど、KVにしてみればいつ命をとられてもおかしくない物騒な場所に見えたはずで、かれはマッチョな水夫や港湾労働者に髪型や黒ハイネックを指さして嗤われるのにも気づかず、ぬるいビールを啜りながら、友人たちに話して聞かせたらきっと驚かれるにちがいない冒険に胸躍らせていた。最初のバンドにはそれほど感銘を受けず、歌手の派手なステージ・アクションを冷静に観察する余裕すらあったものの、交代して「ヒッピー・ヒッピー・シェイク」をりだした次のバンドには度肝を抜かれた。大股に床を踏みしめて顎を突き出し、独特の声で卑猥な冗談をがなる男。如才ないMCを仲間らにからかわれつつ、眠たげな顔でリトル・リチャードばりに歌う男。耳が大きく眉毛の繋がったまだ少年のように見える男。その三人が盛大に足踏みして背後のドラムを牽引し、仲よしの仔猫よろしく小突き合いながら声を重ねてギターを掻き鳴らすかたわらで、ひたすら寡黙に演奏するベーシストにKVは痺れた。絵具を叩きつけた絵が酔狂な金持に売れた金でむりやりヘフナー五〇〇/五を買わせ、拉致同然に連れてきたものの、ちっとも巧くならないんでピートBを除く僕ら全員に虐められていたSだ。
 当時は僕ら全員が、自分のほうがはるかにいい男だと自負していたけれど、その夜のSは痴話喧嘩でやさぐれたKVの目に、黒眼鏡をかけてでかい楽器を構えたジェイムズ・ディーンそのものに見えた。そんなすかした男が俯き加減に背を向けて、不器用な手つきで子宮や睾丸に響く太い音を鳴らすものだから、男らしさの欠如やら過剰やらに悩んでいたKVにはまさに後光が射して見えた。イッヒ・イケテルンとかなんとか茫然とつぶやいた。それこそ人生を覆されるほどの衝撃だった。実際この夜を境にKVはグラフィックデザイナーとしての輝かしい前途をあっさり棄て、あまつさえ僕らのあとを追って渡英し、ベーシスト兼装画家として数々の名盤に名を残すことになる。ブルーノートやプレステッジの円盤蒐集でグラフィックデザインに目覚めたとき以上の劇的な転向で、そのことに僕らは責任を負うべきなんだろうけれど、あいにくKVの初来店はまるで記憶にない。いつも通り便所掃除のおばちゃんに横流ししてもらった減量薬(「豆ッコ」と僕らは呼んでいた)や、暴力団員らに押しつけられた「名誉戦傷章」なる三角形の青い錠剤(おぅズィー  お×んぽピーデルズ、バンバンやぁプローォスト、がっはっは!)を、客に奢られたビールで流し込んでぶっ飛んで、どうせ英語なんてわかるまいとばかりナチ野郎ども聴きやがれとかなんとか叫び、まだ見ぬ米国から貪欲に仕入れたレパートリーの数々を、跳んだり跳ねたり屁をこいたりガムを噛んだり飯を喰ったり中指を立てたり煙草を吹かしたり寝転がったり結露したアンプにもたれて居眠りしたりあらゆるものを蹴飛ばしたりしながら、夜通し演奏しつづけていた。「ホワッド・アイ・セイ」みたいに受ける曲はそればかり引き延ばして十五分もやった。水夫や売春婦や犯罪者はほとんどだれも聴いちゃいなかったし、のちに大成功してからも十代の女の子たちは叫んで失神するばかりでだれも聴いちゃいなかったんで、ロックンロールとは金にはなるがだれも聴いちゃいない音楽だといまでも思っている。その金でさえ常時配信時代では雀の涙だ(「  ほんの鶏の餌ミア・チキン・フィード」に相当するこの表現はGの取り分で揉めたときMに教わった)。ところがこの夜のKVは聴いちゃいないどころか、僕らの狂気に感染したかのように夢中になった。
 果たしていまの若いひとたちにわかってもらえるかどうか。僕らの世代はあの頃、退屈な自分を変えてくれる力を猛烈に欲していた。終戦から十五年も経っていたけれど、僕らの港町はかれらによる空爆を、かれの港町は東西を引き裂く敗戦や知らずに加担した罪を引きずっていた。ふたつの空を覆う暗い雲を吹き飛ばしてくれたのがロックンロールだった。その音楽がどこで生まれたかなんて関係ない。それは僕らの世代の発明だった。KVは深夜三時の閉店まで数杯のビールで居座った。Rが叩いていたバンドと一時間交代で出演するザ・Bを、最後の客となって追い出されるまで三度も観た。下ろして切り揃えられた髪から湯気を発してアルトナ地区へ戻り、自分のアパートではなくAKの屋敷へ直行して呼び鈴を連打した。数時間後には身支度をして写真スタジオへ出勤せねばならないAKは、安眠を妨げられた母親を気にしながら迷惑そうに出迎えた。