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CLOUD 9

連載第2回: Born on a Different Cloud(2)

アバター画像杜 昌彦, 2024年08月30日

母は成熟した女性や保護者というよりも、どちらかといえば映画や音楽や踊りを教えてくれる歳上の女性といった風だった。悪い遊びを憶えた甥が、躍起となって社会常識を教え込もうとする伯母から逃げ込むには、母の家はぴったりの隠れ家だった。伯母がせっかく入れてくれた小学校に、父に拉致されたおかげで通えなくなったりしたせいで、すっかり勉強がわからなくなった僕が、近所の悪童どもとつるんで不良の道を突き進んでいると、母は道理を説くどころか、もっと学校をサボれと焚きつけてきた。母が女性用下着ニッカーズを頭にかぶって、男たちの視線を浴びながら堂々と通りを歩いたり、近眼のくせに普段は眼鏡をかけず、珍しくかけたと思えば、世間話をしながら何気ないそぶりでレンズのない縁に指を入れて目を擦り、相手をびっくりさせたりするたびに、僕らの仲間は腹を抱えて笑ったものだ。感性や考え方が教師や普通の親たちよりも僕らにずっと近くて、当時は話がわかる大人だと思っていたけれど、二児の父親となり母よりも年長となったいま振り返れば、伯母の懸念もむべなるかなと思える。母が亡くなる二、三年前のことだ。いつものように学校に行かず母の家でだらだらと過ごし、一緒にベッドに寝転んでふざけあっていると、何かのはずみで手が彼女の乳房に触れた。当時は階級の高くない女性が夫の不在時に、近所の子どもを家に招き入れて大人の手ほどきをするようなことがよくあって、僕自身そんな経験をしたばかりだった。僕は冗談をいいつづけて動揺を隠したけれど、彼女は明らかに勘づいていて、なおかつちっとも気にしていない風だった。もし僕が近所の大年増にされたことがもとで、それ以上のことをおっぱじめたとしても、母はただおもしろがって許したろう。僕と母がおもしろがるものは他人と違っていて、それを他人におもしろがらせ得るか否かでよくPと議論したものだ。実際、Pと喧嘩別れしてから二番目の妻とつくった作品の大半は売れなかった。僕はどれもおもしろいと思ったのだけれど。
 母は息子がおもしろがるものはなんだっておもしろがってくれた。共有できなかったのは読書の楽しみだけで、どのみち僕も落ちこぼれの問題児になる頃には本なんてあまり読まなくなっていた。作家になる夢は音楽、それもメンディップスで禁じられていた電蓄が奏でるロックンロールに取って代わられた。母と僕はエルヴィスにあわせて台所で踊った。母が教えてくれた弦の押さえ方がでたらめだったことはPとつるむまで知らなかった。はじめのうちはバンジョーで満足していたけれど、当時すでに漫談芸人しか使わなくなっていたその楽器を、やがてださいと思うようになった(ザ・モンクスのことは一九九四年に次男に教わるまで知らなかった)。ジーン・ヴィンセントもエルヴィスもロニー・ドネガンもギターじゃないか、やはりロックンロールにはギターでなくちゃ……というので、腕力にものをいわせて同級生から安物ギターを借りパクした。そいつがだれだったかもギターを最後にどうしたかも憶えていない。礼状を添えて返したりはしなかったのは確かで、たぶん弾いていて壊れたかふざけて壊したかしたのだろう。思い出話を披露するときにはこのお粗末な代物はなかったことにして、雑誌に通販広告が出ていた南アフリカ製のギャロトーンチャンピオンが最初だったことにしている。根負けした母が月賦で買ってくれたのだ。生まれてはじめて本物の楽器を手にした気でいたけれど、実のところ四分の三サイズで材質はぺらっぺらの薄板。サウンドホールを覗くと「割れない保証書」(おなじ文句と思われる外国語も併記されていた)なるシールが貼られていた。記憶では十ポンドだったが最近になって二二ポンド五シリングもしたらしいと人から教わった。顔面神経麻痺トゥイッチーは一年近く隔週で一ポンド以上も支払わされたわけだ。この頃にはほしいものはなんでも母にねだって手に入れていて、そのちょっと前にも派手な柄シャツを買ってもらったばかりだった。母の愛人のことはあまり好きではなかったけれど、この点においてだけは感謝せねばならない。まぁ、どのみちこのギターも怒りにまかせて粉砕してしまったんだけどね。当時の僕はピート・タウンゼントやジミ・ヘンドリックスより十年は先を行っていた。
