SNS をやっていなかったら、 私は書写はやっていなかったと思う。 これまでの連載で、 書写をやろうと思ったきっかけや、 続けるためのモチベーションや、 続けるための動機づけを自分なりに整理してきた。 手で字を書くことが少なくなってきている昨今において、 どうして字を美しくみせるための技術を磨いているのか。
私はその理由のひとつを、 「自分の字を一番目にするのは自分自身だから、 自分の字がきれいだとそれだけ気持ちがよくて嬉しい」 のだと思っている。 文字の美しさというのは、 一文字一文字の文字の形の美しさと、 文章をつづったときの文字同士のバランスの良さで成り立っている。 そしてそれらは、 文字の 「ツールとしての可読性」 という他者の目が意識されている。 だから書かれた文字には、 他人から見たときにそれが読みやすいか、 整っているか、 美しいかという基準がある。 日常生活で手書きが少なくなった今ではフォントがその基準のひとつで、 書道の名筆・名跡はアートの世界へとジャンルを変えた。 それでも、 わたしたちは手書き文字の美しさを日常生活に見出している。
また、 大人になってから上手くなったことのひとつに、 身体操作がある。 言うまでもなく、 字を手書きするという行為は身体を伴う。 文字を認識し、 その表象を自身の身体とペンを使って書く。 子どものころは感覚にしか頼っていなかった身体操作だけど、 視線が認識した分だけ手を動かしてゆっくり字を書くという練習は、 大人と違う時間が流れるせっかちな子どもには難しい。 理屈を理解して、 イメージに忠実に身体を動かしてみて、 イメージと実際の字とのズレを修正しながら字を書く。 理屈が伴っているから、 どこが悪いかわかりやすいし上達も早くなる。 自分自身が上達を実感できる練習は楽しいし、 継続しやすい。 そうやって書写をしていると、 字を書くという行為の身体性を意識せずにはいられない。 それはつまり、 他人の書いた字にも、 その向こう側に他者の身体性を感じることを意味している。
人が文字を書きはじめたとき、 筆跡はその人をあらわす要素のひとつだった。 筆跡がその人を証明するもののひとつだった。 字形には美がある。 手書き文字の美しさに憧れるのは、 わたしたちがそこにその人自身を投影してしまうからだ。
「文は人なり」 という言葉があり、 また 「書は人なり」 という言葉も存在する。 人が考えた言葉や思考を文章にするとき、 わたしたちはその文章の内容を 「その人自身」 だと思う。 すべての人が自分を表す文章を書くわけではないが、 ほとんどすべての人は文字が書けて、 文章と同じように書かれた文字にも人格が投影されてしまう。 私は 「書は人なり」 という言葉には懐疑的だ。 わたしたちは今では誰でも文字が書ける。 雑な字を書く人は 「雑な人だ」 と思われ、 丁寧な字を書く人は 「丁寧な人だ」 と思われる。 本当にそうだろうか。 練習さえすれば美しい文字が書けることをわたしたちは知っている。 文字はただの記号でそこに書いた人の人格などない。
ただ、 理屈としては当然そのとおりで、 たとえそのとおりだったとしても、 わたしたちは美しいものを目にしたとき、 それを無条件に受け入れてしまう弱さがある。 特に SNS という場は、 美文字練習としての書写ひとつとっても、 それによって選ばれた用紙、 ペンやインク、 書体や書かれた文字の丁寧さ等、 すべての要素がその人を構成する 「表現」 となってしまう。 そしてわたしたちは、 その背後になにがあろうと表に出てきたものだけでしか判断できないにも関わらず、 見えないものを想像力で補いがちだ。 なんのために手書きの文字を練習しているのか、 それはその人にしかわからないし、 書かれた文字の美しさはその人自身の美しさでもない。
字の美しさは技術である。 その美しさを追及するのは愉しみである。 日常生活で最も手軽にできる遊びのひとつでもある。 SNS という遊び場で書写を披露したとしても、 書写という行為はかなり個人的な愉しみに基づいているのではないかと思う。 それゆえに手書き文字は、 先細りしたとしても滅びることはないと思うし、 またそう思いたい。
( 了 )
使用した文房具
この満寿屋の便箋は、 印刷が裏面にあるため原稿用紙の枡目があまり主張していないのがいい。 裏の印刷は前半が紺、 後半は緋で印刷されている。
HP で紹介されているけれど、 残念ながら商品はもう売ってないみたい⋯。
写真にはうまく撮れなかったけれど、 落ち着いたグリーンのラメインク。