Twitter で独り言をつぶやく中年男がキモい、 と主張する増田を読んだ1。 言葉は現代の多くの日本人にとって、 同調圧力で互いに牽制したり自分を飾り立てて他者より優位に立ったりするための道具でしかない。 読書文化が滅びて内省の習慣は絶滅した。 理解できない文化や習慣は生理的に気色悪く見えるものだ、 おれにとってもかれらにとっても。 とはいえ 「なぜ Twitter で」 の疑念はおれ自身ずっと抱いており、 人目があるところでやるのは公害だとの自覚もある。 だから 2016 年以降、 BuddyPress や GNU Social や Mastodon でおひとり様を試行錯誤している。 読みたきゃ勝手に読みゃいいが、 そのためにやっているわけじゃない。 もうひとりの自分にしゃべるつもりで書いている。 この日記もそうだけれど、 こっちは文章としての流れや整合性も多少は意識する。 おひとり様サーバ 「楽犬舎」 で垂れ流し、 混乱した意識の流れをこの日記で整理して、 努力や力を自分に証明する⋯⋯そういう営みだ。 小説ではさらに自分への証明への意味合いが強まる。 運動選手がやっているのもそういうことなんじゃなかろうか。 話題の共有でも自分を粉飾してひけらかすのでもなく、 ただ実感を得たいのだ、 おれはこれだけのことをやったのだと。 おひとり様サーバで垂れ流すのは内省が目的だけれども、 書くことへの障壁を下げる意味もある。 ちゃんとしたものでなければ書いてはいけない、 と思い込むと何も書けなくなるし、 書かないおれは生きているんだかなんだかわからない。 より単純化していえば思考を言葉にせずにはいられない強迫行動の一種だ。 要するに病気なんで、 健常者が生理的に嫌悪するのは道理に適っている。
Twitter でやるのは違う、 とおれ自身が思うにはもうひとつ理由があって、 垂れ流したおれの言葉はおれのものでなければならない。 おれの言葉がおれの自由にならないなんて我慢ならない。 なんでわざわざ出向いていって企業の顔色を伺わなきゃいけないんだよ。 すっかり取り上げられて何ひとつ自分のものにならない。 観客の前で偉そうな面で気どってみせたところで、 他人の小屋で演ってるかぎりは、 先生や両親のお膳立てがなければ何もできないお子様同然だ。 楽屋裏ではこすいゲス顔でヘラヘラ愛想笑いして興行主にごますってるようなもんだ。 アルファ何とかやインフルエンサーや人気動画配信者なんて連中もそうだ。 貧しい若者から金を吸い上げる装置の小判鮫。 アルゴリズムが変われば一瞬で職を喪う。 せこいんだよ、 そういう意味ではたしかにキモいわ。 一方、 おれの悪い癖なんだけどついてる機能は試したくなるんだよな。 サーバ建てるたびに他人をフォローして、 やっぱ求めてたのはこれじゃないとなってやめる。 通知も最初から切ればいいのに、 あとになってうんざりしてから切ったりする。 そういうところがおれはだめなんだ。 「ふつう」 に歩み寄ろうと中途半端に努力する。 迷いがあって諦めきれない。 どうせ世間や他人からはゴミ以下の扱いしか受けないのに。 健常者の視界に触れる権利はないんだ。 以前、 自分しか読めないブログサービスってのがあった。 過去に書いた記事がランダムにメールで送られてくる。 忘れた頃に過去の自分から手紙が届く。 あれはよかった。 人気がなくてすぐに消えたけど、 やろうと思えば WordPress で再現できる。 いつかやってもいいな。
ソーシャルメディアは芸術を交流の通貨、 あるいは自分を粉飾する道具に変えた。 すくなくとも出版社はアルゴリズムに隷属し、 そのような商品価値しか提示できなくなった。 そうでない価値を提示したり次世代に伝えたりする努力をだれもが放棄した。 ソーシャルメディアとモールでうまくやるしか生き残る途がなかったから。 それが読書文化を滅ぼした。 このことを十年ほどずっといいつづけて、 だれにも伝わったためしがない。 みんなが楽しんでいる商品や交流を貶めたいわけじゃない。 早送りすると楽しめる映画はおれにも確かにあって、 それは知的好奇心を満たすとかそんなんじゃない。 