ジュリアーニ以前、まだソーシャルメディアもなく、殺人が日常茶飯事だった僕の街では、Mの死は数行の記事にさえならず、十五分間の名声を得ようとした襲撃者にはお気の毒なことに、一瞬たりとも話題にならなかった。Mが何者であるかは警察もついに突き止められなかった。あるいは僕のまわりを嗅ぎまわっていたCIAなら知っていたのかもしれない。ものぐさな僕らは身内のだれに対してもそうしていたように、 下の名前を縮めた一音節だけでかれを呼んでいたので、苗字のほうがラテン語で死を意味することには気づきもしなかった。いま思えばちょっとできすぎた話で、本名は別にあったのではと僕は疑っている。かれが語る前世の逸話には、一緒に大麻やLSDをやっていてさえも妙な気分にさせられた。目の前のかれと似ているところが少しもなかったからだ。Mは僕とおなじくらいの背丈で、運動神経も物憶えも悪からず、僕と張り合えるほどの大酒飲みだった。何より一緒にいて楽しかったし、僕ほどじゃないにせよ友だちになりたがるやつは多かった(その割に親交を結んだ相手は少なかった……まるで情が移るのを畏れたみたいに)。必ずしも折り合いのよくなかったPやYとでさえも、特定の話題では意気投合したり、視線だけで意思疎通をし合うような場面を何度も見たし、RやGとはもちろん、僕らの仕事仲間のだれともうまくつきあっていた。とりわけ伯母とは気が合ったようで、Mと仲違いしてから、あの中国だか日本だかのお猿さんはどうしてるんだいと何度訊かれたことか。つまらない意地の張り合いはよすんだよ、などとPとの間柄についてさえいわれたことのない説教をされたりもした。いま思えばMは気難しく頑固な伯母から笑いを引き出す貴重な才能の持ち主だった。辛辣に罵り合いながら笑い合っていたふたりが懐かしい。
本人が語ったところによれば、僕らが知るバージョンのMは複製時の遺伝子操作によって、先天性のあらゆる欠陥を修復されたのだそうだ。かれが前世と呼ぶ原型は小柄なRより三インチも背が低く、深夜に鏡を見ると自分でも不安になるほど醜くて、重度の近視(僕よりひどかったそうだ)と、軽微だが社会生活には差し障るほどの知的障害を抱え、ビール一杯で赤くなるほどの下戸で、何をやらせても満足にできない無能をだれからも疎まれ、蔑まれ、友も家族も恋人もなく、生まれた地方都市から一歩も出ずに、スーパーマンに生まれ変わった自分が活躍する内容の、だれにも読まれぬSF小説を書きながら生涯を過ごし、最期には取り壊しを理由にアパートを退去させられ、新たに部屋を借りる金もなく、お情けで雇われていた非正規の職も失って、冬の路上で餓えと寒さと心臓麻痺で死んだという。享年四九歳。哀しむ者は身元不明の遺体を片づけさせられた市の職員くらいで、ヘンリー・ダーガーならぬMの原型は、非現実の王国を死後に見いだされることすらなかった。再生されたかれを殺すことになる色つき眼鏡の狂人にでさえ、愛してくれる妻や、世界旅行をしたり楽器を弾いたりする豊かな人生があったというのに……。
ちなみに加害者のことをなぜ詳しく知っているかというと、事件のあとその妻(僕とYのパロディであるかのようにこの女もまた日系人だった。日本人の妻がいる男の旧友である日本人を、日系人の妻がいる男が殺したわけだ)がわざわざ僕ら夫婦に連絡してきて、犯人がいかに善良な人間であるかを力説したからだ。会えばきっと好きになるとまでいわれた。YやPもこれには憤慨していた。文字通りの無名人を殺したところで大した罪にはならず、犯人は数年で出所した。いまでは孫に囲まれて幸せに暮らしているだろう。若き日の殺人を武勇伝のように語ってさえいるかもしれない。Mの話しぶりからすると原型の死はたぶんいまから数年後で、せめて本名でもわかればとも思うけれど、わかったところで、遠く離れた日本の浮浪者のためにしてやれることは何もない。Mの話が本当なら、そこまでの無能に与えられる仕事は、音楽業界ではテイラー・スウィフトの次に金持といわれる僕もさすがに持ち合わせない。
