世界は大きな川だ。 私たちは向こう岸を見たことはないが知っている。 目の前にどこまでも広がる眩しい金色の水面が、 海ではないことを。 私たちが生まれ生きるこの土地が、 この果てしなく大きな黄金の川のほとりの一部だということを。
私たちは生まれた時から順番を待っている。 触れるものが羊水から空気へと変わったばかりの小さな耳たぶに、 染料と、 熱した金属で番号を刻まれる。 その十三桁の番号が呼ばれるまでの間、 私たちはここで生きることとなる。 それがいつになるのかは知らないまま。
私たちは川のほとりで影釣りを行う。 釣るのは魚ではない。 この川に魚はいない。 いや、 いるときもあるが、 その場合魚は死んで長い年月が経っているか、 既に加工されている。 影釣りは、 私たちが 『影』 と呼ぶ何かを釣る行為だ。
影はその名の通り川に流れる黒い影だ。 本当に黒い場合もあるが、 大抵は川自体が放つ光の中において自ら光ることのできない物がそう見えるだけだ。
私たちはできるだけ川に近づき、 それに狙いを定める。 うっかり足を滑らせ流れに呑まれないよう注意しながら。
各々が自作した道具で、 私たちは流れてくる黒い何かを釣りあげる。 あるいは手繰り寄せる。 影釣りは必ずしも竿で行う必要はない。 大きなたも網を使う者もいれば、 二人組になり長い棒を駆使する者もいる。
影は自転車のホイールであり、 横穴が空いたアルミ缶であり、 意図せず流水解凍されることとなった冷凍うどんであり、 壁掛けテレビを固定する器具の一部であった。
影は中身がひとつだけ残った十個パックの鶏卵であり、 フレームのみになった眼鏡であり、 川に落ちてしまったであろう獣の死骸であり、 半分以上を破損した旧時代の紙幣であった。
私たちは影釣りにてわずかな食糧を得たり、 それが何の一部だったのかを想像した。 どこから流れてきたものなのかを推測したり、 過去に起こった出来事に思いを馳せた。 私たちにとって影釣りは、 長い待ち時間の楽しい遊びなのだ。
かつて、 この星を掠めた彗星が多くの私たちの 『中身』 を奪い去った。 『中身』 を奪われてしまった私たちはみな動きを止め、 倒れ、 朽ちていった。 『中身』 を奪われなかった私たちは、 等しく暗闇の中に置き去りにされた。
彗星の接近によりこの星の人口は一万分の一になったとも、 十万分の一になったとも言われた。 私たちは、 それから短くない年月が経ったであろうことだけを知っている。 世界中の私たちは、 どこかに希望があると信じて歩いた。
私たちはすぐ近くに、 あるいは遥か遠くに光があることに気が付いた。 どれだけ時が経とうとも空は黒く、 朝や昼、 夕方は初めから存在しなかったかのようだった。 世界はとても寒く、 歩いていないと凍えてしまいそうだったが光に近付くにつれ不思議と寒さは薄れていった。
川に辿り着けたのは、 私たちのごく一部だけだった。 多くの者は暗闇の中、 光の方角に体を向けたまま、 寒さで、 飢餓で、 闇に潜む獣の牙や爪でその命を失った。 光の元に辿り着くと、 私たちはそれが川だったことを理解した。
水面は直視できないほどの眩しい光を放っていた。 全てのものの色が混じり黄金色になったのだとも、 星屑のかけらが含まれているから金色に輝いているのだとも囁かれたが、 本当のところは誰にも分からなかった。
草花や木々、 山や海、 あるいは人工建造物。 それらの存在を無視し、 切り取るように、 黄金の川は暗闇を照らしながら流れていた。 私たちはそれを目の前にして、 ただ立ち尽くした。 光はどこまでも続いているように見えた。
海がひとつの流れに集約されたのだという説が有力だった。 検証する者がいないため、 すぐにそれは事実として語られるようになった。 川には世界のほぼ全てが流れている。 私たちはそう信じていた。 逆に言うと、 そこに含まれないものが私たちであった。
川は絶えず激しく流れており、 影同士がぶつかり合い、 互いに砕き合いながら途切れることのない轟音を生み出していた。 そうして光と音は、 多くの私たちの耳と目を奪った。
私たちは無知だった。 無知は罪ではないが、 弱さだ。 私たちは知恵を身に付ける必要があった。 私たちは濡れ土で耳栓をし、 半透明の硝子やプラスティックを用いて自作した簡易的な遮光眼鏡を身に付けるようになった。
川の上流、 あるいは下流に向かう者もいた。 けれど私たちが暮らすほとりに戻って来る者はいなかった。 私たちは今いる場所と、 川に沿って続く明かりが届く場所を世界とした。 世界は狭く、 とてつもなく長かった。
世界のどこかに宇宙ロケットはあったのかもしれないが、 それを扱える者はいなかった。 もしかしたら私たちの知らないところでそっとロケットに乗り込みどこかの星に移動したのかもしれないが、 少なくとも私たちはそれを把握していなかった。
