バラクーダ・スカイ

第49話: オン・ザ・コーナー ~劇殺! レスリングVSニンジャ・カラテ

Avatar photo書いた人: イシュマエル・ノヴォーク, 投稿日時: 2023.01.25

トレーラー・ハウス内はタイプライターから吐き出された切れ目のない紙で溢れ返っている。ソファに寝転がっているジェイクは製作途中のミイラのようである。しかしながら、ジェイクには脳と内臓があり、全身をナトロンで覆われているわけではない。上体を起こし、ソファから起き上がったジェイクは長い紙の先を掴んで丸めていく。言葉は無伴奏で踊る。軸のないロトゥルス、『オン・ザ・ロード』や『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校』のように。紙束を握ったジェイクが外に出た。青々とした空、降り注ぐ太陽光、太平洋から打ち寄せる波と潮風、ビーチ利用者たちからこぼれ落ちる笑顔。ジェイクは球形サングラスの縁を撫で、薄茶色をした砂浜を歩き出した。
 ジェイクが板張りの簡素なビーチ管理事務所に入ると、ライフセーバーのバーノン・クックが浮き輪の数を数えていた。紺色の海水パンツ姿のバーノンの背中は日焼けしており、逆三角形。バーノンは海水で固められた髪を撫で「やぁ、ジェイク」と言った。ジェイクは巻物を握る手をヒラつかせた。
「よぅ、バーノン。元気にしているかい?」
バーノンは突き立てた人差し指で半透明の浮き輪を差し
「元気だよ。不思議に思うんだ。どうして、価値なんかまるでない浮き輪を借りたまま返さない人がいるってことを」
「そりゃ、決まっている。価値は金の重さじゃないからだよ」
「思い出に浮き輪を持って帰るのかな?」
「思い出、執着、偏執。言い方は色々さ」
 麦わら帽子の側面を指で弾いたジェイクはステンレスの事務机に置かれた二台の扇風機と黒い電話、ファックスの順に見た。ジェイクが
「ファックスを貸してもらえるかい?」と言うと、バーノンは腰に手をやり
「いいけど、持って帰るのは駄目だからね」
 ジェイクは紙束を上下させ「こいつで使いたいんだ」
「それ、何?」
「ただの紙だよ。多少、インキが混じっただけの」
「そういうことなら構わないよ。送信するのに必要なものはないし」
 口笛を吹いたジェイクが「エネルギーは必要だぜ」と言い、バーノンが
「まぁ、電力は必要かな。ちょっと愚痴を聞いてもらっていいかい?」
「グルーヴィ」
「ここは市が管理しているけれど、予算は毎年、減り続けているんだ。このままだと、ここは閉鎖になるかも知れない。だから、前は無料で貸し出していた浮き輪を有料にしたりして、少しでも運営費の足しにしている。それなのに、こんなことがあったら……立ち行かなくなる」
「だからこそ、ヒーローが必要なんだ。ヒーローは無料で奉仕する決まりだしな。だから、持て囃される。もし、ヒーローが溺れている奴に向かって〈一ドルでお前の命を助けるけど、どうだい?
〉と言ったらどうなる? 溺れている奴は一ドル支払う前に文句を言うだろう。そうこうしているうちに『海底二万哩』。今度は、硝酸塩を積載した運搬船を沈めようとする」
「よくわからないけれど、ぼくはヒーローじゃないよ」
 ジェイクはファックスに巻物を挿入しながら「ヒーローなんか、なるものじゃないって話さ」と言ってボタンを押した。紙が巻き込まれ、信号化された文字がブルックリンに向かう。ジェイクは吐き出された紙を巻きながらマリファナを口にくわえた。
ファックスを終えたジェイクは、近くのビール工場に向かい、敷地内に停めたままのおんぼろフォードに乗り込んだ。砂と埃を食んだ鈍重なエンジンが響く。ビーチまでフォードを走らせたジェイクはトレーラー・ハウスにくっつけるように停止させた。ジェイクはトランクからとり出したホイールナットレンチで牽引フックを取り付け、赤茶色のロープを結ぶ。眠気を誘う煙がゆらゆらと立ち上っていく。桟橋の近くでは北インド出身者たちが砂浜の上に座っており、彼らはシタール、バンスリ、タブラ、サーランギを構えている。調律を合わせるために年少者が打楽器の皮を固定する皮ひもに挟んだ木片を槌で叩くと、年長の独奏者が顔色を変えずにうなずいた。