天才電子工学者を自称する詐欺師や、社会病質の破壊活動家といった、金を目当てに群がってくる連中にさんざん騙され、痛い目を見てきた僕だけれど、Mの話はさすがにイアン・フレミングやフィリップ・K・ディックの読みすぎだと思っていた(後者はかれのご贔屓の作家だった)。でもいま振り返ればかれの学習能力には、確かに常人離れしたところがあったようにも思う。Yと早口の日本語で口論していたからあれが母語なのは確かだし(あの光景には嫉妬させられた)、初対面の自己紹介はKVに似たドイツ語訛りだったのに、閉店で別れる頃には僕らそっくりのリヴァプール訛りになっていたのはいまでも鮮明に憶えているし、フィリピンで僕ら全員が殺されかけたときには片言のタガログ語で暴徒を説得しようとしていた……通じたようには見えなかったけれど。一九六四年六月の世界ツアー直前にRが流感で倒れたとき、その場しのぎの代役をいつもの悪ふざけで押しつけたら経験がないと渋っていたのに、わずか一時間ほどPが教えただけで、音がまるで聞こえなくても僕らの頭の動きだけを見てそこそこ叩けるまでになったこともある(特殊メイクの東洋人がRとすり替わっていることに観客のだれも気づかなかった。金切り声を上げて失神さえできればだれが演奏していようと構わなかったのだ)。そんなわけで、いまでは——というよりMPと風呂上がりにバルコニーでUFOを目撃した一九七四年の夏以来は、かれが話してくれた素性を半信半疑ながら受け入れている。
逆にいまでは疑念を抱いていることもある。Mが暴力を厭う気持はまんざら嘘でもなかったろう。何しろあの心優しい巨漢MEの、無害なマカロニウェスタン趣味にさえ眉をひそめ、誤解を招くとかなんとか難癖をつけて、玩具の拳銃を取り上げようとしたくらいなのだ。でも僕が思うに、Mにはどこか危険な陰のようなものがあった。グロッセフライハイトの地下牢めいた店の用心棒HFのような人種や、僕ら夫婦の永住権取得を妨げた活動家連中なんかが、あたかも虚勢を張る幼児に見えるほどの野蛮さが。つまりいいたいのは、本当にMが僕らにそう思わせたような温厚な人物であったなら、いかに強化された身体能力や物憶えのよさをもってしても、話してくれたような戦場を五体満足に生き延びられたろうか……ということだ。一九六九年にフィル・スペクターの人間性を腐して僕らを怒らせたとき(つまり、そのときかれのいったことは最終的には正しかったわけだが)、Mは口を滑らして前世の両親を引き合いに出した。ろくでなしの親父を恥に思っている僕でさえもこの話にはぎょっとさせられた。その遺伝的欠陥も修正されたのだろうか、むしろ兵士に有利な性質として残されたのではあるまいか。未来では「生産性」のない個体は「淘汰」されるんだ、とかれは語った。戦場での殺人も否定しなかった(辛辣に問い詰めたけれどただ曖昧に笑うだけで答えなかった……ってことはやったのだ、それも何度も)。あるいはその遺伝的形質こそが正常と見なされた畏れはないか。一九六〇年秋、僕らと出逢うまでの八日間をMはあの港町のどこでどうして過ごしたのか。血と泥にまみれた軍服や靴の代わりにまともな服や靴、それにあの店で夜ごと飲み喰いする金をどうやって手に入れたのか。銃を売り払ったのか、それとも——虐殺と略奪を加害者として経験したらしい過去(「未来」というべきか)からいって、もっとあり得ることだけれど——使ってからエルベ川か運河にでも棄てたのか。単純に問い質すのを思いつかなかったせいもあるけれど、いま思えばあの頃の僕らは、答えを知るのがなんとなく怖かったのかもしれない。
ハンブルクで僕らが出逢う数週間前といってもいいし、百年後といってもいいのだけれど、Mは気づくと地獄にいた。それまで赤くどろっとした培養液に浸かって前世の夢を見ていた。その夢もまたろくな世界ではなかった。夢が破られたのは棺が破壊され、流れ出る溶液とともに燃える外界へ押し出されたからだ。Mは咳き込んで溶液を吐き出し、ピンクの鼻水を垂らして自分の呻きを聞いた。重力に逆らって体を起こす。四方八方に迫る炎、焦げる人体やプラスティックの臭い、ドローンの群が飛びまわるローター音、爆弾が投下される風切り音、建物や装置が破壊される雷鳴のような音。大量の瓦礫とともに棺の破片やばらばらに損壊された裸の人体が散らばっていた。人間の形を成さぬうちに外気に触れ、濁った泡となって崩れた肉塊もあった。施錠された頑丈な扉や自動運搬車の類いはいずれも破壊されていた。自分がだれでなぜそこにいるのかわからなかった。わかるのは逃げねば死ぬということだけだ。よろよろと立ち上がり、崩れた壁や燃えていない箇所を求めてやみくもに走った。膚や素足の裏に火ぶくれができ血が滲んだ。熱や煙にさらされる膚や粘膜を無防備に、股間で揺れる器官を煩わしく感じた。誰にも愛されなかった夢の残滓が逃げてどうなると思わせた。かといって引き裂かれて焼かれる苦痛はご免だった。
