CLOUD 9

連載第5回: Get Off Of My Cloud(2)

アバター画像杜 昌彦, 2024年09月27日

気がつくと後ろ手に縛られて床に転がされ、おなじ目に遭った連中とともに揺られていた。酸っぱい吐瀉物と体臭と便臭と血の臭いが車内に堆積していた。有刺鉄線で囲まれた運動場へ連行され、だれからもなんの説明もなく夜明けまで放置された。烈しい雨が降ってやんだ。陽が高く昇るとようやく縄を解かれ、サイズの合わない服と靴、百年前の錆びついた銃を与えられて泥のなかを匍匐前進させられた。拒んだ者はボットにあっさり射殺された。仲間の血や脳漿を浴びて風呂に入るどころか着替えもさせられぬまま、翌日には弾薬も食料もろくに与えられず、代わりに入り組んだ組織図の最下級の徽章だけを与えられて、恩赦を期待した囚人や騙されて連れてこられた出稼ぎ外国人もろとも、前線の塹壕へ放り出されていた。灰色の空、どす黒い血と肉、暗い茶色の泥と糞だけの世界だった。烈しい雨に打たれ、泥に膝まで浸かりながら、Mはやみくもに銃を撃ったり身を伏せたりし、そのたびに血や臓物の混じる土砂を被った。一瞬前まで隣で錆びた銃を撃ちつづけていた仲間の、頭を吹き飛ばされたりバラバラに裂けたり内臓や目玉が飛び出たりした遺体を、泥から掘り返し、担いであるいは引きずって運んだ。急に軽くなって振り向けば握った両脚の先が雲散霧消していたりもした。排便中に殺害されるのを畏れて垂れ流す者も多かった。そうなった人間の多くはほどなく死んだ。爪先が窮屈で幅が広すぎる軍靴は泥水でがぼがぼ音を立て、ふやけた足指が感覚をなくして腐りはじめた。蚊や蠅にも悩まされた。
 食料も弾薬も足りないのに兵士と黒い錠剤だけは絶え間なく供給された。人命は銃弾ひとつよりも安価な消耗品だとMは学んだ。出稼ぎ外国人は異国の言葉で家族の名を呼びながら死んでいった。犯罪者もまた次々にやってきては消えた。一緒に拉致された顔馴染みから自分たちは「挽肉の壁」にされたのだと聞かされた。独裁国家の侵略から自由な国を護るためだと。自由? 独裁? おれらはどっちなんだと問うと知るかよと肩をすくめられた。その浮浪児とも再び会話を交わす機会はなかった。対岸の敵やこちらの兵士が四肢や頭を吹き飛ばされるたびに、どちらもただ殺し殺されるためだけの人生だったかに思えた。それぞれの政府に見張られてさえいなければとMは夢想した。おい、ばかばかしいからやめようぜと歩み寄れるのに……。気がつけばMは最古参になっていた。足指の感染症や全身のすり傷、打ち身の類いを別にすれば無傷でいられたのは偶然でしかない。そこに奇跡めいた意味などなかった。残酷な見世物でたまたま舞台に残った端役でしかなかった。兵士は次々と補充され、塹壕に放り込まれる端から殺された。配給の黒い錠剤は恐怖を麻痺させ怒りを増幅するはずだった。Mにはただ嘔吐させられ、思考に霞がかかったようにぼんやりさせられるだけだった。幻覚も現実も塹壕の泥も降りつづける空も、自分のからだも引き裂かれた他人の遺体も、何もかも区別がつかなくなった。ただその瞬間の心許ない生にひたすらしがみつくしかなかった。
 黒い錠剤のおかげで夢も現実も境がなかった。周囲から沸き起こった雄叫びにわれに返ると戦況は一変していた。ドローンの号令でだれもかれもが塹壕を飛び出し、錆びた銃を乱射しながら敵陣へなだれ込んでいた。慌ててMも加わった。ドローンに制裁されたくなかった。隣で叫んでいた男が吹き飛び土砂と血と臓物が降りそそいだ。斜め後ろにいた男が撃ち倒されるのが聞こえた。敵陣へ到達する頃には敵兵は多くがすでに殺害されていた。たちまち制圧し装備や食料を奪い、子どもと女と老人と傷病者だけの集落へ侵攻した。ひとびとがただ生活していただけの住宅街を血と燃えさしだけにしたMの部隊は、ほどなく発電所らしき施設へ行き着いた。ドローンの指示で四、五名ずつに分けられて施設を包囲し、集落で殺さずにおいた人質を盾にして、合図とともに突入した。アルゴリズムが生成する建築物はどれも似通っているのか、判で押したような迷宮めいたつくりにMは既視感をおぼえた。途中で別れた班の人質が爆殺されるのが見え、発作的に隊列を飛び出した兵士が蜂の巣にされた。烈しい交戦になった。隣にいた男が頭を下顎だけ残して吹き飛ばされた。手榴弾が投擲され数名が吹き飛ばされた。血と硝煙とプラスティックの焦げる臭いが立ち籠めた。どうせ殺されるなら死に場所くらい自分で決めたい。視界が晴れる前にMは班から離れた。生まれた施設の記憶にもとづく勘を頼りに走った。銃声や爆発音が遠ざかる。逃げおおせたと思った途端に別班の生き残りに出くわした。元囚人が廊下の角から首を突き出して飛び出す隙を窺っていた。袖や襟首から覗く刺青に見憶えがあった。そいつが幼い子どもとその母親に何をしたかを知っていた。すぐそばに首から下を挽肉とぼろ雑巾のようにされた男がそれでもまだ死ねずに転がっていた。死をただ待つだけの虚ろな視線がMと合うなり恐怖の色を帯びた。声をあげられる前にMは背後から元囚人を、それから屍体も同然の男を射殺した。監視ドローンに気づかれた。幸いそのドローンはだれかを制裁したばかりらしく爆弾を抱いていなかった。撃ち落とされる前にそいつは仲間の群を呼び寄せた。