エバーグリーン・アベニューに一九七〇年製オールズモビル四四二を停めたジョーイはアルコールで膨れた顔に触れた。バックミラーに映るジョーイの顔には、己の無力さを渋々ながら受け入れた、諦めという惰性が張り付いている。黄ばんだTシャツに特注サイズのジーンズ姿のジョーイは自動車から降り、錆びついた緑色のポールを避けるようにビーチに向かって歩き出す。

桟橋の近くでは朱色のターバンを巻いたシタール奏者が七本の金属製の弦を指で弾く。一〇〇を超える旋法の中から選ばれた一つの旋法。豊かな倍音が繰り返される波に呑まれ、乾燥したユウガオの実のボディが共鳴する。

ジョーイは砂の上を歩いている。無遠慮な太陽光がジョーイの短く刈られた髪を照らす。ジョーイはビーチバレーに精を出す若者たちを見ずに歩き進む。彼にとって、キャデラックの運転手であったことも、ナイトクラブのドアマンであったことも遠い過去のことである。進むべき道はなく、指し示す者もいないジョーイは足を止め、ボロボロになった空手着姿のアーロ・ミューレンを見た。ミューレンは脂肪が削ぎ落された流木のような腕を組んでいる。ため息をついたジョーイが言う。
「さぁ、お望み通りに来たぞ」
 ミューレンの袖が引き千切られた空手着から飛び出た糸くずが潮風で揺れた。ミューレンが
「決着をつける」と言うと、ジョーイは広々とした肩を上下させた。
「もう終わった。おれはクビ。ラングーンも死んだ。そういう意味じゃあ、お前の勝ちだ」
「終わっていない。前回、ぼくは敗けた。勝負は正々堂々としたものだった。でも、今のぼくは前回と違う」
 ジョーイはジーンズのポケットから折り畳まれた和紙をとり出した。記された時間と場所、のたうち回る墨汁の舞踊。潮風に撫でられた和紙が手招きした。
「だからって、おれの車にこんなものを貼りつけなくたっていい。駐車禁止キップじゃないんだ」
「果たし状は必要なものだから」
ジョーイが「こんなショウじみたこと」と言い、指をすり抜けた和紙が空に舞い上がった。
「君はここに来た。たとえ、君自身が気に入らないと思っているとしても。それが答えだ」
「勝手に決めるな」
「ぼくは決めていない。決めたのは、選んだのは君」
「またやってどうする? 道場とやらが戻ってくるのか? お前は得るものが一つぐらいあるのかも知れないが、おれには何もない。はるかに下の階級の奴に勝ったところで、自慢にもならない。つまり、意味がない」
「君は怖れている」
「おれは試合中に相手がどんなに飛んだり跳ねたりしようが、試合後にロッカールームでナイフを振り回されようが、怖いと思ったことは一度もない」
「君は怖れている」
「馬鹿言うな」
 
桟橋の近くではゆっくりとした音楽と霊魂の調律が行われ、ラーガとターラによる即興演奏が開始される。パングラムのように厳格で、ゴム毬のような弾力を持つ優美な調べ。朱色のターバン、白くて長い顎髭の隙間に砂粒が隠れる。
 
拳を固めたミューレンが「君は選んだ」と言い、ジョーイは頭を掻いた。
「怪我をしたいのか?」
「それは君のほうじゃないかな」
「安い挑発だ」
「君はその安い挑発に乗ったんだ。だから、ここに来た」
 首を鳴らしたジョーイが「いいだろう。すぐに終わらせてやる」と言って、腰を落とした。

 桟橋の近くでは、解脱と欲望、情熱、感覚への喜び、耽美的生き方、愛を目指し、発展した音楽が奏でられている。世界のはじまりから存在するラーガを発明するのではなく、発見すること。音楽にこそ世界の調和が現れていると信じる求道者たちの指先は速度を増していく。

 ジョーイはミューレンに向かって素早くタックルを仕掛けるものの、ミューレンは銃弾を掴む速度でジョーイの肩口に触れ、突進する肉体の壁を闘牛士のようにかわす。砂のヴェールで顔を覆ったジョーイは立ち上がると瞬時に靴を脱ぎ、危険地帯を蹂躙する闘牛のように突進した。ミューレンはジョーイの首に両手を置き、空に浮かぶ円盤のような太陽に足を見せる。さまざまな力の整然とした爆発。嵐を宙にとどめる一陣の風。

六つの穴が穿たれた竹製のバンスリは上昇と下降を繰り返し、円座の上に置かれたタブラは指の腹をつかうことで張力を変えながら呪文のような音が鳴る。朱色のターバンを巻いたシタール奏者の老人は右手の指先につけられた金属製の爪で弦を連打し、フレットの下にある一六の共鳴弦から通奏低音が響く。