炎と煙、衝撃や落下する瓦礫に追われた。銃を構えた兵士が折り重なって倒れていた。多くは全身が孔だらけで引き裂かれたり焼かれたりしていた。比較的損傷の少ない遺体から服と靴を剥ぎ取って身につけた。煙で視界のきかない迷宮に、燃えていない空気が流れ込んでくるのを感じ、その風を頼りに外の世界へまろび出た。監獄のような高い壁に谷間のように崩れ落ちた箇所があった。犬のように舌を出して荒く呼吸しながら這い出た。星のない夜空にはドローンが雲霞のごとく群がり、炎に照らされながら、虫が卵を産むようにぽろぽろと爆弾を落としつづけていた。駆け抜けた直後に背後が吹き飛び、土砂や細かい瓦礫が降りそそいだ。家を焼かれたひとびとが着の身着のまま逃げ惑っていた。血まみれの者や毛布にくるんだ子どもの遺体を抱えた者もいた。傷ついた群衆とともに右往左往し、どぶの悪臭が立ち籠める貧民街へいつしか紛れ込んだ。裏通りでうずくまり耳を塞ぎ目を固くつむった。そうしてみたところで産み落とされたばかりの培養人間には逃げ込むべき過去もなく、あるのは前世の悪夢だけだった。落雷のような地響きは小一時間つづいた。やんだところで苦痛の叫びや嘆きの声はやまなかった。そしてほかのどの爆撃とも同様に、別の場所が空爆されたり地上部隊に襲撃されたりするまでの小休止にすぎなかった。
Mは裏通りの暮らしに適応した。昼は闇市の雑踏で大人たちから盗み、夜は高架下やトンネルや焼け跡の廃墟で段ボールにくるまって、靴や尊厳を奪われぬよう浅く眠った。支援物資のコンテナがどこからともなく射出され、空爆同然に建物を破壊し大勢を下敷きにするたびに、血と粉塵にまみれた食料を先を争って奪い合った。大勢の世帯が暮らす集合住宅はなんの前ぶれもなくミサイルで爆撃された。病院や学校、とりわけ小児病院や保育園が狙われた。双方の取り決めで定められた避難場所も標的にされやすかった。空爆の直後には血の滲む袋を抱きかかえて茫然と歩く若い親をよく見かけた。薄汚れた顔のひしめく闇市は警察装甲車の無限軌道で蹂躙され、逃げ惑う群衆は銃弾でなぎ払われた。逃げ遅れて脚の長い深海生物のようなボットに群がられた女と、その腕に抱かれた乳児は、小突きまわすのに飽きたボットが四方へ散ると、地面の黒い染みだけになっていた。敵軍や政府のドローンが捕捉する標的もまた子どもやその母親ばかりだった。幼い浮浪児が爆殺されるのをMは幾度となく目にした。頭上に忍び寄るかすかな羽音に気づいたときにはもう血飛沫とともに四散している。路地裏に小さな手脚が転がっていても、野犬がそれを咥えて走りすぎてもMは何も感じなくなった。一度など明らかにそれとしか思えぬものを金盥で煮る男を目撃した。垢まみれの男たちが臭いにつられて群がっていた。
生き長らえる意味も感じないがほかにどうすることもできない。獣のような日々を惰性で過ごすうち「鼠狩り」に遭った。いつ自分の番が来るかと怯えていたのでかえって安堵したくらいだ。高架下で空腹をこらえてうずくまっていると警告の叫びを聞き、囚人護送車の前照灯を見た。急ブレーキとともに装甲扉が開き、警察ボットがまさしく蜘蛛の子を散らすようにガシャガシャと飛び出した。探照灯がせわしなく闇を裂き網膜を灼く。浮浪児らは狂ったように逃げ惑う。金属製の脚が次々に顔馴染みを突き倒し、電撃を加えて捕らえた。加減を誤って串刺しにした浮浪児を高く掲げ、失望したかのように投げ棄てるボットもあった。Mは全力で走ったが空腹で力が入らない。足がもつれたところを背後から殴られて転ばされ、地面に押さえつけられた。油とプラスティックの臭う重い金属にのしかかられ、胃液を吐いて気を失った。
連載目次
- Born on a Different Cloud(1)
- Born on a Different Cloud(2)
- Born on a Different Cloud(3)
- Get Off Of My Cloud(1)
- Get Off Of My Cloud(2)
- Get Off Of My Cloud(3)
- Obscured By Clouds(1)
- Obscured By Clouds(2)
- Obscured By Clouds(3)
- Cloudburst(1)
- Cloudburst(2)
- Cloudburst(3)
- Over the Rainbow(1)
- Over the Rainbow(2)
- Over the Rainbow(3)