V・V

ィンセント・ヴァルマーはベッドの上で寝返りを打つ。ヴァルマーは眠りを恐れている。眠りによって愛するものを忘れてしまうのではないかという考えが過るから。
 ベッドから起き上がったヴァルマーは冷蔵庫を目指す。冷蔵庫の中には牛乳と消臭用の竹炭だけ。食べ物は一つも見当たらない。ヴァルマーは紙パックに口をつけて牛乳を飲む。それから、手で口を拭いベッドに戻る。

 ベッドの隣に置かれた目覚まし時計、蛍光塗料が塗られた長針と短針は淡い緑色で交わっている。ヴァルマーが言い聞かせるように「四時二〇分」とつぶやく。天井が石臼のようにまわりだし、彼は眠りにつく。

 目覚めるなり、ヴァルマーは洗面所に向かった。顔を洗って髭を剃る。化粧水を塗ることも忘れない。居間に向かい、ベーグルを齧りながらコーヒーを淹れる。しかし、コーヒーを飲む段階に至った時には既にベーグルは消えている。彼は椅子に腰掛ける。そして、誰もいない取り残された椅子を見つめ、テーブルに置かれたカレンダーをめくる。

 コーヒーを飲み終えると、カップを流しに置き、蛇口を捻って水を満たす。僅かに茶色がかったカップの中が波打っている。

 ヴァルマーは書斎に向かい、ラジオのスイッチをいれる。スピーカーからは耳に心地よい開母音、ドイツ語が聞こえてくる。一五分の短い放送が終わると、すぐにヴァルマーは辞書を引きはじめる。窓の外では小鳥たちが囀り、カーテンの隙間からは傾斜した光が差し込む。ヴァルマーは手を伸ばし、カーテンを開ける。所々、虫食ったような芝生とアスファルトで覆われた道路、自転車に乗って走り去る少年。それらはチェスのように理路整然としており、毎日、乱れがない。

 クローゼットを開けたヴァルマーはシャツに袖を通し、ズボンを履く。ネクタイはキツく締めすぎないように注意しながら。上着を着て、廊下を歩く。思い出したように廊下に置かれた受話器を手にとる。電話すべき相手はおらず、メッセージもない。受話器の黄ばんだボタンを押し、呼び出し音が一〇回鳴ると、自動的に留守番電話に切り替わる。
「えぇっと、ヴァルマーです。メッセージのある方は機械音の後に用件を言ってね? ヴィンス、これでいい?」
 うなずいたヴァルマーが「行ってくるよ」と言って受話器を置き、家を出る。

 ヴァルマーはグリッツ社の品質管理部門を任されている。グリッツ社は一九五八年に創業した自動車部品メーカーであり、ヴァルマーにとって、自身が管理するネジやくびれた金属の塊が自動車を動かすことは誇りだ。彼は真面目で、いささか偏狭、窮屈ですらある。仕事における彼の信念とはこのようなものだ。
〈部品は均一でならなければならない。僅かな歪みも許されない。このことに気が付かない、あるいは黙認するような者はグリッツ社の品質管理部門を去らなければならない〉

 昼になると、作業場に休憩を知らせるチャイムが鳴り響く。旋律はビッグベンと同じである。

 ヴァルマーは静かに廊下を歩き、入口の鉄扉をすり抜け、目の前に停められたフォルクスワーゲンのバンから続く列に並ぶ。順番がやってくると、ヴァルマーはサンドウィッチとコーヒーを買い、ベンチに腰掛け昼餉をとる。

 青空には千切れた雲が漂い、白んだ月が見える。手入れの行き届いた芝生は風に揺れている。ヴァルマーは目を閉じる。そして、日毎、遠くなっていく声に思いを巡らせる。
「人生って、できないことばかり……ドイツ語を習いたいと思ったけれど、結局できなかったし、花壇にバラを植えることもできなかった。ねぇ、ヴィンス? あたしがいなくなったら……ううん、そんなこと言っちゃダメなんだけど……今まで通りにキチンと起きて仕事に行ってね? ゴミは溜めないで。芝生もちゃんと刈って。それから、洗面所の化粧水とか石鹸とか、なくなる前に買って。なくても困らないからって手を抜いたら駄目よ?」

