バラクーダ・スカイ

連載第50回: 血の結紮(けっさつ)

大きなタイヤの電動車椅子を操作するオルセンはエル・ガイシャ通りからほど近い、白いレンガ造りの文房具店に入った。店主であるイナーム・アルハーシが笑顔でオルセンを迎えて何か言ったものの、オルセンは愛想笑いを浮かべただけだった。オルセンは車椅子のハンドルを操作しながら狭い廊下を進む。香辛料の匂いが漂い、七音音階的な単旋律の歌声が響く薄暗い廊下を。植物園のような中庭を通過していると石のテーブルの上に置いたチェスのようなゲームをしていた男たちが手を止め、手招きした。片手で車椅子のハンドルを操作したオルセンが男たちに近付くと、彼らは裏表のない笑顔を浮かべた。笑顔の隅には憐憫が見て取れたものの、オルセンは気にする素振りを見せずに吊りベルトを弦のように弾いた。石のテーブルの上に置かれた木製の盤には糸巻き型の駒と円錐型の駒。盤の下には四本の小さい投げ棒が転がっている。盤に刻まれた三〇のマスをZ字型に駒を進める奇妙なゲーム。男たちは人生の楽しみについて語ったが、オルセンはうなずくだけ。男の一人がミントと牛乳を加えた紅茶をカップに注いでオルセンに差し出した。礼を言ったオルセンが紅茶を飲み、男たちはゲームを再開した。歌のようなお喋り、どこからともなく聞こえる哀切な単旋律、乳白色の中庭を彩る、発音もままならない植物たち。テーブルにカップを置いたオルセンは、男たちに別れの挨拶を済ませて車椅子のハンドルを操作した。
 ひんやりした廊下を進んだオルセンは黒いドアを押して部屋に入った。開け放たれた小さな窓からは地中海の湿った風が入り込み、ベッドの上に山のように置かれた本のページをめくった。口内に広がるミントの匂い、殺菌が不十分な獣臭い牛乳、粉末状の紅茶、潮風。机の前まで進んだオルセンは厚い本に手をのせ、窓の外に広がる裏通りを見た。通りの電柱から直接引いた受話器が鳴り、受話器を手にとったオルセンがたどたどしいアラビア語を口に出すと笑い声が聞こえた。
─ 成功したのに、隠遁した感想はどうだ?
 オルセンは自嘲的な笑みを浮かべ。
「悪くないね。新しい車椅子はいいし、人も親切だ。憐れに思われているのは癪だけれど。外に行くだけで施しを受ける。アメリカじゃあ、考えられない。
─ 不満か?
「いいや。こっちでは、大学の講義に参加したりしているよ。でも、車椅子の白人は目立つらしい。なにかと世話を焼かれる。それでトラウトマン。君は? 今、どこにいるんだい?」
─ 手術台の上にいる。
「具合が悪いのかい?」
─ いたって、健康だ。ラングーンの馬鹿げた話を聞かないで済むという事実を合わせれば、前以上に心身ともに健康だ。
「それなのに、手術台?」
─ 今から、おれの陰嚢に局所麻酔が注射される。そして、メスが小指の先ほど入り、精管を糸で縛って切断する。
「去勢?」
─ 精管結紮(せいかんけっさつ)、要するに避妊手術だ。
「教えてほしい。どういう心境になったら避妊手術をしたくなるのかな?」
─ おれはもっと先に進む。だから、今後、おれの足を引っ張る可能性のあるものすべてを排除する。
「妄想だよ」
─ オルセン、お前はわかっていない。血は何よりも濃い。人生の絶頂に最悪のタイミングで横槍をいれる。だからこそ、その血を縛り切っておく必要がある。
「まぁ、考え方は人それぞれだけど。ビジネスは?」
─ おれはそれが聞きたかった。感傷めいたお喋りにはうんざりさせられる。新しいビジネスをはじめる。複雑に絡み合った糸のようなネットワークが新たに創発させていくようなものだが、これはしばらく先になる。準備には時間と金が必要だからな。それまでは仕込んだ金と、手駒を増やす」
「ぼくも手駒になるのかい?」
─ お前は有能だ。
「君がぼくをエジプトに押し込んだと記憶しているけど?」
─ 嫌なら、もっとマシなホテル暮らしができる。お前にはそれだけの金がある。
「まぁね。でも、タダでお茶を飲める生活も悪くないよ。ミントの入った紅茶は好きじゃないけど」
─ 引っ越す場合は連絡しろ。探すのが面倒だ。次の電話があるまでは、大学で聴講すればいい。アラビア語を勉強しておけ。必ず役に立つ時がくる。
「気長に勉強するよ。他にやることもないし」
─ いいぞ。命の使い方はよく考える必要がある。ほとんどの人間は命の価値、しかも他人の命についてしか考えない。せいぜい、遠い国の、ガスが溜まって腹を膨らませたガキをテレビで観たから寄付する程度だ。お涙頂戴の人間中心主義には反吐が出る。オルセン、考え抜いた命の使い方をおれに見せろ。そうするのなら、今回みたいな子供だましじゃない。本当にエキサイティングなものを最前列で見せてやる」
「最前線の間違いじゃなくて? あぁ、この場合は前立腺と言ったほうがよかった?」
 笑い声の後に電話が切られ、受話器を置いたオルセンは厚い本を開いた。


作家、ジャズピアニスト、画家。同人誌サークル「ロクス・ソルス」主催者。代表作『暈』『コロナの時代の愛』など。『☆』は人格OverDrive誌上での連載完結後、一部で熱狂的な支持を得た。

連載目次


  1. 星条旗
  2. テキサス人
  3. 保釈保証書不要につき
  4. バロース社製電動タイプ前にて
  5. アスク・ミー・ナウ
  6. ユートピアを求めて
  7. ヴェクサシオン
  8. フィジカル
  9. バロース社製電動タイプ前にて ~テイクⅡ
  10. ジェリーとルーシー
  11. プレイヤー・レコード
  12. イースタン・タウンシップから遠く離れて
  13. エル・マニフィカ ~仮面の記憶
  14. バロース社製電動タイプの前で ~テイクⅢ
  15. 炸裂する蛾、網を張る蜘蛛
  16. 窓の未来
  17. セックス・アフター・シガレット
  18. バロース社製電動タイプ前にて ~テイクⅣ
  19. アタリ
  20. 小カンタベリー、五人の愉快な火かき棒
  21. 回遊する熱的死
  22. 顔のないリヴ・リンデランド
  23. 有情無情の歌
  24. ローラースケーティング・ワルツ
  25. 永久機関
  26. エル・リオ・エテルノ
  27. バトル・オブ・ニンジャ
  28. 負け犬の木の下で
  29. バロース社製電動タイプ前にて ~テイクⅤ
  30. エアメール・スペシャル
  31. チープ・トーク
  32. ローリング・ランドロマット
  33. 明暗法
  34. オニカマス
  35. エル・マニフィカ ~憂鬱な仮面
  36. ニンジャ! 光を掴め
  37. バスを待ちながら
  38. チープ・トーク ~テイクⅡ
  39. ブルックリンは眠らない
  40. しこり
  41. ペーパーナイフの切れ味
  42. 緑の取引
  43. 天使の分け前
  44. あなたがここにいてほしい
  45. 発火点
  46. プリズム大行進
  47. ソムニフェルムの目覚め
  48. テイク・ミー・ホーム
  49. オン・ザ・コーナー ~劇殺! レスリングVSニンジャ・カラテ
  50. 血の結紮(けっさつ)
  51. 運命の交差点
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