ノートや便せんに書いた書写は、 続けていけば溜まっていく。 それをどうするか。 つまり、 保管するか捨ててしまうか。 保管するならいつまで保管し続けるのか。
書写したものを記録として保管することには、 過去の自分が書いた字と今の自分の書いた字の比較が容易になるというメリットがある。 特にノートや紙は一覧性が高いので、 自分の書いたものをざっと遡ることができるからだ。 デメリットとしては、 ノートや紙は場所をとってかさばるということがある。 書き続けてそれをずっと保管しておけば量も増える。
趣味としての書写は、 作品とかではなくかなり個人的で日常的なものだから、 自分以外の人間にとって無用の長物だ。 自身のビフォーアフターを知るためだけの記録の保管は、 思い出の品に近いかもしれない。
一方、 ノートや紙に書いたものを写真に撮ったりスキャンしたりしてデジタルデータにすることも可能だ。 デジタルデータのメリットは、 ノートなどのように場所をとらないことである。
写真は SNS との相性も良い。 記録としてのアカウントをつくり、 そこにデータを残すという考え方もある。 もっとも、 SNS のアカウントもサービスそのものも未来永劫に続くわけではないので、 その場所にだけ頼ることはできないが。
記録との付き合いかたは人それぞれだと思う。
私はというと、 便せんやペラ紙に書いた書写は SNS に投稿したら捨ててしまうし、 投稿しなくても書きおえたら捨ててしまう。 ノートもすべてのページを書いて埋めてしまったら処分する。 それはたぶん、 今の自分の字がそこにあるすべてだと思っているからだ。 学んだ分もサボった分も、 いま書かれた自分の字そのものに、 過去の経験がすべて詰まっている。 そう思っているから、 あまり過去を振り返ることをしない。 SNS に投稿する基準も特になくて、 「うまく書けたから投稿する」 というわけでもない。 はじめのうちは書写が習慣になるように SNS で投稿していたけれど、 なんとなく日常に組み込まれて、 やらない日があっても特に気にすることもなくマイペースで書写ができるようになってからは、 かなり気まぐれ投稿になってしまった。
毎日書写しないと気持ち悪い、 というところまではいっていないけれど、 なにかの拍子で書写しなくなったとしてもいつでも再開できる自信はある。 いつでも戻れる手軽さも書写のいいところかもしれない。 そのときはきっと書かなかったぶんの字の崩れが、 今の自分の字の形としてそこに記録されるのだと思う。
学習の過程は常に右肩上がりで上昇するわけではない。 試行錯誤の末に迷走したり、 うまく書けなくて停滞したかと思うと、 急におもったとおりの字が書けるようになったりする。 そういうことの繰り返しだ。 そこで 「うーん⋯⋯?」 と多少悩むことはあっても、 落ち込みはしない。 頭の中で思い描いた文字の表象を、 身体をつかって表現しようとする感覚は、 私たち自身のなかに既にある程度蓄積されている。 それらを少しずつ修正しながら文字を書く。 字を練習しなくなって下手になったと感じるのは、 少しずつ積み重ねた修正が、 自分の身体がラクに文字を書く状態へ戻ってしまうからだ。 手癖がでる。
頭のなかに思い描く文字の表象は、 常にお手本の字でありたいから、 私はあまり自分の字を見なくてもいいと思っている。 それでなくても、 自分の字を一番見るのは結局自分自身だ。 埋まったら捨ててしまうノートとはいえ、 めくっていると 「過去の自分、 けっこう頑張っているじゃない」 くらいは思っている。 書き残した記録とは、 それくらいの緩い付き合いかたをしている。
使用した文房具
お高い鉛筆を試してみたくて買った 1 本。 思ったより芯が軟らかくて頻繁に削っているから早くなくなりそう。
今回使った 「埼玉県書写書道教育連盟推奨の書き方練習帳」 は、 埼玉県下でしか扱っていないようです。 学用品のコーナーで売っています。