 ジョーイはTシャツを脱ぎ捨てる。隠し事なく、裸であることを誇りとしたギリシア人のように。クランク装置のような歯車が噛み合い、ミューレンの足首を掴んだジョーイが息をつかせない動きでフライング・バックドロップ、岩石落とし、飛行機投げ、雪崩のような投げが三度繰り返される。ミューレンの全身に痛みの帯がひろがり、空手着は砂色に染まっている。立ち上がったミューレンはジョーイの張り手、肘打ちを受け、朦朧とした意識の中で繰り出す横回転を加えたムーンサルトキックがジョーイの顎をとらえた。片膝をついたジョーイが肩で呼吸する。脈動する山脈のような肩甲骨。

シタールとバンスリの音は西洋的な一二の音と同じ一二の音であるものの、一二のスヴァラは上昇と下降、朝と夜、象徴の響きに装飾がなされており、絶対の存在しない白んだ光の中で淡く輝いている。

小さく笑みを浮かべた二人は飛び上がり、ジョーイは両足のドロップキック、ミューレンの飛び蹴り。二人のX型の線が接続的に交錯する。桟橋の近くで奏される音楽が脚韻のように天に轟く大喝采をした。そして、演奏が止まった。マリファナを吸い終えたジェイクは球形サングラスの縁を撫で「ダッタ、ダヤヅワム、ダミヤタ、シャンティ、シャンティ、シャンティ」とひとりごち、フォードに乗り込んだ。ジェイクがアクセルを踏むと、おんぼろフォードから伸びる牽引ロープが地面と平行になり、錆びついて砂を食んだ車輪が回転した。

 オーシャン・レーンの最果てにあるバー、〈ピークォド〉の店主、ジョシュア・ザイトリンは店のすぐ外に割れた瓶がぎっしりと入った木箱を置き、腰を叩きながら店に戻った。しんと静まり返った店内、記憶の中にしかないお喋り。ため息をついたザイトリンは椅子に腰を下ろして壊れた品々が書き記された紙片に新たな品々を書き加えていく。幼い日に父親から六部六三編のタルムードを教わったザイトリンにとって、これらは簡単な作業でしかないものの、ペンはザイトリンの体重と同じように重かった。ドアが開き、手を止めたザイトリンがテーブルにペンを転がした。目を細めたザイトリンが「休業中だ」と言うと、ジェイクはアロハシャツの襟に触れ
「まぁ、そう言わずに、聞いてくれよ」と言った。ザイトリンはジェイクの無精ひげの隙間から見える赤黒い箇所を見て
「喧嘩をしたのか?」
「こう見えて、おれは敬虔なんだ」
「日がな一日中、マリファナを吸って、行き当たりばったりにセックスするお前が敬虔とはね。恐れ入るよ」
「いつになく機嫌が悪いみたいだな。つまるところ、虫の居所が悪い。腹の虫が鳴く時はメシを食うといい。でも、デラウェイのダイナーは駄目だぜ」
「立てこもりがあったらしいな。サツがこっちまで来た。まったく、そんなことに人員を割いているから、ウチで乱射したクソどもを捕まえられないんだ」
「虫唾が走る?」
「そう、それだ。おれは被害者だっていうのに、何の補償もない。溺れている奴を見掛けたら、浮き輪ぐらいは投げてやってもいいだろうに」
「棺桶があるのに、わざわざ浮き輪なんて必要ないぜ」
「どの道、いつか死ぬからか?」
 ジェイクは球形サングラスの縁を撫で
「グルーヴィ。でも、生き方は選べる。それで、ジョシュア。急な話だが、ここを離れることにしたよ。別に、誰かを殺したわけじゃないし、誰かのものを盗んだわけでもない。一つ、区切りができたんだ」
「とうとう、借金で首が回らなくなったんだな」
「借金なんてないぜ」
「今、ここでお前がウチの店に溜めたツケを読み上げたほうがいいか?」
 手をヒラつかせたジェイクが「朝になっちまう」と言い、ザイトリンは弛んだ二の腕を撫でた。ジェイクは突き立てた人差し指を魔法の杖のように振り
「ジョシュア。今、おれはちょっとした手品をした」と言った。ザイトリンは丸みを帯びた瞼をぱちくりさせ
「ハイなのか?」
「いいや、もうハッパは切れているよ。手品の種はバラクーダの麦わら帽子にあるから、後で確かめてみるといい。少しだけデラウェイにわけてくれ。迷惑掛けたからな。あと、ブーンにも。弾丸の必要経費。ブーンには手振れ防止用の精神安定剤を飲むのは止めたほうがいいと言ってくれ。戦争は終わったんだからな。ブリードにも少し分けよう。いい奴だしな。アーロにも。空手道場が潰れちまったから金がないだろうし。とはいえ、アーロは金なんかよりも、もっと大事なものを見つけただろうがね。どの道、おれが持っていても巻いて吸うぐらいしかしないんだ。長くなったが、ジョシュア。さよならだ」
 手をヒラつかせたジェイクが去ると、ザイトリンは椅子から立ち上がって、壁に掛けられたつばが広い帽子を手にとった。ザイトリンが帽子をひっくり返すと、絆創膏に貼り付けられた、黄ばんだ皺くちゃの紙が見えた。ザイトリンは絆創膏を剥がし、紙を広げた。ドル札よりも一回り小さい、サイン入りの小切手。団子鼻を撫でたザイトリンが外に駆け出したものの、オーシャン・レーンで確認できる生物はポリバケツの上で欠伸をしている野良猫だけだった。ザイトリンは慌てた様子で店に戻り、カウンターに置かれた受話器、ダイヤルを回した。
─ もしもし?
「ブーンか? おれだ」
─ なんだ、ジョシュアか。こっちは朝っぱらからブリードの馬鹿から、のべつまくなしにしゃべり倒されてうんざりしているんだ。まったく、ベトコンだって、もうちょっと静かなのにな。
「ブーン、戦争は終わったんだ。だから、よくわからん薬を飲むのを止めて、さっさとブリードとアーロを連れて、すぐウチに来い」
─ なんだ、いきなり。そんなに興奮すると心臓が止まるぞ。大体、お前は太りすぎだ。
「ジェイクだ。あいつ、きっと、とんでもないことをしでかしたんだ。すぐに来い。でないと、ケツにブルドーザーを突っ込むぞ」
─ ブルドーザーは聞き捨てならないが、切羽詰まっているみたいだな。わかった。ブリードとアーロをつかまえたら、そっちに行く。
「すぐに来い。絶対にだ」
 受話器を乱暴に置いたザイトリンが震える手で握りしめた小切手を見た。