 前方の扉が解錠され開け放たれていた。Mは天井の高い洞窟のような場所へ逃げ込んだ。なんの考えもなく追い詰められて選んだその行動が、かれと僕ら、ふたつの世界をつなぐことになる。
 闇のなかで無数の小さな光が明滅し、はらわたが慄えるような低い唸りが響く。目が慣れると血管めいたケーブルの網をまとう巨大な装置が見えた。広大なフロアをさながら城砦のように占拠している。重要な設備に思えたが警備する人間もそれを監視するドローンもいなかった。銃撃や爆発音、ローター音や足音が近づいた。敵か味方かわからないが殺されることに違いはない。隠れる場所を探した。神社の祠のような箇所があった。扉の上に掲げられた札は「大群九號機クラウド・ナイン」と読めた。Gがのちに自作曲の題名にするあの言葉である。重い扉を開けるとちょうど人間がひとり入れる空間があった。内側から締めた。逃げ場を失った空気が鼓膜を鈍く打った。Mは闇のなかで身をすくめて呼吸を殺した。装置の熱に全身を覆われ息が詰まった。フロア中へ散開したローター音や足音のいくつかが間近を過ぎる。高まる動悸で気取られそうだ。その音は装置の脈打つ唸りだとやがて気づいた。金属的な甲高い音は耳鳴りか高周波音かわからなかった。脳が潰れるほど鼓膜が圧迫され気が遠くなった。網膜の奥から光が爆発して世界を埋め尽くした。脳と全身が歪んで引きちぎられるかに感じた。ついに順番がまわってきたのだと思った。
 脈動のような唸りは唐突に消えた。光だけが残った。
 恐る恐る目をあけた。煉瓦の建物と建物のあいだにMは佇んでいた。往来が目の前にひらけていた。棺のような装置も施設も兵士もドローンも消失していた。老若男女や車が広い通りを行き来していた。ひとの衣服も車も赤や水色や緑や茶色や黄色などさまざまな色で、バスやトラックや自家用車はどれも煤けたガスを排出しており内燃機関で走っているように見えた。大気は濃く、血や泥とは異なるにおいに満ちていた。煙草や食べもの、整髪料や白粉、それにガソリン。糞のにおいはしたがそれは犬の糞で、腐敗臭は屍体ではなく背後の生ゴミや、市場の果物から漂う甘い香りだった。曇天で湿度は高かったものの、建物や路面を覆う埃は気候変動の土砂降りを知らぬかに見えた。だれもが帽子を被っており男の多くは背広姿だった。Mはブリキ製ゴミバケツの陰に銃を隠して夢遊病者のように歩み出た。ゴム底が普及していないのかひとびとの靴音は機銃を思わせるほど高かった。すれちがいざまに肩がぶつかりMに舌打ちした男は喫煙していた。棺を流れ出てから煙草なんてものを現実に見たのは初めてだった。
 Mは熱に浮かされたように茫然と人混みを歩いた。貧民街では臭いや音が許されず、だれもが監視ドローンに怯えて息を潜めて暮らしていたし、戦場では鼻を刺す悪臭と鼓膜を破る爆音しかなかった。この街はそのどちらとも違った。ドローンも敵機も装甲車も見当たらない。路地裏で子どもたちが笑い声をあげて遊んでいた。殺したり奪ったり犯したりする男たちの残忍な笑みしか知らなかったMは衝撃を受けた。ひとびとの未来である子どもは、元いた世界では絶望で支配するための道具でしかなかった。それがここでは生きて自分たちの好きなように動き、ドローンや爆撃や社会病質者に脅かされることもなく、煤まみれの笑顔で自転車のチューブか何かを転がして追いかけっこをしている。装置に閉じ込められ気を失ったまま長い歳月が過ぎ、世界が反転したのか。それともあの戦争が夢でこちらが現実なのか。思えば棺から出る前も別の悪夢にいた。今度もまた人生をやりなおすのか。バス停のベンチにはパイプをくゆらしながら新聞を読んでいる初老の男がいた。Mには知りようもなかったけれど、青少年犯罪が激増していたかれの母国では、このおなじ日に社会党の政治家が十七歳の右翼に刺殺されている。事件の余波で子どもたちから刃物が取り上げられ鉛筆削り器が普及し、社会党が野党第一党となって、憲法改正による軍拡が長らく阻止されることになる。新聞はドイツ語で書かれており、日付は一九六〇年一〇月一二日水曜日。僕らが出逢うちょうど九日前——そう、またしてもこの数字だ。


(1975年6月18日 - )著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『血と言葉』(旧題:『悪魔とドライヴ』)が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。代表作に『ぼっちの帝国』『GONZO』など。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。