音楽には R.S.Moore や Daniel Johnston や Momus や Martin Newell や Anton Newcombe がいるのになんで出版にはおれだけなんだ? 通販大好きおじさんは通販が好きすぎて通販をはじめました。 読んで書くのは文字をおぼえてから、 本をつくるのは 2010 年からずっとやってきた。 あまりにばかにされるだけなので 2017 年に考えなおし、 プロっぽくゴージャスにやろうと決めた。 そうすれば舐められないと思ってさ。 生まれ育った家がアーミッシュもびっくりのデジタルデバイド最底辺で、 そこから苦労して這い上がったのだけれど、 コピペと試行錯誤でどうにか動作する PHP を書ける程度にはなれた (ほんとうに理解して読み書きしているわけではないから堂々と 「できます」 とはいえない)。 読みたい本をだれも書かないから自分で書いて、 だれも出版しないから自分で出版して、 だれも売らないから自分で売る。 そしてだれも買わないから⋯⋯うっせえな、 ほっといてくれ。 クリックポストの宛名印刷用にモノクロレーザープリンタを物色していて、 関連商品のレビューをいくつか読んだ。 貧乏人ほど横柄なんだよな。 金は出さないくせにもっとよこせ早くよこせと騒ぎたて、 無料で上客扱いされないからと駄々をこねる。 加えて Amazon の客は幼稚なアニメとゲームとソーシャルメディアの価値を小説に求める (アニメとゲーム自体を幼稚だとか悪だとかいうつもりはない、 ソーシャルメディアは持たざる者から金とメンタルを搾取する悪そのものだけどな)。 だから高くて遅いペイパーバックを直販することにした。 電子は客層が悪すぎるからやめた。 そのあたりのことと、 こないだからずっとこだわっている自殺の件とがおれのなかではひとつながりなんだよ。
実際に読んでいいと思った本を売る。 『淡い焰』 や 『黒い時計の旅』 や 『メイスン&ディクスン』 を。 書評で集客→ナボコフやスティーヴ・エリクソンやピンチョンを買ってもらう→おれの望む 「客層」 を形成する&書いて売ってるおれに関心をもってもらう→おれの本を買ってもらう。 他人の本は金のやりとりが面倒なので慎重にやりたい、 まずはなむさんのめちゃ売れお天使をテストケースにする。 巨匠の本はうっかり一冊取引所で売れてしまったが幸か不幸か送料で大幅に赤字になり、 著者に還元する余地はなくなった。 金のやりとりが億劫なので在庫切れということにした。 今後どうするかはなむさんとの商売しだいだ。 いまのテンプレートは本に特化しているけれど、 いずれ修正してTシャツや缶バッジも売りたい。 シュウ君グッズには潜在的に商機があると思っている (LINE スタンプとかよさそうだとずっと思っているがストーカーが怖くて LINE を使っておらず実現していない)。 先行投資に金が出て行くばかりだ。 たかだか数百円の小銭を稼ぐためになんだかんだで十万くらい使った。 小説が金になればいいのになぁ。 でも投下資本の回収予測が立てられない商品を生産して売ることは営利企業にはできないし、 世間の価値観に歩み寄る能力はおれにはない。 テレビ局にしても出版社にしても、 いいものを見いだす能力と、 いいものをいいと広く知らしめる能力の両方が欠けている (最初からなかったのか衰えたのかは知らない)。 だからすでに実績のあるものしか手がけられないし、 すでにあるものを改めて世に出すということは、 それはもう、 これからつくられるものをすでにあるものに寄せなければならないということで、 要するに会議室で決まった企画を下請けに命じてその通りに書かせるということでしかない。 必然的につまらなくなるし、 そんなものしか見せられなければ客はいいものを見抜いたり味わったりする能力をなくす。 すでにあるものをなぞったつまらないものがいいものだと調教される。 短期的には儲かるがつまらないものはつまらないので、 いずれは 「世間でいいとされているものはつまらない」 ということになり衰退する。 大企業は都合の悪いことは下請けのせいにする。 だから物見高い外野に煽られて脚本家と漫画家が争う現状には、 しめしめとほくそ笑んでいるはずだ。 おれはそんなことのすべてがばからしいと思う。 大企業の会社員が会議室で決めたつまらない企画で書くなんてことはしたくないし、 したくてもできない。 そんなもの出版するなよ、 資源の無駄だろと思う。 四半世紀前にやらされそうになったけれどできなかった。 やったところで金をもらえたか怪しい。 あいつら口約束だけでやりがい搾取するんだよな。 さんざんあほらしい目にあって懲りた。 だからおれは自分で書いて自分で出版して自分で売るわけよ。 この十数年ずっとこの話をしてきているけれどだれひとり理解しないんだよな。
