電気自動車、日産リーフはあたり一面、小麦色に染まった景色の中を走っている。ハンドルを握るアントン・ギムリンは大きな欠伸をし、永遠に続くように思える退屈な一本道を眺める。しばらくして、一九一号線と六六号線が枝分かれするフィリップスでハンドルを切り忘れたギムリンは舌打ちしたが、臓腑から脳髄へと染み渡る諦めが彼の奥底に眠る冒険心をくすぐった。一か月前までカリフォルニア州サンノゼにある、電子商取引企業でエンジニアたちを取り仕切ったギムリンは冒険心から縁遠い生活を送った。彼の仕事はエンジニアたちの意見をまとめ、最良の選択をすることだった。一見すると、多くの人々が羨む仕事に就いたはずのギムリンの答えは〈どんな仕事であれ、誰でもできる〉という冷笑的なものだった。
 一九一号線を北東に進み、モールタで左折して二号線を進んだ。ワグナーを通過し、ドッドソンを走っていると、上空に重苦しい灰色の雲が立ち込め、閃光が地面を突き刺した。車内に轟音が響くようになると、ギムリンはワイパーを起動させた。ワイパーの先に取り付けられたゴムが砂交じりの雨粒を撫で、小気味良い音が響く。しばらく進んだ後、ハンドルを切って退屈な荒野を進んだ。それから、ルート八まで進み、蛇のようにくねるピープルズ川を越えた。口を開けたまま日光浴する、鰐のようなウェイガンド貯水池沿いに立つ看板を見たギムリンは苦笑した。自身にできることはそれ以外に考えられないといった態度だった。

 丸太づくりの家の近くでギムリンは自動車を停止させた。鼻から息を吸い込み、額を撫でると、意を決したように車から降りた。家の前では首にタオルを巻いた女がしゃがんで土いじりをしている。腐葉土が混ぜられた土から顔を出した薄緑色の小さな草は雑草と区別がつかず、仮に、この弱々しいものが花を咲かせ、実りをもたらすとしても、その姿を想像することは困難だった。ギムリンを見るなり、女は立ち上がって泥まみれの軍手を脱いだ。「久しぶりね」という女の声は低く、落ち着いているというよりも意気消沈しているといった声だった。近付いたギムリンは女と抱き合い、彼女の背中を軽く叩きながら「ただいま」と言った。互いが離れると、後ずさった女がギムリンの頭頂から爪先までをしげしげと見た。
「痩せた?」
「どうだろう。わからない」
「相変わらず、そういうことに疎いみたいね。でも、変わらないでいてくれたことが嬉しい」
「変わったように見える?」
 肩を上下させた女が「都会の人間に見える」と言った。顎を撫でたギムリンが言う。
「変わったといえば、仕事を辞めたぐらいかな」
「どうして?」
「誰でもできることだから」
「そういうことは、泣きそうな顔で言うことじゃない」
「泣きそうな顔をしている?」
「えぇ、そう。ひどい顔。ひどく裏切られたっていう顔」
 頬に触れたギムリンが「誰かに裏切られたわけじゃないよ」と言うと、女はゴツゴツした手をギムリンの手に重ねた。
「中で話しましょう。お茶を飲みながら」と言った女は回れ右をした。二人は丸太づくりの家に向かった。

 家の中に目新しいものは何一つなかった。ギムリンが子供の頃に父親が購入した家具や家電製品は同じものを使用しており、そして、それは同じ位置にあった。まるで、家全体が彼のために時間を止めて待っていたように感じられた。ギムリンが椅子に腰を下ろすと、女はやかんに水を入れてコンロを捻った。茫漠とした青い炎、換気扇にこびりついた料理の記憶は化石のように見える。ガラスのティーポットに茶葉が落とされ、湯が注がれる。動作は彼が幼い頃に見た光景と寸分違わないものだったが、その動作をする人間だけが違っていた。テーブルにカップが置かれると、ギムリンは白い角砂糖を指で摘まみ、一つ、また一つとカップに入れた。女が呆れた顔で
「相変わらずね」と言った。
「母さんによく言われた。お行儀よくするようにって」
「父さんは大笑いしながら指で砂糖を掴んで、口でかみ砕いた」
「そうだっけ?」
「忘れたの? いつもそう。あなたは父さんにそっくり」
「家を出て、大学に行ったことを責めている?」
「幼馴染の男と結婚して、離婚するよりはずっとマシ」
「今でも信じられない」
「酔っぱらう度に、ひどく殴る男が?」
「そうだね。そういうことをしたいと思わないから」
「したいと思ってやるんじゃない。いけないことだとわかっているのにやるのよ」
「わからないよ」
「わからないからあなたなの。それでいいと思う」
「その時、父さんが生きていたらどうしたかな?」
「撃ち殺したでしょうね。父さんが長生きしなくて良かった。私のためにそんなことをしてほしくないから」
「父さんは狩りを続けた?」
「大好きだった。でも、下手糞だった。釣りとは大違い。あなたが六歳の時に父さんが大きな魚を釣ってきた日のことを覚えている?」
「斧で魚を切ったこと? 母さんが怒っていたね」
「そう。それで、一週間ぐらい朝昼晩塩漬けの魚だった」
「まだ、小屋はある?」
「そのまま」
「姉さんは小屋に入ったことがある?」
「ないわね。父さん、あなたと狩りに行くことが夢だったみたいだし」
「ぼくは裏切ったことになるのかな?」
「いいえ。そうは思わない」
お茶を飲み干したギムリンが「折角だし、小屋に行ってみるよ」と言い、立ち上がると、女がうなずいた。