私たちは今日も影釣りをする。 何度来ても川の前で立ち尽くす。 別のほとりにいるかもしれない別の私たちについて思いを馳せる。 私たちは毎回たっぷり十五分ほど無言で川を眺めたあと、 ようやく影釣りを始める。
私たちは今日もさまざまなものを釣り上げる。 場所を変え、 時間帯を変え、 道具を変え、 時には餌を変え、 ガラクタや食糧、 生活必需品や用途不明のものまで、 なんでも釣り上げる。 たまに川に落ちてしまい、 新しい 『影』 になってしまう者もいる。
そういうとき、 残された私たちは踊る。 いつそうなったのかは分からないが、 私たちは新しく生まれた影が川のどこかずっと向こうに流れ、 私たちから見えなくなってしまうまで踊るのだ。 十三桁の数字が刻まれた耳たぶが揺れる。 踊りが終わった後も、 それは名残惜しそうに揺れている。
踊りが終わると、 影釣りも終わりとなる。 踊りが影釣りに含まれているかを私たちは知らない。 私たちは地面に横たわり、 黒い空を眺める。 かつて、 ほとんどの私たちの 『中身』 を奪い去った彗星は太陽に向かったそうだ。 向かった先で、 彗星と、 多くの私たちの 『中身』 はどうなったのだろうか。
ときおり、 川の上流から大きな船がやってくる。 帆の部分には十三桁の番号が記されている。 船の上の誰かが私たちに気が付くと、 大きな声で繰り返し数字を読み上げる。 川の流れは緩やかで、 私たちは何度もそれを聞くことになる。
私たちはその度に互いの耳たぶを指で摘んでは、 その数字が刻まれていないかを確認する。 私たちはそれを見付けられたことがない。 船は、 川が発する大きな音と共にゆっくりと私たちの横を通過していく。 私たちと彼らは、 お互い不思議そうな顔で遠ざかっていく。
その日も私たちの前に船は現れた。 が、 帆には例の十三桁の数字が書いていなかった。 踊り疲れた私たちはいつものように地べたに仰向けになり、 息を切らしながらそれを眺め 「こいつはなんだ」 と顔を見合わせた。
船はそのままほとりに接近して、 巨大な鍬のようなものを手近な岩に引っ掛け私たちの前に着岸した。
「君たちはここで何をしてるの?」
彼らは、 私たちが言おうとしていたのと全く同じ言葉をこちらに投げかけた。 私たちは互いに相手の様子を伺いながら 「なにって、 影釣りさ」 と答えた。
「釣り? そんなことしてる場合じゃないよ」
彼らは呆れたように言い、 川の流れのさらにその先を指差した。
「恒速道路が完成したんだ。 君たちも乗っていくだろ?」
「恒速道路?」
私たちは彼らの細長い指先をぼんやりと眺めながら、 言い慣れない言葉を口にする。
「そう。 次の星への移動が格段にスムーズになったんだ。 もう順番を待たなくてもいいんだよ」
彼らは興奮気味にそう口にして、 さあさあ、 と私たちの手を引き船に導こうとする。 私たちはなにも分からないまま、 どうにか一番知りたいことだけを口にする。
「次の星に行くと、 ここにはもう戻れないってこと?」
私たちの質問に、 彼らは不思議そうに言う。
「戻る必要なんてないだろ? この星はもうおしまいなんだから」
私たちはずっと待っていたものの正体を知り、 先ほどまで影釣りをしていた光の川を見る。
「この流れのずっと先に運河があるんだ。 彗星によって作られた、 この星を一周する溝はそこから恒速道路に接続されたんだよ」
さあ行こう。 と彼らは手を広げ、 笑顔で私たちを船に歓迎しようとしてくれる。 私たちは (もう何度目だろうか) 顔を見合わせ、 申し訳なさそうな表情を作り彼らに言った。
「私たちは影釣りをしているので、 それが終わったら行きます」
彼らは首を傾げ 「その釣りというのはいつ終わるんだい」 と尋ねてきた。 釣りに終わりなんてない。 けれどそのことを彼らに伝えたところで、 それが理解されるとは思えなかった。
「もうすぐ終わります」
私たちは笑顔で手を振り彼らを見送ったあと、 ほとりに戻った。 帰り道、 私たちのうちの誰かがぽつりと言った。
「影釣りをして楽しく生きるのは悪いことかな」
その言葉はすぐに暗闇に消え、 だけど私たちの耳の中に詰まった濡れ土にいやに残った。
私たちの誰かが言った。
「向こうの星では何をするの?」
別の私たちが言った。
「向こうでもただ生きるだけでしょ?」
また別の私たちが言った。
「ここで影釣りをしているのと何が違うの?」
それっきり私たちは誰も何も言わなくなり、 私たちの足が草を蹴り土を踏む音だけが暗闇に響いた。 今日も私たちはとても楽しく生活をしている。
暗闇は徐々に明るくなり、 黄金の川の流れる音、 影同士のぶつかる音が大きくなってくる。 私たちは少しの間だけ、 次の星にいる私たちのことを想像して、 すぐに忘れた。
私たちは明日も生きるために影釣りをする。 それはとても楽しく、 私たちは死ぬまでほとりで生きるのだろう。 この黄金の川と共に。