 チャイムが聞こえると、目を開けたヴァルマーは残りのサンドウィッチをコーヒーで流し込み、立ち上がって歩き出す。

 一七時になると、終業を知らせるチャイムが鳴り響く。ヴァルマーは廊下を歩き、作業場の脇に設置された古めかしい受話器を手にとる。ダイヤルを回しながら、咳払いする。呼び出し音が一〇回鳴ると、自動的に留守番電話に切り替わる。
「えぇっと、ヴァルマーです。メッセージのある方は機械音の後に用件を言ってね? ヴィンス、これでいい?」

 僅かに笑顔を浮かべたヴァルマーが言う。
「今から帰るよ。六時には家に着くよ」

 受話器を置いたヴァルマーが会社を出る。

 一七時五五分。自宅に帰ったヴァルマーは簡単な食事を終えると書斎に向かい、ヘルマン・ヘッセによる『ガラス玉演戯』のページをめくる。秒針が時を刻む音。ページをめくる音。『ガラス玉演戯』を閉じたヴァルマーが辞書を引く。
 二二時になるとヴァルマーはシャワーを浴び、縞模様のパジャマに着替えた。廊下を歩きながら、外を走る自動車のエンジン音を聞く。それから、廊下に置かれた受話器を手にとって電話する。
「えぇっと、ヴァルマーです。メッセージのある方は機械音の後に用件を言ってね? ヴィンス、これでいい?」
 ヴァルマーが言う。
「イレーヌ、君がいなくなってから寂しくてたまらない。毎日が砂を食んでいるようで味がしない。君がやりたいと言っていたことをやりたいと思う。やり遂げることはできそうにないが……可能な限り、今まで通りの生活を試みている。芝生の手入れは……すまない、あまりできていない。毎朝、カレンダーをめくる度、自分が変わっていることがわかる。少しずつ淡く、白んでいく。わかっているよ、わかっているんだ。こんなことは馬鹿げている。でも、どうしたらいいのだろう?」
 ヴァルマーは受話器を置き、再生ボタンを押すことなく自身の声を消去する。そして、寝室に向かった。

 ベッドに寝転がり、毛布をかぶったヴァルマーは天井の壁紙を見つめる。亀の甲羅のように見える六角形の天井が石臼のようにまわりだした。
 

E・V

 ヴィンスと出会ったのは、わたしが大学を卒業して、働きはじめたばかりのこと。その日、わたしはバス停でバスを待っていた。ヴィンスは自動車で通勤していたのだけれど、その日は自動車を修理にだしたから、彼もバスを待っていた。映画とか小説なら、うっとりするようなロマンスがあるのだろうけれど、わたしたちにそういったロマンスはなかった。吊り橋効果っていうのかしら? でも、ヴィンスは吊り橋なんて絶対に渡らない。迂回して安全な道を探す。そういう人。わたし自身、どうして彼と結婚したのか、わからなかったし、多分、彼もわかっていない。淡くて、細い糸みたいなものに導かれたのかも、

 結婚してから一年経っても、わたしたちに子供はできなかった。わたしは気にしていなかったけれど、ヴィンスはそうじゃなかった。彼はわたしよりも二五歳も年上だし、焦っていたのかも知れない。わたしに黙って、彼は病院で検査を受けた。結果を知った彼は、すまなそうに話した。
「私は子供がつくれない身体のようだ。君のことだ、きっと、私が隠れて病院に行ったことを咎めたいと思うだろう。しかし……」
 ヴィンスは口髭を触りながら口ごもった。言いにくいこと、言葉に詰まった時の彼の癖。ヴィンスが「別れよう」と言った。わたしが反論しようと口を開くと、彼は
「君は若い。私と違ってやり直しができる」と言った。わたしは怒鳴ったりすることは嫌いだけど、その時の彼の態度には腹が立って、力いっぱい怒鳴った。多分、今までで一番、大きな声を出したと思う。彼の言い方は横柄で、一方的だと思った。わたしのことを思っているように見せて、実際は自分のことしか考えていない。彼も応戦した。大声を出して、自分が思っていること、正しさを証明するための言葉を練っては吐いた。彼は自分の考えを論理的に組み立てようとしていたけれど、どこかチグハグで、穴だらけのように感じられた。
 二時間ほど怒鳴り合った後、馬鹿馬鹿しいことに気が付いて、二人で笑った。夜遅かったから、宅配ピザを頼んで、ピザ片手に二人で映画を観た。普通、こういう時は恋愛映画を観るものなのだろうけれど、ヴィンスはフィンランドの映画にした。彼、そういう趣味の人なの。