なむさんの長篇をどうしても読みたいけれどそれとおなじ強度で掲載誌の、 他人のジェンダーを商材として消費する根性がどうしても不快でならない。 なんでそんなのが娯楽扱いされるのか理解に苦しむ。 なむさんが共有する知らん他人の作品を眺めていると (見たくないのに視界に入る) こんなしょぼい素人が芸術家扱いされてチヤホヤされちゃうんだと驚き呆れる。 実際はそういうことじゃない、 むしろ才能も技術もない素人の、 中身のない作品だからこそ親しみやすさ/なじみ感で評価され人気があるのだとわかっている。 あくまでソーシャルメディアでの交流手段というか馴れ合いの符牒みたいなものが求められていて、 人生への洞察とか実感みたいなものを少しでも感じさせれば意味がありすぎて重い、 ということになり弾かれる。 世間が求めるのは、 生まれてこのかたずっと読んで書いてきましたとか最底辺から這い上がって努力をしていますみたいなものとは正反対の、 ゲームとアニメと YouTube で育ちましたとか AI を使って五分でつくりましたみたいな、 キラキラした中身のない軽やかさなのだ。 なむさんにはあたかもそのようなものであるかのように消費できる世慣れたしたたかさがある。 小説ではなくノンフィクションや都市伝説やソーシャルメディアのミームや符牒を文化的背景としていて、 ゲームで育った処世術もまた持ち合わせているからだ。 実際にはそればかりじゃない生々しい異物感もあるのだけれど、 表面上は気づかずに消費できてしまえる。 それになむさんは基本的に人間を信じていて、 家族や友人を愛している。 おれみたいな異常者とも適切な距離を保つことができる。 その辺の大人としてのバランス感覚がしっかりしているから信頼される。 よくも悪くも作品ではなく人間性の時代なんだよ、 権力者の 「ニーズ」 に採点される種類のね。 作品は交流のための符牒であり添え物でしかない。 くそ溜めに生まれ育って人格が歪んでだれともうまくやれないおれにしてみれば、 なむさんの人間性は素直にリスペクトできるし、 このまま努力にみあう評価をされるべきだと思う。 そしてかれの交流範囲のひとたちに対しては、 作品そのものの才能や技術についてはさておき (好意的であろうとどれだけ努力してもむずかしい)、 交流の話題を提供して他人を楽しませる技術や才覚については素直に憧れ、 学びたいと思っている。
いまの読者や視聴者は感情的に平坦なものを求める。 世の中にどんなに邪悪な暴力が満ちていても触れてはならない。 見て見ぬふりをすることで加担しなければ 「ニーズ」 によって 「笑い物にされ淘汰される」。 テレビ局や出版社のような営利企業はそういう客を相手にしている——そうすることで 「ニーズ」 を拡大再生産している。 感情的であることと情緒が安定していることを較べたら当然、 後者がいいわけで、 おれの書くものが排除される社会は健全なのかもしれない。 四半世紀前にわざわざ白河以北のおれの街までやってきた編集者たちには口々に 「こんなのは子ども騙しだ、 親は子どもを愛するものだ、 もっとちゃんとした大人の読み物を書きなさい」 と説教された。 前は反撥していたけれど冷静にふりかえると、 なるほどたしかに攻撃的すぎるよなおれの本。 Fediverse で知らん他人からいきなり性的な喩えで否定されたことがあった。 Amazon の平均的な顧客であるあの精神的ぶつかりおじさんの言い分が正しかったのかもな。 いちばん嬉しかった asa_suzz さんの感想に 「ご自身が運営する独立出版レーベルだからこその忖度ない記載や率直かつ図星な表現」 とあるのは、 たんに商業に向かないってことだと解釈していたけれど、 asa_suzz さんの意図はどうあれ (否定的な含みがないのはわかっている、 あれば最後まで読んでいただいた上にあれだけ手間と時間をかけてていねいな感想を書いてくださることはありえない)、 人前に出せない病的なものだって事実を示しているのかもしれない。 虐待を受けていた頃には加害者に味方した大人たちに、 それについて書いたときには受け入れない出版社に、 自主出版したときには表示機会で低評価へ誘導するプラットフォームとその顧客に反撥してここまでやってきたけれど、 たんにおれがきちがいで世間が正常ってだけの話かもしれない。
⋯⋯いや、 そんなことははじめからわかっている。 客観的な視点をもてないほど狂っているわけじゃない。 でもたとえばシリアやアフガニスタンやチベットやミャンマーやウクライナやパレスチナにいて怒りも哀しみも感じず、 情緒が安定して穏やかな凪の気分だったら逆にどうなのという気もする。 オルダス・ハクスリーの小説に出てくる薬漬けで平和な連中みたいな。 正直おれは自分さえ良ければって人間で、 よその暴力なんて関心ないんだよ。 でもかつてアレッポの石鹸を愛用していたしピンチョンの小説に出てくるウクライナの連続ドラマを楽しんで観ていた。 ミャンマーの隣国でつくられたスーツをいつも着ているし、 ガザの子どもたちの暗い顔はおれの子ども時代を思い起こさせる。 米国の民主主義がロシアのトロール工場に転覆させられたらこの国での暮らしにも影響がないわけないし、 中国が台湾に侵攻すれば当然巻き込まれる。 もし仮にほんとうにそれらの国で起きてることが対岸の火事でいられるとしても、 おれらの国の政府がやり口を真似しないともかぎらないだろ。 それにおれにしてみれば暴力はみんなおれの育った家庭の狂気と地続きなんだよ。 その延長上にいまのおれの日常があるわけだ。 肩をすくめるアトラスたちのアルゴリズムに分断されたこの新世界がいいとはおれにはどうしても思えない。 だから書いて出版してそして売ることにした。 プラットフォームや国家のような権力に逆らうと、 技術や学のある連中から上から目線で説教されがちだけど、 実際に買ってもらえるか否かは関係ない。 おれは自由意思の話をしているんだよ。 努力してもっとよくなりたいんだ人間として。 人格 OverDrive はそういう試みなんだよ。