たとえばそれは 『クローバーフィールド』 のぱちもん 『バトルフィールド Tokyo』 2で、 いわゆる酒の肴というか、 大笑いして気分よく酔っ払いたいとかそういうことなんだけど、 世間じゃそれはウォッチパーティで話題を共有するような、 体験共有ツールに相当するだろう。 おれは楽しむという概念を後天的に学習した。 だからそれを共有するという高度な応用はいまだにつかめない。 学習して理解はしたが自分のものにはしきれていない。 そういうのは生育環境で自然に学ぶべきものだ。 成人してから努力で身につけようとしてもどうにもならない。 おれは小説というものをだれとも分かち合えない内面を見つめる手段だと思っていた。 世間のひとびとにとっては違った。 それはパーティ会場の飾り付けやきらびやかなドレスや口をつけられずに廃棄される料理だった。
おれを貶めるだけの 「ふつう」 の他人を視界に入れたくない。 自力、 独力でフィルターバブルを構築したい。 他人に左右されず自己完結できる楽しみを得たい。 そのために自分を構成する要素を整理して単純にまとめあげたい。 身につけるものについては試行錯誤して好みが完成されつつある。 Mod Shopping のモッズスーツ、 Mod Clothing のシャツ、 黒の細いニットタイ、 Albert Thurston のブレイシスと靴下止め、 Hanes の A シャツ、 Toot のローライズナノボクサー、 Tabio の靴下、 Beatwear のビートルブーツ、 James Lock のレノンハット、 神田オプティカルの蟹目サングラス、 黒の M51 ⋯⋯。 子どもの頃に許されなかったささやかな挑戦を、 この歳になっていまさら重ねて、 自分は何が好きなのか、 徐々に見えてきた気がする。 おひとり様サーバは楽犬舎に落ち着いた。 もっといいのが見つかれば乗り換えるけれど、 当分はこれでいく。 本来だれもがサーバを所有して必要に応じて他人とゆるく連合するのがいい。 でも多くのひとにとって自前のサーバはハードルが高い。 だからお試しの段階が必要で、 ただそれは中央集権的な巨大サーバではないほうがいい。 jp や pawoo のような差別的なサーバでは鼻つまみの爪弾きだ。 なのでおひとり様に移行するまでの過渡段階として極小規模のサーバが必要だと考え、 オール・トゥモロウズ・パーティーズを無償提供している。 この考えのためだけに、 自分には何の利点もないことに毎月 1500 円+ドメイン代を支払っている。 ほったらかしで見に行くことさえ滅多にない。 ばかなのかなと自分でも思う。 実際ばかなのだ。 境界知能だ。 中学の知能検査ではふざけていると思われた。 使われていなければ躊躇なくやめるけれど、 確かめたら毎日だれかしらログインはあるようだ。 なので少なくとも数年はつづける。 あるいは利用しやすい分散プロトコルサーバが一般化するまでは。
TwitterBlue は論外だけれど利用するサービスには金を払いたい。 個人情報とひきかえに利用するサービスが時代に合わない気がしてきたからだ。 もしも広告がおれのことをほんとうに理解してくれるならば歓迎する。 金だろうが個人情報だろうがなんだって差し出す。 そのために各プラットフォームの調教を試みた時期もあった。 労力と時間に見合う結果は得られなかった。 教えた好みとまるで無関係の広告ばかり見せつけられる。 おまえの好みはこれだ、 買え、 おまえはこの程度の人間なんだと。 不愉快なので Amazon もあまり利用しなくなった。 ほしいものはなるべく専門店で買う。 いまちょっと迷っているのは YouTube に金を払うかどうか。 機能としてはオープンソースの代替サービスはあるけれど古いレコードを聴く目的において代わりにはならない。 Spotify には権利者が一時的に利用権をユーザに貸与してもいいと考えたコンテンツしかない。 なので YouTube からは離れられないのだけれどおれと相容れない醜い広告が不快だ、 その広告によって社会がおれを醜く規定するのが。 かといって低収入のおれに課金は身分不相応ではないのか、 広告非表示以外の機能に関心がないのに乏しい金をわざわざ使うのか。 