以前述べたように、 小中学校での書写書道はあくまで硬筆を基本としたものだった。 毛筆を使った書道も、 その筆使い・筆の運びから硬筆での文字の書き方を理解するためのものである。 しかし高校で選択する書道は 「芸術科目」 だ。 毛筆で字を書くことをアートとして捉える。 NHK 高校講座の書道Ⅰは、 現役高校生はもとよりわたしたち一般人もアートとしての書道を学ぶことができる入門として最適だ。
文字は基本的に情報を伝達するためのツールである。 そして 「人に書かれること」 で文字は形成され、 変化もしてきた。 文書を複写するのに、 長い間ひとの手を使ってきたからだ。 漢字の書体でいうと、 隷書の速書き・簡略化から草書が生まれ、 同じく隷書の簡略化から行書・楷書が生まれている。 また、 日本では明治 33 年以降、 それまで使われてきていた変体仮名を義務教育で扱わなくなった。 ひらがなの字体が一音一文字に統一されたからだ。
現代ではすべての日本人が草書・変体仮名を読めるわけではなくなってしまった。 これらの文字は可読性が低くなったために 「情報を伝達するためのツール」 というよりも 「デザインとしての文字」 という認識が強くなった。 そして、 「デザインとしての文字」 は装飾やアートになりやすい。
日常的に手書きする文字でも、 わたしたちは整った字そのものや、 文章になった文字の全体のバランスがよかったとき、 それらを美しいと感じる。 しかしわたしたちは日常の手書きをアートにしているわけでは、 当然ない。
可読性・視認性を高める技術が文字の形を整えさせ、 人はそこにバランスの良さを見る。 可読性・視認性を高めるということは、 自分が読めればいい・わかればいいという態度ではなく 「他人のために書いている」 という態度が必要になる。 読んでもらうこと、 理解してもらうことという意識が書き手には必要だ。 日常生活において文字はあくまで伝達するためのツールなのだから。 それでもわたしたちは日々目にする文字を判別して、 それが整っていれば美しいと感じたりする。
たとえアートや芸術ではなくても、 わたしたちは毎日の生活のなかで、 そうやって美を感じることがある。 柳宗悦らは日常使いの雑器の素朴さを民藝と称したが、 文字の美しさはそれともまた少し違う。 日常的に書かれる文字でも、 素朴な字か流麗な字かは書く人間によって変わる。
また、 文字は 「文字としての形の美しさ」 と 「書かれた内容」 という二つの面を持っている。 音楽や絵画に比べて、 文字は 「書かれた内容」 を読むことで表現が理解しやすくなるという面がある。
字を書くことはほとんどの人ができることである。 そして、 芸術というのは何かを表現することであり、 表現するためには技術・テクニックが必要だ。 文字をアートとして表現しようとするとき、 使う紙、 筆記具の種類、 墨やインク、 文字をどう配置するか、 題材である文章に何を選ぶかまですべてを考えなければならない。 そのうえで自分の書く字をどう見せるかという技術が必要となる。
さて、 それでは趣味でわたしが書いている書写はアートだろうか、 それともそうではないのだろうか。
日常的に使うメモでも伝達のための文章でもなく、 しかしときどき SNS に投稿するのは他者の目を気にしているようにも見える。 さりとて、 アートというほど文字の表現にこだわっているわけでもない。 書かれた字は手習いの域を出ないからだ。
自分自身が納得できるきれいな文字が書きたいという欲は、 コツを掴み練習時間を重ねれば、 ある程度満たすことができる。 書写は私にとってアートではなく、 文字を美しく書くための技術を磨く場所なのである。
使った文房具
なめらかでインクの裏写りもしないから万年筆との相性がよい便箋。
あまり見ないイエローの軸が気に入って買った 1 本。 書き味も良くて好き。
色彩雫のなかでも好きな色のひとつ。 透明軸の万年筆に入れるとよりきれいに見える気がする。