作家、ジャズピアニスト、画家。同人誌サークル「ロクス・ソルス」主催者。代表作『暈』『コロナの時代の愛』など。『☆』は人格OverDrive誌上での連載完結後、一部で熱狂的な支持を得た。

連載目次


  1. 星条旗
  2. テキサス人
  3. 保釈保証書不要につき
  4. バロース社製電動タイプ前にて
  5. アスク・ミー・ナウ
  6. ユートピアを求めて
  7. ヴェクサシオン
  8. フィジカル
  9. バロース社製電動タイプ前にて ~テイクⅡ
  10. ジェリーとルーシー
  11. プレイヤー・レコード
  12. イースタン・タウンシップから遠く離れて
  13. エル・マニフィカ ~仮面の記憶
  14. バロース社製電動タイプの前で ~テイクⅢ
  15. 炸裂する蛾、網を張る蜘蛛
  16. 窓の未来
  17. セックス・アフター・シガレット
  18. バロース社製電動タイプ前にて ~テイクⅣ
  19. アタリ
  20. 小カンタベリー、五人の愉快な火かき棒
  21. 回遊する熱的死
  22. 顔のないリヴ・リンデランド
  23. 有情無情の歌
  24. ローラースケーティング・ワルツ
  25. 永久機関
  26. エル・リオ・エテルノ
  27. バトル・オブ・ニンジャ
  28. 負け犬の木の下で
  29. バロース社製電動タイプ前にて ~テイクⅤ
  30. エアメール・スペシャル
  31. チープ・トーク
  32. ローリング・ランドロマット
  33. 明暗法
  34. オニカマス
  35. エル・マニフィカ ~憂鬱な仮面
  36. ニンジャ! 光を掴め
  37. バスを待ちながら
  38. チープ・トーク ~テイクⅡ
  39. ブルックリンは眠らない
  40. しこり
  41. ペーパーナイフの切れ味
  42. 緑の取引
  43. 天使の分け前
  44. あなたがここにいてほしい
  45. 発火点
  46. プリズム大行進
  47. ソムニフェルムの目覚め
  48. テイク・ミー・ホーム
  49. オン・ザ・コーナー ~劇殺! レスリングVSニンジャ・カラテ
  50. 血の結紮(けっさつ)
  51. 運命の交差点
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