 相変わらずだれもが友だちになりたがり、取り巻きには事欠かなかったけれど、僕はしだいに盗みや悪ふざけに飽きつつあった。つるむ仲間も変わってきて楽器を弾けるやつだけが残った——もしくは僕の罵倒や毒舌に平然と切り返せるやつだけが。母は通販ギターの届け先をメンディップスではなく自分の家にした。そうすれば息子が練習のために通ってくると期待したのだ。「子ども騙しのやかましい音楽」を伯母がきらったせいもある。はたして母の思惑通りになった。リトル・リチャードばりに歌えるPと知り合ったのもこの頃で、僕は伯母に、前年に母親を癌で亡くしたばかりのPは父親に隠れて、それぞれの家を行ったり来たりして練習するようになった。やがてピンクのシャツを着たクルーカットのGが僕らの尻を追いまわしはじめた。ギターの腕は立つし和音もいっぱい知っているとはいえ、まだほんの餓鬼だったので、僕の地位を脅かす畏れはなかろうと仲間に入れたのだ。ところがいかんせん幼すぎてデート中だろうがなんだろうがお構いなしについてくるので、交際をはじめたばかりだった最初の妻をうんざりさせたものだ。この時期の印象が強いせいで、あのシナトラにカバーされるほどの名曲を書くようになってからも、あいつの才能を僕は素直に認められなかった。Bの活動末期、そのことでずっと怒っていたMのことを思いだす。あいつはもしかしたら僕のよりGが書いた曲のほうが好きだったのかもしれないな。
 男手ひとつでふたりの息子を育て、演奏にも詳しいPの父親を、僕らの仲間はみんな尊敬していたけれど、向こうは大事な長男が僕とつるむのをよく思っていなかったし、それは当然であるにしても、僕らの音楽をなかなか認めてくれなかった。PBとステージママMBが登場するまで、息子が僕と音楽をやるのを歓迎したのは、僕の母を別にすればGの母親くらいだった。いま思えばあのひとも相当な変わり者だったな。もっとやれどんどんやれと応援してくれて、練習場所を提供してくれた上に夕飯をご馳走してくれることさえあった。豆料理やトーストを平らげながら愉快に盛り上がるうち、Pの母親の話題になった。猪突猛進で飽きっぽい僕とは正反対に、Pはいつだって如才なく一歩引いて観察し、叩いた石橋をみんなが渡りきってから決めるようなところがあった。ファッションだって薬だって仲間全員に誘われたときには手をつけず、あとになってこっそり自分だけで試す。自分の身の上でさえ冷静に客観視していた……というか当時の僕らにはそう見えた。知り合った当初からそんなところが好きで信頼していたし、同時にちょっと呆れてもいた。おれなら気が変になっちまうだろうな、とそのとき話したのを憶えている。その席で出た話題でもうひとつ記憶に残るのは不審者だ。真冬の格好をしておかしな黒眼鏡をかけた男が、まるでだれかを探すかのように近所をうろついているというのだ。雑誌に出てたマーロン・ブランドみたいな格好で、縁が黄色の黒眼鏡をかけたおっさんなんだってさとPがいい、Gはそいつの髪型や服装を詳しく知りたがった。知らねえよおれだって見てないんだから、じゃだれが見たんだよといい争うふたりを、正体はおれさといって僕はベラ・ルゴシの物真似で笑わせた。帰宅して伯母に話すと彼女も噂を知っていて、夜遅くにほっつき歩くのはやめなさいと説教された。
 息子が互いの家を行き来するようになったのをきっかけに、母は毎日のようにメンディップスを訪れて伯母とお茶を楽しむようになった。その夜は入れ違いで僕は母の家にいた——母がどんな用件で伯母を訪ねているかも知らずに。顔面神経麻痺が飲酒運転で逮捕されて免許証を取り上げられ、職を失ったうえに給料三週間分の罰金刑に処せられたので、今後の相談をしに来たのだ。食べ盛りの義理の息子に入り浸られるのが以前からおもしろくなかった顔面神経麻痺が、もうそんな余裕はない、夏休みのあいだじゅうタダ飯を喰われたんじゃかなわないと内縁の妻に告げたのだ。その夜に母と伯母がどんな会話を交わしたかは知らない。その話題はだれにとってもどうでもよくなってしまった。いつもなら母の愛人が車で迎えに来るのだけれど、そもそもそれが不可能になったのが訪問の理由だった。夜道を歩いて帰るのは億劫だし、不審者の噂もあってやめておこうとの話になった。少し歩いてウールトンロードからガーストン方面へのバスに乗り、さらに歩くという選択肢もまた却下された。メンローヴ通りを渡ってぶどう園の向かいで数分後のバスに乗り、ペニーレインでバスを乗り換えてスプリングウッドへ向かうのが楽だった。ふたりが門前で立ち話をしていると不良仲間のNWが僕を訪ねてきた。いいところへ来たわね、バス停まで送って頂戴と母はかれに頼んだ。母を尊敬していたNWは、光栄です喜んで、とうやうやしく腕を差し出し、かれの家のあるヴェイルロードまで並んで歩いた。


(1975年6月18日 - )著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『血と言葉』(旧題:『悪魔とドライヴ』)が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。代表作に『ぼっちの帝国』『GONZO』など。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。