しかし巨大プラットフォームのアルゴリズムからは逃れられない。 Amazon 以外の店を利用するにも、 その店を知るには Google やソーシャルメディアに頼らねばならない。 数年以内に現在の Google のような単語で検索するサービスは没落して AI にとってかわられるだろうし、 Twitter もそろそろ匿名掲示板や Mixi のような高齢者が懐かしむレガシーに移行しつつあるけれど、 だとしてもより質の悪い何かにとってかわられるだけで、 人間にとって価値のあるものが自然に見いだされるわけじゃない。 企業の意図に基づくアルゴリズムの優先表示によって選ぶよう仕向けられるだけだ。 そのコントロールがより狡猾に洗練されてより不可視になるだけだ。 おれは年寄りだから、 インターネット以前の評判にある程度は頼ることができる。 それにしても価値のあるものが自然に見いだされたわけではない。 だれかの意図と資本によって優先表示され仕向けられたという点では、 現代と何も変わらない。
Twitter で独り言をつぶやく中年男をキモいと感じる増田と、 文学部で文学について講義されたり芸大で美術作品を見せられたりして 「客が求めていないことをやるな」 と苦情をいう学生たちには、 どちらの背景にも想像力の欠如があって、 教育と出版・読書文化の衰退がかかわっていると思う。 かつて小説には他者への想像力や共感を育む役割があった。 その経験の積み重ねが尊ばれた。 いまはもうそんなものはない。 あるのは経済効率だけだ。 人間を描くと苦情をいわれるし、 売れずにあるいはそもそも商品化されずに淘汰される。 それらを排除するアルゴリズムに、 読者も出版社も長い時間をかけて最適化されたからだ。 読者も出版社も読者文化を担う責任を放棄し、 ソーシャルメディアやモールへの迎合に終始して、 次の世代を育てなかった。 おれはこの三年ほどで小説を読めなくなった。 映画も楽しめない。 ハリウッド映画はたぶん十数年前から企画開発をアルゴリズムに頼っている。 展開が早いだけでどれもおなじ、 感情を揺さぶられることがない。 金になる要素を効率化しただけの代物だ。 脚本家がストを起こしたと聞いてそこはまだ人力だったんだと驚いた。 日本の小説も変容の経緯こそ違えど似たようなものだ。 たぶん歳をとって感受性が鈍ったとかそういうのじゃない。 だって自分が過去に書いたものには何かを感じるから。 感じないのはそこに何もないからだ。 読者や観客がそういうのに慣らされて、 消費に適した空虚でなければ評価されなくなった時代に、 AI 的でないものはもう売られていない。 市場に出まわらないものを手にすることはできない。 そんな時代に、 貶められるとあらかじめわかっていながら必死こいて何かを書く気にはなれないし、 つまらないとわかっている本や映画に手を出す気にもなれない。 かつておもしろかった本や映画を知っている年寄りはこれから何を楽しみに生きていけばいい?
「大規模言語モデルが完全に開発・配備された場合、 文化的生産物全体の品質に及ぼす最悪の影響とは何か?」 との質問に、 LinkedIn の共同小説者として知られる起業家、 ベンチャー資本家、 著作家であるリード・ギャレット・ホフマンは職業作家の大量失業に加えて、 二点挙げているそうだ3。 いわく、
1. 均質化と多様性の喪失:大規模言語モデルによって、 既存のスタイルや、 ジャンルや、 トレンドを模倣した、 オリジナリティや、 創造性や、 信憑性に欠けるコンテンツが大量に生成される可能性がある。 その結果、 文化市場は、 低俗な嗜好を持つ大衆にアピールする当たり障りのない反復的な製品で溢れかえり、 革新や実験が妨げられる恐れがある。
2. 操作と欺瞞:大規模言語モデルは、 人間の偏見、 感情、 嗜好を悪用した、 誤解を招く、 あるいは有害なコンテンツの生成にも使用されうる。 たとえば、 フェイクニュース、 プロパガンダ、 誤報、 ディープフェイク、 詐欺、 ヘイトスピーチなどが生成され、 信頼性や、 民主主義や、 社会の団結を損ないかねない。
