AI で記事を自動生成する機能が WordPress に加わるんだそうだ。 それがマット・マレンウェッグの考える 「出版の民主化」 なのかよ⋯⋯。 おれは民主主義を何かもっと別なもののように思っていた。 人間が汗をかくことでしか実現できない労働の、 価値が貶められるのとその負担が増大するのとが同時に起きてる気がする。 それがなければ世の中がまわらないくらい重要なのに、 敬意を払われるどころか、 だからこそかえって貶められる。 貶められる職業だからそんな扱いを受けて当然、 みたいな認識が当然の社会。 創造的な職種から先にどんどん AI にとってかわられて、 そのとってかわられる勢いと同時に代替のきかない職種が貶められる勢いが増している。 たとえば運送業は Amazon の 「サービス」 が当たり前になるにつれて低賃金でひどい重労働を強いられるのが当たり前みたいな扱いになっている。 アルゴリズムにこきつかわれるギグワーカが切断した指を地面に放置して次の配達先に向かわねばならない、 なんてことが現に起きている。 最後に残るのは介護とか原発炉心内部の清掃とかで、 だれだっていつかはその立場へ追いやられるのは明白なのに、 あたかも自分がサム・アルトマンやイーロン・マスクであるかのような態度で、 ひどい扱いをされる職種がひどい扱いをされることに、 だれもが拍手喝采している。 八百万の神とかアニミズムとか持ち出して 「日本人は AI に偏見がない」 みたいなことをいいたがるばかがよくいる。 そうじゃねえよ、 八百万の神でもアニミズムでもなく家父長制がそうさせてるんだよ。 「判断を委ねたい (隷属したがり、 抗う者を罰する)」 「責任をとりたくない (だから責任の所在を曖昧にする)」 という日本人の悪い習性。 それがかつて国を滅ぼしたというのにまだ懲りていない。 小泉政権の自己責任論のときも思ったけど (自己責任とは本来、 自分で責任をとる権利のことで 「自業自得」 の意味じゃなかった)、 この国の人間はいつだって自らを滅ぼすようなものを拍手喝采し大歓迎する。 一方で、 AI 生成の曲にグラミー賞を授与しないとレコーディング・アカデミーが決めたそうだが、 これはこれで乱暴な話だと思う。 たしかにたとえば YouTube ではすでに AI で自動生成したフェイク音源が海賊盤の発掘音源を装って出まわっていて、 なかには実際の発掘音源に自動生成のフェイクを巧妙に紛れ込ませたとおぼしきものもあり、 何をどこまで信じたらいいのかわからない状況になってきているけれど、 「AI を使う = 人間の仕事じゃない」 あるいは 「AI を使った作品 = 芸術じゃない」 みたいな批判は 「手で描いてないから写真は芸術じゃない」 みたいにばかげている。 有名アーティストを模倣する AI は個人の尊厳を冒涜するものであり労働の搾取でもあるけれど、 芸術家の意図を達成する道具に AI を用いるのはまったくおかしなことじゃない。 むしろ AI は本来そのように使われるべきだ。 批判すべきは人間が AI を使うのではなく AI が人間を使う、 もっといえば国家や企業が AI を使って人間を支配すること。 そういう意味で音声を鮮明に分離するというサー・ポールの使い方は圧倒的に正しい、 故人であるジョンもかれと曲をつくるためにデモを録音して託したわけだし、 何もどこもまちがっていない。
ソーシャルメディアでは仲間内の符牒として消費するに適したコンテンツが通貨のように流通する。 人間が描かれていればそれは各個人の内省という極めてローカルで汎用性に欠くものになり 「なじみ感」 とは相容れず消費にも適さず、 符牒として機能しない。 そのため表示機会が抑制され価値が貶められる。 それと逆のことをやるのが社会的に賢い行動で、 そうした賢い作品は全体を翼賛するものであって個を排除するので、 おれはあらかじめ排除されており、 読む資格がないものとして扱われる。 端的にいえば符牒を前提として共有しない人間は読者扱いされないということで、 それはきわめてソーシャルメディア的であり、 アルゴリズムによる権力の勾配が現代では小説そのものを規定してしまった、 したがっておれは小説というものからすでに完全に疎外され排除されたということ。 だからおれはだれにも見いだされない。 権威はおれを無視する。 これだけのものを書いてきてこれだけのことをやってきて、 逆にどうやったらそうなれるんだよ。 まぁでもぶつかりおじさんが主人公の漫画が共感を呼ぶ国だからな。 搾取や暴力に加担するもの、 人権や自由意思や民主主義を否定するもの、 想像力や人間性を否定するもの、 すでにあるもの、 つまらないもの。 家父長制を強化するもの。 そうしたものでなければ評価されない。 そんな社会で評価されてもなというのはある。 