九番通りにある空色のアパートの一室。ステイシーが数日掛けてダンボールに詰め込んだ私物の数々は、すべて友人たちの手に渡った。アンリ・マティスの切り絵ポスター、針金を組んだだけのライト、棘のないウニのようなクッション、コーヒーメーカー、食器、便秘の気を紛らわすためにトイレに置いていたラジオ、一人用テーブルと椅子。収集癖がないはずの彼女のもとに自然と集まった品々は記憶から感傷、心の澱(おり)へと変化した。ダンボールが一つ消えていく度に彼女は身軽になっていった。さながら、積み木崩しのように。ステイシーは煙が少ない細い紙巻煙草の煙によって淡い彩色がされた壁紙を見た。数年に渡って日々、制作され続けた生活の反復を。ステイシーは床に置かれた旅行鞄の上に腰を下ろし、ゆっくりと上体を反らせて目を瞑る。
「これだけでここに来た。だから、これだけで帰る。あたしは何も変わっていない」
 独り言は卑屈さや惨めさに支配されていた。

 ステイシーはオレンジ色の光が閉じた瞼を照らす頃に目を覚ました。彼女はブロンドに染めた短い髪を掻き上げ、細い手首に巻かれた腕時計の簡素な文字盤を見るなり、ため息をついて立ち上がった。ステイシーは旅行鞄を肩にかけ、数歩歩いてドアノブに手をやるものの、何かに引っ張られるように振り返って、ミニマル・アートのような壁紙に目配せした。ドアノブを捻り、勢いよくドアを開けると衝撃が伝わり、彼女は旅行鞄を落とした。ドアの向こうには鼻をおさえたジェイクが立っていた。ジェイクは手をヒラつかせながら膝を曲げ、床に落ちた球形サングラスを拾った。ジェイクの顔におさまった球形サングラスのフレームは衝突の衝撃で歪んでいたものの、ジェイクは気にする素振りを見せなかった。
「グルーヴィ」
 冷ややかな怒りを含んだ目でステイシーが「何の用? あたし、急いでいるの」と言うと、ジェイクはステイシーの腕を掴んだ。ステイシーが腕を振ってもジェイクはステイシーの腕を離さず、彼女の細い腕に巻かれた腕時計の文字盤を覗き込んだ。
「九番通りのバスなら、五時までだぜ」
「だから? あなたに言われる筋合いはない。あたしは帰る。なんにもない、ただ、口を開けてあたしを待っているだけの場所に」
「車と運転手が必要だろ? ビーチで水遊びするのとはワケが違うんだ」
「離してよ」
「ステイシー、耳をすませな。聞こえないか?」
「くたばれ」
 ジェイクが笑い、球形サングラスの縁を撫でると歪んだフレームが床に落ちた。
「〈粘土の壁〉の呼び声だよ。向こうに着いたら、イカとかカニとか、貝を煮込んでブイヤベースとワインで洒落こもう。用意はできているんだ。食材は買ってないけどな。あたっちまったら最悪だし。前にビーチで獲った貝を素焼きにして食ったことがあるんだが、何日も便所で過ごすことになった。ダイエットを考えているなら、おすすめするけど、どうだい?」
 ステイシーは床に落ちた旅行鞄の取っ手を掴んで「いらない」と言った。ジェイクの茶色い瞳の上に漂う光の白い点が眼球の上を滑る。
「おれは形のないものを捕まえようとしている。それは、蝶みたいに軽やかなのに、形がなくて、どんな武器も寄せ付けないくせに、卵の殻よりも薄くて弱い」
「キメている?」
「もう切れているよ。おれはそいつをやっと捕まえた。マドレーヌをたらふく食い、サイコロから偶然が消えてなくなるまで投げつづけた。あれをファックスで送ったから、クエンティンも腰を抜かしているだろう。電話口で愚痴を言われるかもな」
「お酒を飲んでいる?」
「いいや、素面さ。酒は一滴も飲んでいない」
「嘘」
「嘘じゃない」
 ジェイクはステイシーに向かって吐息を吹きかけた。マリファナや酒の臭いは混じっておらず、生臭いだけの吐息だった。顔を顰めたステイシーが「臭い」と言った。
「それじゃあ、明日からは毎食後に歯磨き粉をチューブ一本使って歯磨きするよ。信用したかい?」
仏頂面でステイシーが「えぇ、まぁ」と言うと、ジェイクは口笛を一吹きしてステイシーの腰に手を回した。
「それじゃあ、ワルツといこう。ソウルトレイン・ダンサーズも真っ青なぐらいの極上のワルツ」
ジェイクは爪先に旅行鞄を引っ掛けると足を上げ、半回転した旅行鞄がジェイクの肩に吸い寄せられた。フランス革命とナポレオン戦争終結後に疲弊したヨーロッパの再建を目指したシェーンブルン宮殿から流行した円舞。会議は踊り、より巨大な戦火、大円を描いた歴史の皮肉。ジェイクは口笛でヨハン・シュトラウス二世の『人生を楽しめ』を吹いた。ジェイクは抱き寄せたステイシーに
「ナチュラル・ターンだ」とささやく。ステイシーの腹と背中が交互に廊下を向き、歪んだ円が廊下を進んでいく。二人はクスクス笑いながら階段を下り、外に出た。ジェイクはステイシーの肩に顎を置いてトレーラー・ハウスを牽引するフォードを見た。
「カボチャの馬車さ。靴は?」
「履いてる」
「グルーヴィ、さぁ、乗ってくれ。グズグズしてもトゥクトゥクに乗ったスパイは助けに来ないんだから」
「あの映画は最低だった」
「たしかに、最低、最悪。ついでに整合性、リアリティもない。好き勝手に書き、演じ、撮影した。だけど、それでいいんだ。おれたちだって勝手に生きて、勝手に死ぬんだからな」
 二人は自動車に乗り込み、ジェイクがアクセルを踏んだ。自動車は喘息気味な息も絶え絶えといった音を響かせながら発進した。