 映画はゴツゴツした石が転がる海岸線に大きな鯨の骨が転がっているシーンから始まった。鯨の肋骨とか、背骨。骨には苔が生えていた。開始一〇分は波の音と風の音が聞こえるだけ、ようやく姿を見せたのは、学生か魔法使いみたいなダッフルコートを着た二人の男女。セリフは断片的で、詩なのか、何かの引用かもわからなかった。わたしがヴィンスに
「これ、どういう意味?」と尋ねても、彼は「さぁ?」と答えるだけ。
 映画は九〇分で終わったけれど、五時間ぐらい観た気がした。わたしが眠たい目を擦りながら
「結局、これってなんだったの?」と聞くと、ヴィンスが
「さっぱり、わからない。ただ……鯨が大きい生き物だということはわかったよ」と言って笑った。わたしも笑って、それから二人でシャワーを浴び、愛し合った。

 その日からヴィンスは変わった。とはいっても、選ぶ服は変わらなかったし、言葉遣いも変わらなかったけれど、わたしに対しての態度の端々が違った。ヴィンスは過保護な父親みたいになった。わたしのことが心配でたまらないといった感じだった。彼は毎日、仕事が終わるとすぐに私に電話してきた。同僚のマチルダが電話をとる度に「あなたのパパよ」と言われることは複雑な気持ちがしたけれど、悪い気分じゃなかった。

 ある日の夕食後、わたしは「たまには自分がしたいことをして欲しい」と言った。彼に
「君のことだよ」と言われないためにも、先に
「わたし以外のことよ? それから、あのフィンランドの映画以外」と言っておくことも忘れない。彼は考え込んで、ようやく絞り出した答えは
「チェサピーク湾で釣りをしてみたい。スズキが釣れるそうだ。釣ったスズキをムニエルにするというのはどうかな?」

 ヴィンスは釣りなんて一度もしたことがなかったと思う。少なくとも、ウチに釣り竿はないし。多分、また妙な映画を観たんだと思う。わたしたちは揃って休暇をとって、クルーザーをチャーターすると自動車に乗り込んだ。

 ノーフォークではマイナーリーグの試合を観たり、ハリソン・オペラハウスでモーツァルトのオペラを観た。わたしが「ドイツ語って素敵ね」と言うと、彼は「そうだね」と曖昧な返事をした。ノーフォークに着いて三日目、ようやく、わたしたちはクルーザーに乗り込んだ。デッキに並べられたラメ入りのルアーがキラキラと光っていた。空は曇っていたけれど、ヴィンスが楽しそうにしているように見えたから、わたしも楽しかった。大きなスズキが釣れた時、ヴィンスは子供みたいにしゃいだ。彼はすぐに、いつもの落ち着いた様子に戻ったけれど、うずうずしていた。
 鉄板の上に置かれたバターが鉄板の上を滑って消えた。小麦粉をまぶしたスズキが横たえられて、香草がパラパラ落とされた。ヴィンスは焼きあがったスズキにフォークを突き刺し、スズキを頬張った。わたしが「どう? 美味しい?」って聞くと、彼はシャンパンを一口飲んで
「美味しいよ。泥臭いけれど」と言って笑った。

 ホテルに戻っても、ヴィンスはまだ夢の中にいるみたいだった。夢が叶ったことが信じられないといった感じだった。そわそわしていた彼は、自分を落ち着かせようと思ったみたいで
「ちょっと、買い物に行ってくるよ」と言い出した。わたしは疲れていたから、ついて行かなかった。

 ヴィンスは飲酒運転のトラックに追突されて亡くなった。知らせを聞いたわたしは、タクシーでセンタラ・ノーフォーク総合病院に行った。焦っていたし、茫然としていた。

 ウチに帰った時、わたしはクタクタだった。靴箱を開けても、クローゼットを開けても彼が感じられた。何日かして、ヴィンスが勤めていたグリッツ社の重役が訪ねてきた。わたしは聞いたことがなかったけれど、お決まりの言葉なのだと思う。

 わたしはコーヒーを淹れたり、カレンダーをめくったり、かつてヴィンスがやっていたことをしている。仕事を終えてウチに帰ってくると、ヴィンスがしたかったことについて考えてしまう。

——ツェサピーク湾での釣り
——それはやったでしょ?
——フィンランド映画を観ること。
——それはもういい。

 ぐるぐる考えても、何もまとまらない。ただ、朝がくるだけ。


作家、ジャズピアニスト、画家。同人誌サークル「ロクス・ソルス」主催者。代表作『暈』『コロナの時代の愛』など。『☆』は人格OverDrive誌上での連載完結後、一部で熱狂的な支持を得た。