一方で他人はいとも簡単に評価されるよな。 五年くらい前までは小説を書くために生きていた。 いまはもうなんだかわからない。 何をしても意味を感じない。 むだにしか思えない。 巨匠の本、 自分できますやらせてくださいって頭下げた時点では年休消化がはじまったばかりだったんだけど、 三ヶ月くらいあったその時期が原稿を預かった時点ではもうとっくに終わっていて、 一切の余力がなくなったしおれのやってきたことへの世間の扱いが糞以下だったことに疲れ果てて、 出版どころではなくなっていた。 やりたい気持はあるけど体力がついてこない。 『ぼっちの帝国』 に瑕疵がないとはいわない。 最低限の常識を知らない落伍者の視点で書かれているから、 社会に適応して生活している人間には共感も理解もできない。 だれもが当たり前に呼吸している常識を知らず、 調べて書いているので、 そこが稚拙になっている。 社会からの逸脱について調べ、 知的な理想を語るのであれば、 それは前向きな未来を感じさせるものとして読者に好印象を与える。 おれの本はそれと真逆だ。 それはたしかに技術的に下手くそな部分で、 プロの条件を満たしていない。 本物の優れた才能なら最初からすべてを満たしているのだろうし、 そういう意味でたしかに瑕疵はある。 ただ、 それは本来は編集者や校閲者がどうにかすべき部分で、 本質的な作品の瑕疵ではないはずだ。 社会や出版社によって見いだされなかったことによって低品質になったとも見なせる。 すくなくとも他人が書いた原稿ならおれはそう評価する。 また、 世に出ている商品の大半は編集・校閲の手を借りてさえ何も満たしていないし、 それどころか技術的に稚拙なもののほうが 「なじみ感」 によって受け入れられる事実を鑑みれば、 常識を知らないがゆえの稚拙さは評価されない理由とはならない。 理屈ではそうだとしても、 読者にとって当たり前のことが稚拙に書かれていたら、 それは相手にされなくてもしかたがないのかもしれない。 それだからおれの本はアイダホ州ポテトタウンのスティーヴン・キングなのかもしれない。 つまり単純化していえば、 落伍者だからおれは落伍者の扱いをされているわけだ。 何もおかしくない。
「人を信じよ、 しかしその百倍も自分を信じよ」 と手塚治虫はいったという。 それができたからかれは成功した。 おれはどちらも信じられないからこうなった。 評価は作品の力ではなく社会的な能力。 うまく立ちまわる能力が価値を信じさせる。 おれだってひとや自分を信じたい。 でもひとに信じられないのに自分を信じるのは自己愛的な社会病質だ。 本来ひとに憎まれ蔑まれるべき父は自分を信じる力が強すぎてひとにも自分を信じさせた。 邪悪とはそういうことだ。 そうはなりたくない。 自分を信じないかぎりひとに信じられない。 ひとに信じられないかぎり自分を信じる資格はない。 どうにもならない。 社会病質に憎まれ蔑まれて育った人間はひとに信じられない。 ひとを信じれば暴力になるし自分を信じれば邪悪になる。 そのどちらも避けるにはひとりの世界にひきこもるしかない。 書くのは病気だし、 楽犬舎はそのために特化しているからいい。 残すのはむかしはきらいじゃなかったけど、 残ることによって書いた実感を得るようなところが前はあって、 それは見知ったものから発想が抜け出ていなかっただけのような気がする。 痒いから掻くとか眩しいから目をつむるとか、 書くのはそういうことでしかない。 読まれる能力が致命的にないので悩んでいたけれど、 読まれるための言葉しか見たことがなかったからそうしなきゃいけないと思い込んでいただけで、 実際にはそもそも読まれるために書いていたのではなかった。 ただの病気でしかない。 最近は小説も読めなくなってきた。 おれが書いてきたものがだめならなんだってだめだという気がする。 でも他人の書いたものはおれのよりだめでもいいことになっている。 おれがおれでさえなければいいのだと思うし、 それはそうなのだと思う。 生きてるだけで肯定される他人との落差がいけないんだよな、 なるべく視界に入れないようにしてるんだけど、 たとえば 『V.』 を読んでいてもこのひとは 20 代で評価されたんだよなあとか考えてしまう。 まあピンチョンとおれとでは当然の差で、 それだけなら何も感じないはずなんだけど、 おれでさえなければだれだっておれよりだめでもあっさり評価されることを思い出してしまって、 それでピンチョンまでも楽しめなくなる。 たぶんピンチョンだって社会的な立ち回りが下手だったら、 あるいは現代の日本で書きはじめていたらおれと同じ扱いを受けてたと思うよ。 蔑まれたくないから努力する。 それでも結局は蔑まれる。 筋トレして走るのだって醜さを謗られるのがいやだからやっている。 どんだけ努力しても結局は醜いんだけど。 普通はそんな努力しなくても醜くないわけでさ。 書いて出版することにはもう未練も関心もないんだよ、 でも読書は楽しみたい。 なのに楽しめなくなっている。