彼女の顔を見るなりKVは目撃したものについてまくしたてた(こないだ孫に教わったところではこういうのを「ナード特有の早口」というらしい)。かれを無口で繊細と思い込んでいたAKは衝撃を受け、口論のつづきであるかに感じた。男特有の理解しがたい粗雑さの魅力を訴えて女の自分をやりこめようとしているのだと。落ち着かせようと台所でお茶を出してやり、頼むから一緒に行っておくれよきみだって実際に見りゃわかるよと懇願されてはじめて、目の前の男がよく知るいつものKVに思えてきたが、しかし早朝に明晩というか今夜の話をされてもピンとこないし、何よりどれだけ拝み倒されようが、のこのこと治安の悪い盛り場へついていく気にはなれなかった。暗がりへ連れ込まれ強姦される恐怖はKVには理解できまい。どんなに華奢に見えてもこのひとは男で、どんなに髪を短くし革パンを穿こうが自分は非力な女なのだ。そして肝心な事実として、恋人を暴漢から護るほどの腕力がKVにはない。絵筆や鉛筆や製図ペン以外の得物を振りまわすさまが想像できなかった。子どもの頃には母親に楽器を習わされていたと聞いたこともあるけれど、なんならそれすらも想像できなかった。
 約束だよ、きっとだからねと何度も振り返るKVを押し出すようにしてようやく追い払い、深く溜息をついた頃には朝日が射していた。AKは睡眠不足で出勤せねばならなかった。虐殺に怯えた戦時中の反動からか男性バレエダンサーとの同棲を隠しもしない温厚な師匠からも、顔色の悪さを訝られ心配された。早退してもいいといわれたが断った。かれに体調を悟られたのが悔しく恥ずかしかった。個人的事情で迷惑をかけまいとAKは普段にも増して熱心に働いた。照明を調節したりフィルムを換装したりモデルの女の子の世話をしたりしながらも定時になるのが憂鬱だった。繁盛するスタジオの一日はあっという間に過ぎた。案の定KVは職場の前で待ち構えていて、こちらの顔を見るなり犬が尾を振るがごとく、嬉しそうにさあ行こうといった。お風呂に入って寝なきゃいけないの、あしたも仕事なんだからとAKは撥ねつけた。わたしはあなたと違って稼がなきゃいけないのよ……。そういって恋人を追い返してからAKは自己嫌悪に駆られた。戦後の食糧難では人並みに栄養失調まで経験したものの、実業家の祖父のもとでほぼ不自由なく育った自分が何をいうかと思ったのである。服飾デザインをやりたかったのに恩師のもとで成り行きで見習いをしているわたしと異なり、早くから実家を出て働きながら学んでいたKVは自力で職を得た。自分が何者であるかを見極めて人生を切り拓き、独力で生活を成り立たせているのだ。むしろわたしのほうが周囲に流されてばかりで、いまだ実家暮らしで親離れすらできていない……。AKは悶々としてその夜もろくに眠れなかった。
 一方断られたKVはそれほどめげていなかった。ザ・Bの演奏を見られるのが楽しみだったからだ。睡眠不足などものともしなかった。この夜も五人は最高だった。はじめて見たときとおなじく大昂奮し、寡黙なベーシストとお喋りな三人のギタリスト、ひとりひとりの魅力に夢中になった。別のバンドに交代した頃には紫煙に霞む広大な店内を観察する心の余裕もあった。犯罪者に売春婦に水夫に湾岸労働者、表情ひとつ変えずにそいつらと渡りあう強面の給仕……。すぐ近くの席に変なやつがいるのに気づいた。泥と垢にまみれた顔に皮脂で固まったような髪。比較的新しい作業服や靴を身につけているが港湾労働者には見えず、顔や手の汚れ具合とも不釣り合いで、まるで追い剥ぎや辻強盗でもやって手に入れたかのようだ。身長や体格こそ自分や舞台上の若者たちと変わらぬものの、顔立ちはどうも東洋人のように見える。無銭飲食でもしようものなら命がないこの店で、さほど金まわりがよさそうにも見えぬのに舞台を凝視しながらシュナップスを立てつづけに干している。さながら本来そこにあるべきではない異物が紛れ込んだかのような強烈な違和感があった。好奇心に勝てずに観察した。東洋人が気づいて振り向き、視線が合った。


(1975年6月18日 - )著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『血と言葉』(旧題:『悪魔とドライヴ』)が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。代表作に『ぼっちの帝国』『GONZO』など。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。