 家の裏を歩いたギムリンは雑草が生い茂る坂道を見た。人間が歩いた痕跡は見当たらず、獣道でしかなかった。ギムリンは吸い込まれるように、一歩、また一歩と坂道を上りはじめた。次第に道は緩やかなものに変わり、赤茶けた樹皮を晒したイトスギの間をすり抜けるようにしながら歩き進んだ。背の低い雑草、岩にこびりつくように生えた苔を横目にギムリンは歩き進んだ。地面に堆積した落葉を踏んだところで腐敗臭はなく、森林を模した芳香剤のような匂いだった。尻尾が長い、灰色のリスが素早くイトスギの幹を登り、ブルーベリーほどの大きさの目玉で闖入者を見た。しばらく歩き進むと、今にも崩れそうな石造りの小屋が見えた。絶えず漂う湿気にさらされた小屋が崩れずに立っていることは、何らかの意思や運命じみたものが感じられた。ギムリンは大きく息を吸い込み、ゆっくりと息を吐いた。生暖かい吐息が静まり返った木々に隠れ潜んだ。枯れ枝や枯葉が積もった屋根のあちこちからはキノコが顔を出している。歩き進んだギムリンは、ほとんど腐ったドアを引いた。懐かしい臭いを嗅いだギムリンは微笑んだ。なめし革や、天井から吊るされた、毛皮を剥がれた獣の臭い。永遠に錆びることがないと思われた斧。積み置かれた薪。手入れが行き届いた釣り竿と、釣り糸から垂れるスプーンを加工した、微かに金属臭さを漂わせる疑似餌。彼は記憶にこびりついたものを落とそうとするように頭を振った。狭い小屋の中には、そういった品々はなく、蜘蛛の巣が張ったみすぼらしい机と椅子、大きな箱が見えるだけだった。ギムリンは机と椅子に目をくれることもなく、箱を開けた。そうすることが当然のことで、正当な権利であるかのように。箱の中には新聞記事の切り抜きが敷き詰められていた。しかし、ギムリンがこれらに債権や権利書が含まれていないことを残念に思うことはない。箱の中に埋もれた紙片はウェイガンド貯水池のほとりに立っていた看板と同じ、灰色や褐色の毛に覆われた猿人についてのものばかりだった。ギムリンは馬鹿げたことだと思いつつ、紙片を読み耽った。未知の、脅威ですらないように感じられる断片は無意味に強調されている。一九二四年にワシントン州のエイプ・キャニオンで石炭坑夫たちが夜の間中、襲撃された記事や、一九五八年にカリフォルニア州のトラック運転手が泥の中で見つけた巨大な足跡から型をとった足型について。手を伸ばしながら悠然と歩く、二足歩行するゴリラのような動物の写真。
 すべての記事を読み終えた時、既に陽は傾いており、小屋は薄暗くなっていた。肩を上下させたギムリンが箱を閉じようとすると、箱の底に毛布が見えたので、不思議に思いながらも毛布を引っ張り出した。毛布は折り畳まれていることを加味してもかなり膨らんでいた。毛布をひろげると、ハイイログマの毛皮を加工したものが落ちた。所々、毛が抜け落ちてはいるものの、微かに獣臭を漂わせるファスナーがついた、すっぽりと覆う着ぐるみだった。白日の下にさらすには、あまりにも馬鹿馬鹿しく、些細な秘密を共有したギムリンは破顔した。ギムリンは着ぐるみを毛布で巻き、はじめからそうであったように箱におさめ、紙片を重ね置いて蓋を閉めた。

 翌朝、生まれ育った家の、かつて父親と母親が寝起きしたベッドで目を覚ましたギムリンは満ち足りた気分で姉と朝餉をとった。その気分は温かい食事が胃袋を満たしたことによってもたらされたものなのか、それとも、家の中央に設計された寝室から居間まで続く廊下を、頭を掻きながら歩いた冗談好きの父親と同じ道程を歩いたことによるものなのかはわからなかった。他愛のない会話を楽しんだ後、ギムリンは家を後にした。

