字を手書きする愉しみには、 書写以外に手紙を書くという行為がある。
Twitter をつうじた書写での活動は、 自分の書いた字を不特定多数の人に見てもらえる。 一方、 手紙を書くという行為は個人に向けて文章をつづる。
個人情報保護法がある今では考えられないことだけど、 その昔、 雑誌には文通募集のコーナーがあり、 個人宅住所とフルネームがばんばん載っていた。 雑誌には情報を載せる以外にも、 同じ趣味を持つ仲間を求める人たちを繋ぐ役割があったといえる。
また、 電子メールが手軽な連絡手段になる以前は、 電話と手紙が連絡のための主なツールであった。 単に近況を伝え合ったり、 趣味の話をしたりするだけなら、 今では電子メールや chat などのメッセージツールがある。 電話と同じく即時性があることが第一のメリットなのと、 文章としての内容が双方に残るという利点がメッセージツールにはある。
手紙のほうはどうかというと、 即時性はない。 返事は相手次第で来ない場合もある。 便箋、 封筒、 切手を用意しなくてはならない。 そもそも普通郵便がちゃんと届いているかどうか、 本人の手に渡っているかどうかの保証もない。 しかし、 この即時性のなさというのは、 裏を返せば相手にも自分にも十分時間が与えられるというメリットにもなる。 時間をかけて相手に言葉を投げかけ、 受け取った側も時間をかけて言葉を受け取って投げ返すことができる。 反射で返すことが苦手な人間にとって、 この 「時間をかけてもよい」 という特徴はメリットだろう。 文通というやり取りでは双方に時間がゆっくり流れる。
現在では、 自分の本名も住所も知られずに手紙をやりとりできる有料サービスがある。 一番大手で有名なのは文通村だろう。 入会するとペンネームと架空の住所で会員同士の手紙のやり取りができる。 文通村では個々の会員へ手紙を書くということを基本的なサービスとしているけれど、 誰に届くかわからない風船便というシステムもあり、 新規加入者にもなるべく最初に手紙が届くよう配慮されている。
手紙というのはもらうと嬉しいものだけど、 最初に 「自分から書く」 という能動的な行為が重要になる。 ただ自己紹介文を載せ、 自動的に誰かが自分を見つけてくれるのを待っているだけでは手紙は来ない。 むしろ手紙を 「書く」 行為が好きでないと、 文通は続かない。
文通村では誰に言われたわけでも強制されているわけでもないが、 よほどの事情がない限り、 ほぼすべての人が手書き文字の手紙をくれる。 ワープロで出力した文章でもそれが個人に向けて書かれている以上、 手紙に変わりはない。 しかしわたしたちは、 手書きの文字から 「温かみ」 を読み取る。 選ばれたレターセットとか、 自分に向けられた話題とか、 丁寧に書かれた字などから、 時間や手間や相手の人間性を推し量る。
文通は、 字を手書きするという愉しみより、 文字だけのコミュニケーションを楽しむという側面が強いけれど、 そもそも文字を手書きするという行為を苦痛に感じる人には続けられない。 自分の言葉で日常をつづる、 それを手書き文字で特定の相手に届ける。 手紙には字を書くという行為に情報伝達以上の意味が込められることが多く、 それは過去も現在も変わらないことだと思う。 目に見える形だと、 レターセットの趣味だったり字の美しさだったりするし、 目に見えない形で感じるとしたら、 「時間」 がある。 手紙を書いているあいだは、 相手のことを考えて想像しながら、 対話しているつもりで文章をつづる。 自分が文字を書きながら手紙を送る相手に語りかける時間を、 相手も同じように作ってくれていると思うからこそ、 わたしたちは手紙をもらって嬉しく感じる。
だから 「手紙に意味を込める」 のは手紙を送る側の人間というより、 受け取る側にあるのではないだろうか。 わたしたちは手紙そのものというより、 手紙にまつわる色々なものを楽しんでいるのであり、 それを文通と呼んでいるのである。
今回使用した文房具
折り目にミシン目が入っていて、 書き終わったところで切ることができる便箋。 手紙の長さを気にせず書けるのが良いし、 デザインもいくつかある。
海外万年筆は同じ F (細字) 表記でも、 国内産のものより若干太め。 細かい漢字を小さく書くのには向いてないかもしれないけれど、 ツイストは入門向けだし書き味はいい。
まず、 海外万年筆は欧州規格のカートリッジが使えるメーカーと使えないメーカーがあるので、 心配ならばコンバーターを買ってボトルインクを入れるのがベター。 とはいえ、 このエルバンのカートリッジを入れている小さな缶は可愛いのだ。