Twitter を見に行ったら総理大臣だの秘書官だの憲法学者の先生だののご意見が話題になっていた。 たくさんのひとが怒っている。 でも四年前に 『ぼっちの帝国』 に書いたときはだれにも相手にされなかったんだよな。 ひと月くらい前にもどうせだれも見てないだろと思って楽犬舎に 「読んでくれよ」 って書いたら、 フォロワーの多そうな他人にいきなり性的な言葉で全否定された。 怖かった。 おれが生きてきて膚身に感じてきたことと、 いかにも似たように思えたとしても、 かれらの考えは実際には学のあるひとたち向けの、 浮世離れした高尚な何かなんだ。 生まれ育ちも暮らし向きもぜんぜん違って、 高学歴高収入で他人に愛されていて、 そういう社会階層でないと参加できない抽象的な議論を交わすひとたち。 だから生身の人間が否応なしに感じて生きてきた思いを書いたところで、 性的な言葉で威嚇されたり、 上から目線でばかにされたりするだけ。 かんちがいしちゃいけない、 身分が違うんだよ。
GoToSocial 開発者のプロフィールを読んだ。 力強くて誇り高い。 言葉の自由がそこにはある。 それに較べておれらの国はなんてしょぼいんだろう。 アフガニスタンの軍事政権と大差ない。 恋愛も婚姻も家族形成もだれだって好きにやればいいと思うし、 わざわざ国家権力まで用いて妨げる意味がわからない。 というか、 一億総カルトだった侵略戦争時代には、 家庭は国家権力の最末端の下部組織だったわけだから、 それが覆るようなことを国民にされるのは権力者らには気に食わないんだろうと、 実はおれもわかっている。 そんな支離滅裂で意味不明な国からは、 そりゃみんな逃げ出すだろうさ。 でも現実に出て行けるのは最低限、 外国語ができるめちゃくちゃに有能なひとたちで、 だいたいにおいてそんなひとたちは、 おれみたいに社会病質の両親に虐待されて育ったりはしていない。 立派な家庭で愛されて育った、 学のあるひとたち。 生産性の高い優れたひとたち。 生殖市場でも価値のあるひとたち。 おれにできないことを当たり前にやれるすべてのひとたち。 おれだって能力さえあればこんな国は棄てたいよ。 もう日本はおれみたいな無能しか残らない糞溜になったのかもしれないな。
個人的にはどんなジェンダーであれ、 恋愛や性交や結婚や生殖をするひとたちが怖い。 仕事のできるひとたちとおなじ脅威をおぼえる。 その結果として生じた家族団らんでさえも異星の金属生物のやることのような、 気色の悪い脅威にしか感じられない。 おれはだれにも愛されたことがない。 愛される能力も愛する能力もない。 能力がないということは、 価値がないということで、 価値がないということは、 この社会にいる資格がないということだ。 万が一おれがだれかを愛したら、 それは浅ましくおぞましい暴力になる。 価値があるひとたちがうらやましい。 価値を堂々とプロフィールで訴える力のあるひとたちが、 うらやましい。 そして怖ろしい。
半年くらい前、 男性の上司に勤務時間の大半を付きまとわれて恫喝されたり尻を触られたりしたんで、 女性の上司に相談したらおれの性的指向をいきなり訊かれた。 まずもってそれ関係なくね? って思ったんだけど訊き方もひどくて、 男が好きなの女が好きなのっていうんだよ。 めっちゃ語弊あるじゃんよ、 はい女が好きですって答えたら大事故だろがよ。 従業員の九割は女性の職場なんだからさ⋯⋯いったいどんな答えを期待されてたんだろ。 正直に答えるなら人間がきらいです、 なんだけど。 搾取されたり疎まれたり脅かすのを畏れたり、 加齢による排尿の不自由に対処したりする以外におれがジェンダーを意識する機会はそうない (逆にいえばつねに意識させられてそのことを憎んでいる)。 ヴォネガットの小説に出てくる宇宙生物みたいに性別なんてものがなければいいのに。 ワタシココニイル、 アナタソコニイテウレシイ。
