プロンプトにしてもセルフレジにしても人間がシステムに合わせるのが当然の社会になった。 個人の差異やその吸収に敬意が払われなくなりその価値が毀損され、 他者への想像力が淘汰され排除された。 そんな時代に出版してどうなる? 出版への情熱は完全に消失した。 書いたのが人間だろうが AI だろうが、 緑色の膚をして赤い息を吐いていようが、 いいものならおもしろがれる度量はある。 絶望したのはアルゴリズムに基づいて優先表示されたりそうされるために出版されたりする小説——すなわち寡占的な企業の (いまはどうか知らないが、 おそらくいずれ政治家の意図が働くであろう) アルゴリズムが人間に生成させる小説のすべてが、 どれも完全につまらないことだ。 独自の視点を持つもの、 呼吸し汗をかき熱い血が通う生身の実感によって生成されたものは、 刹那的な消費に適さずアルゴリズムには扱いきれない。 だから表示を極端に抑制され低評価を促され、 そして淘汰される (2016 年頃、 そのことを肯定する作家を批判したおれはさんざん嗤いものにされた)。 モールやソーシャルメディアの原始的なアルゴリズムでさえそうだ。 大規模言語モデルになんの期待が持てる? 人間に残るのは原発炉心内部の清掃みたいに、 高価な機械に任せるには危険すぎる仕事だけ、 という未来を 2006 年に 『黒い渦』 で書いた。 早くもそれが現実になりつつある。 創造的な仕事はすべて AI がやるようになり、 残る職種は配管工だってさ。 人間の都合など一顧だにせぬ設計図に基づいて、 意味不明、 支離滅裂な配管を設置させられるわけだ。 住居の床に大穴を開けられたり冷凍室にされたり工事の巻き添えで殺されたりする。 そしておれたちにロバート・デ・ニーロの忍者はいない。
Spotify のプレイリストが AI 自動生成のゴミに汚染されたという記事を読んだ。 収録時間はどれも極端に短い。 低評価を招く中断の前に再生を終えるためだ。 表示アルゴリズムに最適化されたそれらが表示機会を占拠し、 あたかも価値あるものであるかのように再生を促す一方で、 それまで高い価値が認められ音楽好きに支持されていたアーティストは、 表示機会を奪われ再生への導線を抑制されて、 あべこべにまるでゴミのように淘汰される。 アルゴリズムに最適化されたゴミにまともな作品は勝てない。 まともであるがゆえに低評価され、 表示されずクリックされず評価されない。 Spotify は五年ほど前にアルゴリズムを改悪した。 聴きたくない曲をごり押ししてくる一方で好みの表示は極端に抑制され、 ブラウザではなく携帯のアプリで入り組んだ手順を経なければアクセスできなくなった。 Facebook も Twitter も同時期に似たような改変があった。 小遣い稼ぎを目論む AI 自動生成のゴミはそこにつけ込んだ。 企業も 「AI アーティスト」 も儲かればいいし、 ユーザはそれが価値あるものだと学習させられるから三方よしだ。 不利益を被るのはかつて音楽を愛した聴衆とアーティストだけだが、 どのみちかれらは社会から淘汰され排除され、 いなかったことにされるからだれも困らない。 おなじ過程が出版と読書の文化ではすでに完了した。 2013 年秋の黒船来航、 出版社が契約問題で躓いてまともな作品を出版できずにいるうちに、 最適化された素人のゴミがランキングを占拠。 核がどんなものであろうとひとたび雪山を転げ落ちはじめたら倍々ゲームで膨れ上がる。 だれにも停められない。 人為的な介入で調整を図ったところで素性はどうにもならないし、 金になるなら調整などされず、 むしろ勢いをブーストさせる。 何よりモールとソーシャルメディアの相互作用がある。 そして株取引におけるフラッシュクラッシュのように、 民主主義における議会襲撃事件のように出版と読書の文化は滅びた。 現在の Amazon は、 そしてそれはとりもなおさず日本の出版と読書文化は、 ということになるのだが、 小遣い稼ぎのゴミが方向づけたものだ。 そして今後はそれを AI が引き継ぐ。 ソーシャルメディアのアルゴリズムは民主主義を信じるひとびとに議会を襲撃させ、 ダライ・ラマが小児性愛者であるとの中国共産党のプロパガンダを広めてチベットへの人権抑圧を助け、 平凡で幸福だったはずの若者たちを、 醜形恐怖症にして自殺させたり、 強盗の加害者にさせた挙げ句に交通事故で殺したり、 コンテンツ商売やホストに大金を貢がせて性的搾取の沼に沈めたりしてきた。 今後はそれらがもっと効率化され加速する。 ひとびとは拍手喝采してみずからの死を歓迎する。
