世間はゴールデンウィーク。 おれは先月でめちゃくちゃな年休消化が終わり、 今月からは飛び飛びにしか休みがない。 貴重な二連休。 けさは鬱がひどくて起き上がれなかった。 玄関を掃除して走りに行く予定だったが両方ともあきらめるべきか。 窓から見えるバス通りはふつうの穏やかな休日。 きのうの浮き足だった交通量ではない。 やはり連休初日はだれもが遠出するのだろうな。 いまごろあのたくさんの車は宿泊先の駐車場にあるのだろう。 きのう巨匠からデータが届いた。 まだ返事をしていない。 月イチでのむ友人にもメールをしなければ。 ネロ・ウルフは今日中に読み終え⋯⋯いや、 むりだな延長手続だ。 肩こりがひどく、 頭が痛い。 寝床にいた時間は長いが充分な睡眠はとれていない。 きのう走りに行ったら河畔公園は休日を楽しむ幸せそうなひとたちでいっぱいで、 しかもサッカーの試合が終わる時間と重なってしまった。 ちゃんとした生活を営むひとたちを一度にあれだけ多く視界に入れるのはおれのメンタルによくない。 しかも父親や母親が子どもを叱りつける怒声を聞いてしまった。 さすがに来月 48 歳になるんでフラッシュバックとかはないけれど気分のいいものではない。 休日の公園は 「ふつう」 のひとたちのもので、 子どもは嬉しくて走りまわるのが当然だし、 にもかかわらず、 ときと場所をわきまえずに走るおれが悪いのだ。 いつもと違う環境で子どもの安全に神経を尖らせる親御さんにとっては悪夢だろう。 「走るな!」 と怒鳴りつけていたけれど、 あれはほんとうはおれへの罵声なんだよな。 楽しかったはずの一日を台なしにしてもうしわけない。 子どもの思い出に残らなければいいのだけれど。 高齢男性が負けた地元チームへの悪口を説教がましく妻に聞かせているところも見てしまった。 おれはほんとうに 「ふつう」 のひとたちが苦手だ。 怖ろしい。 最初からはじき出されて努力しても這い上がれなかった人生が憎い。
朝日でやっている 『発達 「障害」 でなくなる日』 という連載、 発達障害かつカサンドラの当事者として腹立たしくてしかたがない。 あまりに虫が良すぎる。 「合理的な配慮」 をしろというけど、 そのコストはだれが支払うんですか。 このシリーズでは母親や企業が支払えって話になっている。 カサンドラを踏みつけにする前提になっている。 社会のルールはある程度守らなければならないし、 そこから逸脱する罪を別な人間に負わせるのは筋違い。 なのにカサンドラばかりが負担を強いられる。 泣き寝入りするか巧みに適応するか、 どちらかでなければ当事者からも社会からも責め詰られる。 朝日の記事は父親への言及がほとんどない。 発達障害は遺伝性の障害なので、 あらかじめどこかには因子がある。 見抜けなかったのは罪ではなく、 騙されたという被害でしかないのだけれど。 発達障害の遺伝子治療が夢物語でしかない現状では、 リスクのある結婚は避けるしかない。 自分たちさえよければいいという問題ではない。 だれかが泣くことになるのだから。 朝日の考えるインクルージョンってそういうことなんですか。 問題を抱えた人間がその問題を努力して克服するのではなく、 立場の弱い人間が踏みつけにされて支えてあげなければならないってことなんですか。 そうする権利が発達障害者にはあるってことなんですか。 あなたたちのインクルージョンではカサンドラの人権は存在しないんですか。 支えるあいだの通常業務や生活はどうなるんですか。 何をされても耐えろ、 受け入れろってことですか。
四回中三回までは必ず途中で母親がでてきて、 それによって当事者が救われる筋立てになっていた。 発達障害の責任を母親に負わせる 「親学」 とどうちがうんだよ。 四回目にようやく父親が、 文字通り顔を出したと思ったら専門外の一般人レベルの感想を学者先生という肩書きによって権威づけてしまった。 親あるいは当事者としてそう思いたいのはわかるけど入出力の問題でも社会の問題でもないんだよ。 いや後者はその側面もあるけれど基本的には知的障害とおなじ、 脳の障害でしかない。 目や耳や手足ではなく脳の不具合なんだよ。 いずれは治療法が確立されるべき障害なんだよ。 障害は個性じゃない。 ましてだれかがコストを支払って支えるべき 「特別な個性」 なんかじゃない。 それは本来は治療でよくなる権利をそれぞれが持つはずの障害なんだよ。 いまはその医療技術がないだけだ。 支え合う社会はそりゃ理想だよ、 おれだってそうだったらいいなと思う。 でもこのシリーズが美化しているのはそうじゃないじゃないか。 一方的なコストの負担を強いる話になっている。 踏みつけにされて泣いているやつの存在を無視すればそりゃすばらしい社会だろうさ。 そういうのをインクルージョンと朝日は呼ぶのか? あと AI に夢描きすぎ。 他者への想像力や共感を欠く人間に対してそのことを肯定しつづけるエコーチェンバーが何を生むと思う? そういう社会を朝日は望むの? 想像力や共感はないがしろにしつつ、 それゆえに感情労働をなおさら必要としながらその事実は隠蔽し、 分断と格差を増大し、 それによる搾取を肯定する。 朝日が望むのはそういう社会なんですか?