おなじ女性どうしで (あえて性別という概念で人間を分けるなら地上の総人口とおなじだけ種類があると思うけれど、 それはおいとく) だれかを排除するひとたちには、 ハリー・ポッターの著者みたいなわかりやすい差別主義者もいるし、 実際そうしたひとたちが大半だと思うけれども、 なかには説明する言葉がないか、 あってもそのことについて考えたくないか、 考えてはいるのだけれど稚拙すぎるために雑になって、 結果としてわかりやすい差別主義者と大差なくなったひともいると思う。 結果としてやっていることは差別であり、 まちがっているけれども、 その感情そのものまで否定されるべきではない。 これものすごくわかりにくい話なんだけれど、 その事情にたいしては想像力をはたらかせる必要があるんじゃないかな。 でもそれをすると J・K ・ローリング (関係ないけどあの大人気作品とこの著者を、 ついどうしてもハーラン・ポッターとリンダ・ローリングと書きそうになる) みたいな連中に加担したことになる。 かといってその事情を看過すれば、 それはそれでおれの父親みたいな連中に力を与えたことになる。 だから 『ぼっちの帝国』 ではありもしない答えではなく、 ただそういう現実があるってことを放り出すように書いた。
「わかりにくい (可視化されない)」 ひとたちが畏れているのは実際には、 具体的な何かに分類される実在のだれかではなくて、 生きてきたなかでじわじわと蓄積されてきた記憶の、 一方的な投影でしかない。 まったく関係ない他人に投影すること自体がたしかに差別ではあるのだけれど。 そのひとたちが畏れているのは目の前にいるだれかではなく、 過去の亡霊の積み重ねのようなもの、 長い時間をかけて心の底に溜まった暗い澱のようなものだ。 それは一度の大きなできごとかもしれないし、 いちいち思いだせない些細なできごとの積み重ねかもしれない。 ほんとうに批難し、 排除すべきなのは実際には過去の加害者ひとりひとりなのに、 それを表現する言葉も、 具体的にやれる行動も、 おまえだと指させる相手もないために、 無関係のだれかがとばっちりに遭う。 だれにもそのことをどうにもできない。
Mastodon で流れてきた話題で思ったのだけれど、 おれの父親みたいなやつの被害経験があるひとと、 そうでないひとのあいだには、 絶望的なまでに深い谷があるみたいだ。 たぶん 「いやなやつを懲らしめてやった」 系の物語で溜飲をさげる読者が想起するのは、 過去にかかわったおれの父親みたいな連中で、 「些細な瑕疵にたいする排斥」 と捉えるひとたちは、 幸運にもまともな人間としかかかわったことがないか、 社会的に有利な立場にいるために標的にされたことがないかのどちらかだと思う。 おれの父親みたいなやつが社会にまぎれこんでいる割合はあんがい高く、 すれ違ったこともないなんてことはあり得ない。 おそらく後者なんだろうな。 これ、 説明したところで伝わらない。 やられたことがないとわからないんだよ。 本来あの手の物語が攻撃すべき対象は、 特定の人物ではなくて、 そうした 「いやなやつ」 がいい目をみて、 標的にされた側が泣き寝入りをする社会構造そのものなんだけど、 支持する読者に問題があるとしたらそこかもね。 社会構造を批難しても勝ち目がないんで、 攻撃しても差し支えない相手を捏造して、 そいつを批難する。 結局やってることは加害者とおなじっていう。 あっそれって 『虞美人草』 じゃね? いや、 どうでもいいか⋯⋯。
おれの父親のような人物が、 社会的な力関係を巧みに見抜いて、 獲物にたいして何をどれだけやれるかは、 やられた経験がなければ想像もできない。 何をどう規制したところでかれらはそれをやるし、 「わかりにくい (可視化され得ない)」 ひとびとが畏れているのは、 実際にはそうしたことだ。 そして本物の加害者らは、 その 「わかりにくさ (不可視性)」 を利用する。 言葉を持たない善意のおれらが互いに揉めているうちに、 かれらばかりが得をするんだ。 そもそも J・K ・ローリングやロバート・ガルブレイスって筆名からして、 明らかな女性名だと読まれないから変えろ、 という出版業界の、 あるいは男社会の要求に従った結果なんだよな。 その圧力を受け入れることで彼女は成功した。 子どもを抱えた独身女性として苦労した逸話は有名だし、 差別意識で知られる彼女もまた、 おかしな世の中のいわば被害者だと思う。 ほんとうに憎むべき相手を見極められない筆力は、 読者として残念に感じる。 もう彼女の本を読むことはないだろうな。 かといっておれの本だって読まれないのだけれど。