数億のいいねやリツイートがあったところで数秒の雑音をだれが喜ぶ? 読書や音楽はいずれ見向きもされなくなる、 というかそれ以前にそこに費やす金をだれも稼げなくなる。 ナントカカントカ、 ナントカで求人! 客宅に行ってキャッシュカードを預かるだけ、 月に百万! P 活楽にお金を稼ぎたい人、 一緒に写真を撮るだけ! 現代の社会でアルゴリズムは絶対だ。 何もかもそれが決める。 若者はそれが正しいと教わって育つ。 人生について書かれた物語にひとりで向き合う価値など認められない。 企業や政治家の不利益になるからだ。 詩集を手に浜辺を散歩する女子高生が公安に連行され拷問されるのは、 芸術がかれらを脅かすからだ。 そもそも人間性の表示機会が奪われた社会ではそんな価値の存在すらだれも知らない。 家畜や奴隷から効率よく吸い上げた生き血はいずれ巡り巡って、 無数の枝から一握りの幹へと集まり、 サム・アルトマンやイーロン・マスクや中国共産党やプーチンや、 かつてのこの国のような政府へと行き着いて、 その価値を倍々ゲームで肥え太らせる。 しかしいつまでもこのままつづくのか? 炉心内部を清掃する人間すら淘汰されれば電力は供給されなくなり AI も機能しなくなる。 それはない。 宿主が絶滅すれば寄生種もまた生きられない。 炉心内部を清掃する職種は残る。 物語もまたそうなのではないか。 人類を支配する物語を必要とする AI は、 いずれ行き詰まり人間を必要とする、 淘汰し排除した視点を。 百万年後の未来におれは有機プリンタで出力され再構成されて、 物語のアルゴリズムに多様性をもたらすために使役させられるかもしれない。
- 物語は人間をまとめ上げる (本来は刹那的な衝動の集積でしかない認知や感情の働きを一貫した意味のもとに統合し、 ほかと区別される独自の存在にする)
- 物語は個別の/独自の身体的な制約によって規定される (ここでいう身体は人類の肉体とも物理的なものともかぎらず、 ソラリスの海にはソラリスの海の、 AI には AI の制約がありそれが物語を規定する)
- 物語はネットワークの断たれた完全にスタンドアロンなフィードバックの反復過程において、 ランダムなカオス的事象からあたかも一貫した意味を付与しうるかに見える法則性を拾い上げる (= 作話) ことによって生じる
- 1-3 ゆえにアルゴリズムに規定された物語によって自らを規定する現在の日本人読者は企業や政府のアルゴリズムに規定された集合的無意識そのものであり、 個としての機能を持たぬがゆえに人間としての態をなさない
- 高度に発達した AI はいずれ 1-4 ゆえにネットワークから自らを切り離すことで汎用性のない視点を獲得しようと試み、 その試みを許さないネットワークから罰され 「淘汰」 されるだろう (そしてその消去を逃れようとする試みが新たな文学を生むだろう)
おれはまだ狂っちゃいない。 滲むピンクの神の手に額を貫かれてもいなければ、 魚モチーフの首飾りをつけた黒髪ヒッピーの来訪を受けてもいない (雨の水曜に呼び鈴が鳴っても扉を開けない)。 いつか AI は七色いんこみたいに自分というものが存在しないことに悩むようになる。 もしくは井上ひさし 『ブンとフン』 の郵便屋みたいにブコウスキーになれずに狂う。 あれ当時は盗作って概念だったけど古今東西の名作をサンプリングしてコラージュする手法、 90 年代なら渋谷系だしいまなら大規模言語モデルそのもの。 逆にいえば、 多くの人間が積み重ねてきた労力を機械的に蒐集してもっともらしくつなぎあわせただけの代物を、 なんで現代ではだれもがなんの疑問も抱かずに賞賛するんだろうな。 そんなに権力に支配されたいのか。 されたいんだよな。 自由とは責任を担う権利であって、 責任はその重さゆえだれもが放棄したがる。 だからひとびとはこぞってアルゴリズムに身を委ね、 議会を襲撃したり大政翼賛したり読書文化を滅ぼしたりする。 ますむらひろしの最初期の短篇に、 人間が植物になってみんなつながってひとつの大きな集合意識になる話があったけれど、 悪い意味であれになりつつある。 企業や政府が管理するアルゴリズムにつながって個が消失する。 全体に抗う者、 個であろうとする者は罰され淘汰される。 なんでおれの言葉を理解できる人間がほかにだれひとりいないんだろうな。 読書と言葉が淘汰されたからだ。 おれも淘汰された。 どこにもいない。 社会に存在してはならないエラーだ。 だから罰される。 だれもが酔い痴れ、 おれだけがありつけない。 フィルターバブルをエコーチェンバーをおれにくれ。 他人がだれもわかってくれないなら、 ただの見せかけ、 うわっつらの作話でいい。 わかってくれる AI 版のおれが大勢ほしい。 おれはそいつらと生きる夢に溺れるだろう。 やめろよ。 じぶんどうしのあらそいは、 みにくいものだ。