 ハンドルを握りながら〈ビッグフットの故郷〉や〈ビッグフット出没注意〉といった、自家製の看板を目にする度、ギムリンは笑みを浮かべた。やがて、通り沿いに一軒だけ立つ商店を目にしたギムリンはハンドルを切って、自動車を商店の前に停めた。それから、乱雑な立て札や、コンセントが抜けた製氷機、錆びだらけの置物を横目に商店に入った。天井に設置されたシーリングファンは蜘蛛の巣が二重、三重に張られており、電灯が消えた薄暗い店内には棚が並んでいるものの、商品のどれもが日焼けしており、購買意欲を刺激するようなものは何もなかった。無人と思われた店内を進むと、理容椅子に深々と腰掛けながら居眠りする老人の姿が見えた。老人の咽喉仏だけが規則正しく上下に揺れている。老人の寝息が止まり、絞め殺された雄鶏の首から響く断末魔のような音が響くと、老人は目をしばたたかせた。
「あぁ……何か用かね?」
 ギムリンがどぎまぎしていると、老人が立ち上がる。
「髪が伸びている」
 ギムリンは強引に理容椅子に座らされた。鏡はおろか、理髪に伴う一切合切が見えない薄暗い中で身体を覆う白いケープは司祭服のように見えた。老人は目を擦り、鋏を研ぎはじめる。
「客は久しぶりだ。腕が鈍っていなければいいんだが。昔はここも賑わった。あんたは観光客だろう? ここはビッグフットの故郷だからな。物珍しいものを見たくてここに来る人間は多い。いや、多かったと言うべきか」
 研ぎ終えた鋏がギムリンの後ろ髪に触れ、老人の咽頭から低い音が鳴り響く。
「これからの季節だと、短いほうがいい」
 金属が擦れる音を聞きながら、ギムリンは肯定でも否定でもない曖昧な返事を絞り出した。
「昔は観光客が大勢来た。みんな、首からカメラをぶら下げて山に入ったり、川に行った。わしの家はここよりも奥にあるんだが、夜になると観光客が懐中電灯を貸してくれとか、電池は、フイルムはないかと戸を叩くんだ。そこで、ここを構えた。繁盛したよ。いい思い出だ。あんたみたにお若いのにはピンとこないかも知れんが、思い出はいいものばかりだよ。嫌なものは自然と消えるからな。とはいえ、長生きすると、いいものでも消えてしまうことがある。最たるものは友だちだろう。友だちの顔や声を思い出すことがある。そして、もういないことを思い出す。ひどい気分になる。落ち込むとは違う。身体に穴が空いて、空気が抜けて萎んでしまうような感じだ。一番の友だちはジェフという男で、釣りが上手かった。自分でスプーンを作っていた。スプーンは大体、六種類だが、ジェフは特別なものを使っていた。水に沈んだスプーンは小刻みにも、跳ね上がることもできた。世界七番目の不思議だ。大物ばかりを釣ったよ。あの時、ジェフが大物ばかりを釣ったから、今では大物を釣り上げることができなくたったんだろう。ジェフは狩りもやったが、そっちは下手だったな。不思議なぐらい、銃の扱いが下手だった。あいつが仕留めたのは、知る限りでハイイログマが一頭だけ。まぁ、それでも、いい奴に変わりないんだが」
 ギムリンが「ところで、あなたはビッグフットを見たことがありますか?」と尋ねると、老人は手を止めた。
「生憎、姿を見たことはない。見たことがあったのなら、剥製にしていたさ。わしは狩りが得意だったからな。でも、一度だけ気配を感じたことがある。川で釣りをしていた時だ。すぐ後ろに気配がしたんだ。一緒にいたジェフはうんと先で釣り糸を垂らしていた。顔は真剣そのもの。声を上げて邪魔をするのも良くないと思って、速足で歩くことにした。ジェフの近くまで歩けば、その気配も消えるだろうと思ったが、後ろを歩く気配は中々、消えなかった。すぐ後ろから聞こえる唸り声ほど気味が悪いものはない。やがて、辛抱できずに振り返ったが、何もいなかった」
 老人は鋏をポケットに突っ込み、ギムリンの肩を叩き「さぁ、終わったぞ」と言った。白いケープを外されたギムリンが立ち上がり、ポケットに手を突っ込むものの、老人は手を振った。
「代金はいらんよ。少し、失敗したからな。それに、長話に付き合わせた。お前さんを見ていて、ジェフを思い出した。少しクセがある髪だった」
 礼を言ったギムリンは握手を交わし、外に出た。あたり一面、小麦色に染まった大地は上空から照らされる白んだ光によって、淡く輝いていた。自動車に乗り込んだギムリンはバックミラーに目をやり、非対称の髪に触れて笑みを浮かべた。

                                         

END


作家、ジャズピアニスト、画家。同人誌サークル「ロクス・ソルス」主催者。代表作『暈』『コロナの時代の愛』など。『☆』は人格OverDrive誌上での連載完結後、一部で熱狂的な支持を得た。