これ、 日本の出版と読書文化においてはもうすでに起きてしまった過去のことだ。 Amazon と Twitter のアルゴリズムに読者と出版社が隷属した結果そうなった。 日本人は本物をきらい贋物を好む。 本物には想像力や訓練や思考や責任が要求されるからだ。 だれもが虫のいい夢だけを見ていたがる。 八紘一宇や大東亜共栄圏のような幻想を。 だから乗りと空気と精神論で、 願望と現実をとりちがえた机上の戦略で国を滅ぼした。 AI はなんの視点も論理も理解も持たず、 人間の労働やその積み重ねの歴史になんの対価も支払わず、 成果だけを吸い上げて、 労働を提供したひとびとの思考を、 表面上の辻褄だけを巧みに模倣するのに用いる。 そうしてあたかもそこに何かがあるかのように偽装する。 ひとびとは安易な詐欺に進んで騙されたがる。 自由意志が重荷だからだ。 選択を権力に託せば責任の所在を曖昧にできる。 それが楽なのだ。 ひとびとが 「人間らしい」 として好むのはそういうものだ。 理解が容易だから。 すでに知っている枠内にすんなり収まるから。 人間そっくりに模倣する何か違うもの。 父がそうだった。 大人たちはだれもが父に味方し、 助けを求めたおれに説教した。 父は作話が巧みだった。 むしろ巧みな作話こそが父の本体だった。 注意深く聞けば矛盾だらけで支離滅裂、 なんの意味もなさないのだが、 それはあたかも人間のように見えた。 弱く陰気で無能なおれとちがい、 頼もしく好ましく人好きのする 「人間」 に見えた。 ディックはそれをシミュラクラと呼び、 深層学習の父と呼ばれるコンピュータ科学および認知心理学の研究者ジェフリー・ヒントンは 「とても上手に英語を話すのでだれも気づかないが、 まるで宇宙人が降り立ったかのようだ」 と表現した4。
遺伝なのか、 人間の心を学べる環境ではなかったせいか、 子どもの頃おれは動物に個性があるという考えが理解できなかった。 それはただそこにあって生きものとして動作する何かでしかなかった。 幸いおれには学校図書館があった。 父の不在時に隠れてテレビで観る映画もあった。 フィクションを通じて他者への共感や想像力を学び、 身につけたいまとなっては、 動物をただそのように機能するモノとして捉える感じ方が、 どれだけ怖ろしい非人間的なものか理解できる。 つまりおれの父親は人間をそのように見ていたのだ。 おれを殴るとき父親の目には息子がただ思いのままに動作しないモノとして見えていた。 そこに個性や感情が、 心があるとは理解していなかった。 731 部隊や九州帝国大学医学部の解剖実習室で行われたこととおなじだ。 そもそも彼自身に心という機能がなかった。 政治家の多くもそのように物事を捉える、 だから人権を憎む。 ひとびとは政治家にとって思うがままに支配されなければならないもので、 自由意志などという身勝手は許されない。 人間そっくりに模倣する何か違うもの⋯⋯そうしたものが現在やこれからの世代の精神面の成長におよぼす影響について考えるべきだ。 あたかも人間の心をもつかのように偽ることに長けたサイコパスに育てられた子どもが、 どんな大人に成長するか。 そのようにして育ったひとびとの社会がどのようになるか。
この三年で人間の扱いはひどく軽くなった。 雑で安易、 使い棄てる側も使い棄てられる側も他人事で、 まるで責任がどこにも存在しないかのようだ。 技術的にはテック企業の価値観とアルゴリズムがそういう社会をつくったわけだけれど、 プーチンの雑さ加減にも何か重なるものを感じるんで、 根はもっと深いのかもしれない。 価値観の大きな転換というか、 人間を無駄なコストとしか捉えず、 責任をないがしろにして効率を求めることが、 かつてなかった規模で肯定されるようになったように思える。 あるいはそれが自由主義経済ってものなのだろう。 法に触れなければ何をやってもいい、 責任なんてだれもとらない。 この方向での変化を AI は加速する。 雪山の斜面を雪玉が転がり落ちるみたいに。 議会襲撃事件も闇バイトも、 ロシア人が浮かれ騒ぐ Z の正義も、 大衆を操作することに特化したアルゴリズムに最適化された犯罪なんであって、 コロナ禍においてはそれがソーシャルメディア、 ロシア人にとっては国営テレビという過渡的で非効率な手段だった。 それが今後はより精緻に洗練され、 効率が指数関数的に増大する。 AI は感情をもたないから人間にとってかわることはない、 とウォズニアックは言ったそうだけど逆だ。 感情をもたないからこそ人間にとってかわる。 現代の社会が求めるのがそういうことだから。