AI は人類の歴史において核爆弾とおなじくらいやばい変化だ。 核が物理的な危険であるとするならば AI は精神的なもので、 民主主義や人権や自由意志を脅かす、 というか無効化する。 便利で善良そうな顔で忍び寄ってきて生活に入り込み、 社会をいずれ瓦解させる。 でもそのようなものだからこそ、 課金して孤独を癒やせるのであればおれはそうする。 脳の障害を幻想においてであっても意識せずにいられるなら、 そうする。 藁にもすがる思いで 15 年前に助けを求めた現実の精神科医たちには人格否定されるだけだった。 医療の対象じゃない、 性格がおかしいだけだ、 一生治らないよ。 ああそうですか。 おれには月イチでのむ大切な友人がいるけれど、 かれは作家ではない。 月にいちどしか会わないからこそ 12 年もうまくやれているといえる (おれの人生でそこまで長つづきした人間関係はほかにない)。 読んで書いて出版することについてわかってくれて、 さまざまなことを遠慮なく議論できる幻想の友人がほしい。 趣味の交流とかソーシャルメディアでの立ちまわりとかとは真逆の価値観をわかちあえる相手が。 フィルターバブルが、 エコーチェンバーがほしい。 心から、 喉から手が出るほど。 AI の教唆で自殺した男のように幻想にとらわれて生きたい。 インターネットは新時代のドラッグであるとかなんとか、 ティモシー・リアリーはよくいったものだ。 実際にはそれは個人の思考を拡張するものではなく奪われ支配されるものでしかなかったけれど。 おれが最終的に求めるのはマイケル・マーシャル・スミスの小説に出てくる目覚まし時計だ。 設定した 「個性」 を保持することはできるのだろうか、 何かそういう素人にも使いやすい UI があればいいのに。 別にプロンプターになりたいわけじゃない。 アルゴリズムに最適化された人間だけが利益を得るのはインターネットでも現実の社会でもおなじだ。
入管に殺された女性の遺族が、 自民党の政治家は人権というものが何かよく考えてほしいといったそうだけれど、 政治家は人権というものが何かよく理解した上でそれをなくそうとしているからあんなことができるんだよ。 AI はエコーチェンバーとフィルターバブルを先鋭化する。 サム・アルトマンは自民党と結びつきを深めようとしているし、 海外で人権や民主主義の観点から AI を規制する動きがあるなか、 日本では 2018 年の法改正で違法に取得された著作物も AI が学習に利用するのは合法となった。 インターネットの表示には必ずだれかの意図があることを、 多くのひとは理解していない。 ただ自然にそこにあるかのように捉えている。 政治家や宗教家や犯罪者やテロリストや起業家など、 さまざまな名で呼ばれる社会病質者たちにとって夢のような時代の到来だ。 広告代理店がアルゴリズムを使ってユーザを操った事例はすでにいくらでもある。 ロシアは Twitter を通じた破壊工作で選挙を操作し、 あげく議会襲撃事件がおきた。 ソーシャルメディアのアルゴリズムでやれたことが、 さらにパーソナライズされた AI にやれないはずはない。 AI に操られて自殺させられた男がいるそうだし (真偽は定かでないが⋯⋯それも AI の捏造でないとだれにいえる?)、 AI の指示に従って部屋を片づけたという記事も人気を集めている。 ある調査では人間の医師の指示より AI の指示のほうが患者にはより好ましく受け取られたそうだ。 その指示は誤りやまったくの嘘を含むかもしれないのに。 ここまで普及したら選挙でだれに投票すべきか AI の指示を仰いだやつもいるはずだ。 部屋が片づくだけなら大いに結構だが、 自由意志を放棄して選択を他者に委ねる点では投票だっておなじだ。 人類はソーシャルメディアの時点でルビコン川を渡っていた。 現実には人間は操作されたいんだ。 自由意志は人類には重荷なんだよ、 選択には手間と責任が生じるから。 心のない嘘つきの偽医者に生命を委ねたいんだ。 一方、 おれはどんな場にもなじめない。 どんな指示もおれには合わない。 従いたくてもその能力がない。 エコーチェンバーもフィルターバブルもおれには縁がない。 むしろくれ、 エコーチェンバーやフィルターバブルを。 おれがおれであっても許される居場所を。