 自動車は閑散とした九〇五号線をひた走る。二車線しかない道の両脇の草むら、茶色と薄緑色のコラージュのような景色。ステイシーが細長い紙巻煙草に火を点けると、煙は窓の外に吸い寄せられた。ステイシーが言う。
「あたしたち、どうなるのかしら?」
「どうもこうもない。やることなんて変わらない。トンネルを抜けたら、またトンネルがあるだけ」
「哲学的ね。そういえば、アビーって子はどうしたの?」
「アビーならサクラメントに帰ったよ。モアのタクシーに乗せた」
「あの子、お金を持っていたの?」
「おれとステイシーの有り金全部を足したところで、アビーの小遣いにも及ばないさ」
「彼女に恨まれるようなことしたでしょ?」
「さぁ、身に覚えがない」
「キャブには悪いことした」
「お別れに売上を持ち逃げしたのかい?」
「そんなことしない。彼は、あたしをずっと雇ってくれた。真面目で、いい人。それなのに、あたしは自分の都合を優先させた」
ジェイクが口を開くと、後方からジミ・ヘンドリックスの『クロスタウン・トラフィック』が聞こえた。二人が振り向くと、フォルクスワーゲンのバンが猛追してくるのが見えた。バンは対向車線にはみ出し、ジェイクたちの自動車に横づけした。ハンドルを握るのはラメ入り星型サングラスに山高帽のジーン・ブリードだった。ブリードが窓を開け、片手に握られた拡声器に向かってダミ声シャウトした。
「よぅ、メリーポピンズ気取りのイカサマ野郎」
 助手席に座っていたランカスターが身を乗り出し、空に向かって自動拳銃を発砲した。黄ばんだランニングシャツ姿のジョシュア・ザイトリンは「せいぜい、羽を伸ばせ」と叫びながら、すべてのツケが記入された請求書の束を千切った。紙片が空に舞い上がり、オニカマスの鱗のように輝く。半袖の空手着を着たミューレンがスルリと窓から飛び出し、バンの屋根に飛び乗ってショー・コスギのような演武をする。ブリードが「うまくやれよ」と叫び、対向車のトラックがクラクションを鳴らした。ブリードは急ハンドルを切り、バンが草むらに突っ込んだ。腹を抱えたジェイクが「グルーヴィ」と言った。