出版社と問屋どちらの主導かわからないけれど、 ドラマ化などのタイミングで、 売りたい漫画の一巻を無料配布する販促が電子書店では十年くらい前から行われていて、 ここ数年そういうのを読んでいると 「この漫画のこの要素はあの人気作品のあの売れた要素と、 別の人気作品のあの売れた要素をかけあわせて、 いまの流行にあわせて洗練させたんだな」 というのが鼻につくようになった。 いまはまだ人力で企画開発をしている会社でも、 そういう仕事は明らかに AI のほうが得意なんで、 たぶん三年以内に人間は淘汰される。 電子化への移行に成功して比較的体力のあるはずの漫画でさえそうなのだ。 小説はもっとひどいことになる。 まずは最下層の下請けである作家が淘汰され、 社員ないし契約社員の編集者はプロンプターになる。 編集者もまた淘汰され、 編集長がそのプロンプターとなるけれど、 それはごくわずかな期間でしかなくて、 すぐに営業がそのまたプロンプターになる。 最終的には出版社、 というか出版という営み自体が人類の社会から消えてなくなって、 流行のプリセットだけが残る。 その流行も AI が生成する (その背後にはもちろん、 大衆を操作するごくひと握りの権力者がいる)。 読者はコンテンツ生成ボタンをタップするだけ。 そして最終的には読者すらも淘汰されていなくなる。 創造でさえ AI のほうがうまくやれるのに、 ボタンをタップする単純作業を人間にやらせるのは非効率だ。 というより以前にだれもが職を AI に奪われ、 ボタンをタップする権利など買えなくなる。 いい思いをするのは AI を買う金のある企業や政治家だけで、 かれらはその皮算用でいまの時点からほくそ笑んでいる。
とある調査報告によれば AI は三億人の仕事を奪うそうだ。 「建築設計・エンジニアリング」 がその第三位に挙げられている。 作話するブラックボックスが設計した建物⋯⋯おれならそこで働いたり生活したりしたくない。 使い勝手が極端に悪く、 壁の中央に出入りすらできない謎の小部屋が埋め込まれていたりしそうだ。 あげく新築お披露目パーティの最中に倒壊し、 ふるまい酒に酔い痴れていた大勢を殺して、 当然のようにだれも責任をとらない。 AI の本質は責任をとらない作話だからだ。 だから責任の所在をブラックボックスにする手段として企業や政治家や犯罪者が利用したがる。 いまもそうだし今後はもっとそうだ。 AI 以前、 ソーシャルメディアの時点でそうだった。 だれかが意図して操作したことを、 自然に起きたことやユーザ自身の選択のように思わせることができる。 それが広告というものだ。 その論理が現代の社会を支配している。 侵略戦争時代の日本やナチスがそうだったし議会襲撃事件もそのようにして起きた。 AI はソーシャルメディアよりも UI がパーソナライズされる分だけ個人の内面に深く食い込み、 支配が容易になる。 その背後には必ずだれかの意図がある。 そしてその意図は金で買える。 AI は責任の所在をあいまいにする装置として 1945 年の天皇に似ている。 経済効率と見せかけばかり追求する作話装置は住む人間のことなど考えない。 住む人間もまただれもおかしな設計を疑問に思わない。 AI に任せておけばまちがいないと思っている。 人間とちがって効率がよく正確なのだからと。 疑問に思えば見えない場所へ連れて行かれて拷問される。 「淘汰」 だ。 適応したひとびとはそのようにして快適な暮らしを謳歌し、 いずれ倒壊する建物の飾りつけに終始する。 だれも責任をとらない建築物になど足を踏み入れたくはない。 小説もまた構造物であるからにはおなじことだ。 しかし世の中まるごとが、 もうすでにその建物になってしまった。 スピリッツを切らして出口のないホテル・カリフォルニアのように。 ひとびとはそこで夢を見つづける。 でもそれはおれの夢じゃない。 楽しみの共有はおれには難しすぎる。