書写という趣味は、それが趣味である以上「字を書くことを楽しむ」ということが最優先されるべきだと思う。というのも、書写は実利的な面が目に入りやすいからだ。
字がうまくなることのメリットとして最も挙げられやすいのが、他者からの評価である。きれいな字を書くと、他人から好印象をもたれやすい。もうひとつは、記憶力と集中力が高まるというものである。字を書くことで漢字を覚えるということと、丁寧に字を書くことが集中力につながるというのが理由である。
字を美しく書くという目標が設定され、それに付随するメリットが明確になると、それらは商品パッケージになりやすい。
字を書くことの目的には、文字の伝達性を高める(美しく書く)という他者のための側面と、文字を書くことで自分の内面に意識が向かうという2つの側面がある。他者のための側面としての書写は、自分と他者をつなぐコミュニケーションにもなる。実際 SNS というソーシャル内で書写を投稿するという行為はコミュニケーションのひとつであり、書写はそのためのツールとなっている。先に挙げたように、字の巧さは他者からの好印象を得やすい。
書写をやる目的が他者からの評価にシフトすると、字を書くという努力をコストと考え、他者からの評価がリターンだという考えが生まれる。経済的な倫理では、コストに対して最大限のリターンを求めるのが正しいので、字に対する姿勢は甘くなり他者の評価ばかりを追い求めるようになるだろう。コミュニケーションそのものが悪いと言っているのではなく、字を書くという楽しみを見失わないでほしいということである。
書写に限らず、趣味におけるメリットは目的として目の前にくるものではなくて、振り返った後に結果として現れたものであることが望ましい。だから私は「書写をやるとこんないいことがあります!」という謳い文句があまり好きではない。たとえそれが事実だとしても、活動のメリットを前面に押しだすことは、書写そのものの愉しさとはちょっと離れている要素だと思ってしまう。
私が考えるに、わたしたちが志向している目的というのは、常に目的を達成するプロセスにある。字を手書きする過程でわたしたちは「自分が気づくことのできた発見」というものに遭遇する。それらが「わかってくる」と、字を書く過程で「できる」ようになることが増えるのだ。字を書くことの楽しみはそこにある。
私の考えはたぶんあまりにも自己に向きすぎているのだけど、インターネットが身近になりすぎた結果、読書も映画もアニメもソーシャルな世界で自分が存在し続けるためのツールに成り下がりつつある。書くことは早送りできないし、そこにはネタバレという概念もない。生身の身体を、実際に稼働できる時間で動かすという人間らしい制限のなかで、字を書くという趣味を楽しんでいるのである。
使用した文房具
バインダーで上部を挟むことを前提としているため、 2cm 下に切り取り線があるメモパッド。
ジェルボールペンは太さがあるため、はねやはらいがきれいに出る。