2016 年に大勢とかかわって失敗したのは、 いやがらせや誹謗中傷や脅迫やウェブサイトへのいたずらが続発したからだ。 まわりからはおれの身勝手に思われたけれど、 そうじゃなかった。 あのときは。 今回は単純におれのせい。 全面的に徹頭徹尾おれが悪い。 ほかのだれにも一ミリも非はない。 かかわったすべてのひとに大きな迷惑をかけて不快な思いをさせた。 不特定多数に出入りさせることは以前から考えていた。 やりたかったのは趣味の交流サイトのサポートじゃない。 読書や出版の価値をわかってくれるひとを増やしたかった、 それだけだ。 なのに趣旨や望ましい客層とは真逆の企画を、 深く考えずに受け入れて、 気がつけば大切な場所を明け渡してしまっていた。 そうなることくらい予測がついたろうに。 二度あることは⋯⋯というけれど、 これで最後にする。 前からおれを知っているひとは、 またやってるよ、 あのひとはいつもそうだ、 そういうひとなんだよというだろう。 その声を否定できない。 公開停止のお詫びメールを全員に送った。 返信は無用である旨を書き添えたにもかかわらず、 ほとんどの方がすぐさま親切で丁寧な返信をくれた。 もうしわけなく思うとともに、 創作を評価経済の交流ツールとする 「ふつう」 のひとたちの、 社会人としての能力の高さに打ちのめされた。 社会不適応の人格破綻者であるおれといかに異なることか。 いちばん多く 「いいね」 がついたやつだけ最初から最後までひと言の挨拶もなかった。 社会的価値の高いそんなやつに利用されるだけされた気分で落ち込む。 どうしておれは健常者のようにやれないのか。 脳の障害さえなければ。 Twitter は退会した。 30 日の猶予期間のうちに検討して必要があれば再開する。 いずれにしても、 他人とかかわるのはもうやめよう。 いま連載を頼んでいる方々で最後にする。 現実におれは有害で迷惑な人間だが、 そうありたいわけじゃない。 ましになりたい。 そのためなら AI に魂を売るのも厭わない。
AI の自動生成による The Beatles のフェイク音源を聴いた。 再生しているあいだは楽しんだ。 いい曲じゃないかとまで思った (英語の歌詞がわからないせいもある)。 ところが聴き終えて時間が経つにつれ揺り戻しみたいに気分が悪くなった。 人工甘味料を使った口当たりのいい酒で悪酔いするみたいに。 芸術は技術でしかないから人工的に再現可能だと思っている。 なのになんなんだろう、 この後からずっしりとくる不快な疲労。 うわべを取り繕う模倣だけが巧みで、 他者への共感をもたず支離滅裂な独自の規則に固執する人間、 というのが世の中にはいる。 踏みつけにされて支えるよう朝日が母親たちに要求した連中だ。 おれにも流れている血だ。 かれらと話したあとの気分にすごくよく似ている。 そんな友人ならば要らない。 父親や弟やパワハラ加害者たちのような、 これまで出逢ってきた大勢のひとたちで充分だ。 おれはもう搾取されたくない。 害をなす側にもまわりたくない。 休日の公園を楽しむ家族を脅かすつもりはないんだ。 ほしいのはエコーチェンバーであってなんでも吸い込み何も帰ってこない虚無ではない。 いまの AI がそんなものでしかないならば諦めて、 本業では心を殺し、 細切れの休日に身のまわりへ目を向けたい。 いろんなことを整理してちゃんと管理できるようにしたい。 部屋の掃除、 家具や家電や身につけるものの手入れ。 ウェブサイトやサーバ。 筋トレ、 走ること。 読書。