 薄暮から夕闇、幽遠な朝へとつづく、円環。

 乾いた大地、棘だらけの薄茶色の草、地平線を走る赤銅色。自動車を停めたジェイクは助手席で赤ん坊のように背を丸めながら眠るステイシーを見ると、笑みを浮かべて自動車を降りた。とぼとぼ歩いたジェイクは風と土埃にさらされつづけたことで風化したような公衆電話に近付き、受話器を手にとる。
「よぅ、久しぶり。元気かい? おれの調子? もちろんいいさ。健康の秘訣は毎日のハッパ。冗談だよ。やるべきことはちゃんとやっている。安心してくれ。ところで、お前さんが昔、言っていたこと、覚えているかい? ソッチじゃない。車のことさ。今、空が見えるかい? なら、外に出るといい。部屋にばかりいたら息が詰まるぜ。今、おれはバラクーダみたいな斑点模様の雲を見ている。生きているっていう実感できるようなもので、すごくキレイだ。こんな気持ちになったのは久しぶりだ。いいや、ハッパはキメちゃいない。着いたらキメるがね。運転している時にキメるのをステイシーが嫌がるんだ。尻に敷かれているだって? そうだな、おれ自身、驚いている。おれは感傷的になったと思うかい? そうかい。お互い、少しは成長しているのかもな。気が向いたら、また電話するよ。それじゃあ、イシュマエル。またな」
 ジェイクは受話器を置く。そして、大袈裟に息を吐きながら首を横に振る。
「おいおい、いつまでページを開いているんだい? ここから先は何もない、ただの空白。引き千切ってもいいし、気ままに書き足してもいい。どの道、形あるものはすべて変わるんだからな。陰鬱な気分になるだって? そういう時はレコードの針を落とすといい。おすすめはJB。ボビー・バードが隣にいた時が特にいい。それじゃあ、いくぜ。1、2、3、4!」

 THE END


作家、ジャズピアニスト、画家。同人誌サークル「ロクス・ソルス」主催者。代表作『暈』『コロナの時代の愛』など。『☆』は人格OverDrive誌上での連載完結後、一部で熱狂的な支持を得た。

連載目次


  1. 星条旗
  2. テキサス人
  3. 保釈保証書不要につき
  4. バロース社製電動タイプ前にて
  5. アスク・ミー・ナウ
  6. ユートピアを求めて
  7. ヴェクサシオン
  8. フィジカル
  9. バロース社製電動タイプ前にて ~テイクⅡ
  10. ジェリーとルーシー
  11. プレイヤー・レコード
  12. イースタン・タウンシップから遠く離れて
  13. エル・マニフィカ ~仮面の記憶
  14. バロース社製電動タイプの前で ~テイクⅢ
  15. 炸裂する蛾、網を張る蜘蛛
  16. 窓の未来
  17. セックス・アフター・シガレット
  18. バロース社製電動タイプ前にて ~テイクⅣ
  19. アタリ
  20. 小カンタベリー、五人の愉快な火かき棒
  21. 回遊する熱的死
  22. 顔のないリヴ・リンデランド
  23. 有情無情の歌
  24. ローラースケーティング・ワルツ
  25. 永久機関
  26. エル・リオ・エテルノ
  27. バトル・オブ・ニンジャ
  28. 負け犬の木の下で
  29. バロース社製電動タイプ前にて ~テイクⅤ
  30. エアメール・スペシャル
  31. チープ・トーク
  32. ローリング・ランドロマット
  33. 明暗法
  34. オニカマス
  35. エル・マニフィカ ~憂鬱な仮面
  36. ニンジャ! 光を掴め
  37. バスを待ちながら
  38. チープ・トーク ~テイクⅡ
  39. ブルックリンは眠らない
  40. しこり
  41. ペーパーナイフの切れ味
  42. 緑の取引
  43. 天使の分け前
  44. あなたがここにいてほしい
  45. 発火点
  46. プリズム大行進
  47. ソムニフェルムの目覚め
  48. テイク・ミー・ホーム
  49. オン・ザ・コーナー ~劇殺! レスリングVSニンジャ・カラテ
  50. 血の結紮(けっさつ)
  51. 運命の交差点
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