おれと一日違いの誕生日に妹と会った。 十年ぶりの妹はすぐには見分けられなかった。 四三歳なのに中学生みたいだった。 あの家にいたらまともな大人に成長はできない。 父のように肥ってはいなかった。 心臓病の手術をしてから食事に気をつけているという。 若いバンドのファンクラブに加入したそうだ、 手作りのグッズをたくさん身につけていた。 せめて楽しみがあってよかった。 妹は父が ASD であることはうっすら理解しているようだが反社会性人格障害であることまでは知らないようだし、 まんなかの兄 (おれの弟) もそうであることはわかっていない。 まして母が統合失調症であることはまるで知らなかった。 説明して聞かせたが理解した様子はなかった。 たぶん、 あの家に適応するために自分自身に対して見えないふり、 気づかないふりをせざるを得ないのだろう。 正月に帰省した弟が、 くだらないきっかけで狂人特有の暴言を吐いた父に腹を立て、 殴る蹴るの暴行をした話を妹から聞かされた。 四十を過ぎた社会病質が八十近い社会病質と殴り合い。 そしてそれを統合失調症の母がただ眺めている。 気違い一家。 うんざりだ。 おれも妹も四十すぎて一度も結婚していない。 弟もそうだったことを知って安堵した。 世間に迷惑をかけてはいても、 せめて女性や子どもを不幸にしなかっただけでもよかった。 まだ捕まっていないのはよい報せなのかそうでないのか微妙な気分だが、 それは父にしても同じことだ。 家を出てしばらくしてコンタクトを入れるようになったおれは二重になった。 妹は一重のまま。 家に残ったバージョンの自分を見せられているようだ。 もっともおれは人生のあらゆる可能性を潰されてきたけれど、 妹は標的にされていなかったから (両親が精神異常者であることに気づかないでいられる程度には)、 家政学科に通わせてもらえて手芸店に勤めて、 それで自分に合った仕事に就けた。 人生になんの障害もなければおれはデザイン関係の勉強をしてそういう職種に就きたかった。 何気ない会話を思い返してみれば妹は、 いまだに家に Wifi がないとか、 ちょいちょいおかしいことをいっていた。 狂人の家庭はそんなものだった、 忘れていた。 数年以内に介護の問題が生じるはずで、 いま家を出るならそのためのお金は出すけれど、 家のことには何が起きてもかかわらないよと釘を刺した。 わかっているといわれた。 妹は本数の少なくなったバスの時間と門限を気にしながら帰って行った。 土日祝日は家にいたくないからなるべく外を出歩くようにしているという。 四三歳なのに。 四半世紀前から人生が何も変わっていない。 ずっとそういう生活をしている。 妹はあの家に帰って行くのだ。 いまごろは父に怯えながら、 母と食事の支度でもしているのだろう。 そしてあしたに備えてねむるのだ、 狂人たちの家で。 妹と会ったあとはいつも寂しく哀しくやりきれない気持になる。 なんで自分たちだけがこんな目にあわなければならないのか。 たとえば犯罪者に小さな子どもを殺された家庭に育ったきょうだいがこんな気持なのではないか。 それでもささやかな楽しみを見つけて生きようとしている妹が不憫だ。 逃げ出す前のおれは自分の人生になんの権利もなかった。 選んだり決めたりする権利は狂人たちのものだった。 おかげでこんな人生になった。 でも、 四半世紀たってようやく最近では、 遺伝や生育環境が原因でこうなったにせよ、 その結果としての不幸に自分で責任を持てるようになった。 押しつけられた責任ではなく、 選びとった責任だ。 その責任こそが権利だと思う。 そういう意味で、 精神異常の犯罪者が責任能力を理由として罪を免れるのはまちがっていると信じる。 責任を負うのは人間にとってもっとも大切な権利だと思う。 父や弟のような犯罪者はその責任を負わねばならない。 おれが作家になれなかったのは、 こんな人生を生きてきたからだ。 生きてきた世界、 知っている世界に汎用性がない。 だれとも重ならない。 だれにも共感されない。 だれもこんな目にはあっていないから。 だからおれの言葉は、 だれにも相手にされなかった。 でもおれが作家になろうとしたのもこんな経験をしてきたからで、 おなじようなだれかを救いたかったからだ。 なんてひどいことだ。 おれがおれであるがゆえにおれはだれともつながれない。 なんで世界中でおれと妹だけがこんな目にあわなければならないんだろう。 前に妹に会ったあとは声をあげて泣いた。 今回はそうしなかった。 近所迷惑だし、 なんにもならないから。 それにおれはもう四十八歳なのだ。