D.I.Y.出版日誌

連載第356回: 他人用のサーバを建てた

アバター画像書いた人: 杜 昌彦
2023.
01.24Tue

他人用のサーバを建てた

高齢夫婦が連続強盗殺人犯に「命が欲しかったら金を出せ」と脅されたそうだ。なんて哀しい事件だろう。無教養はそんなとこにも及ぶのか。おれなら失笑して殺されちゃうな、え? 売ってくれんの? 買う買う! って言っちゃうよ。奪われる金なんてないけどね⋯⋯。この国じゃもう、血も涙もない犯罪者でさえそんな間抜けなことになっちまった。そしてそれを天下の大新聞がそのまま記事にするんだ。校正係は赤字でママと書いたのかな? それともなんの違和感もなく通したんだろうか。おれの予想じゃ底辺暮らしの犯罪者も、有名大卒高給取りの記者も校正係も、だれひとりそれを正しいと信じて疑わない。読み書きをまともに教わったことがないんだよ。この国じゃ教育も出版もまともに機能していないからね。この国の政治はもとよりそういうもんだ、でも出版社はどうなんだ? 角川源義の志、発刊に際してのあの言葉はどこへ行っちまった? おそらくいまの文芸誌編集者は Twitter と文フリあたりで書けそうなひとを探してるんだろうな。そこで重視されるのは話題性と交流スキル、すなわちネタ消費に適しているか。独自の視点があると使い勝手が悪くなりプロトコルから逸脱する。だから才能があると受け入れられない、少なくとも困難になる。そこをうまくやれるひとがいるってのは前回の日記に書いた(ただし例にあげた伊藤さんはフィクションを愛読していて小説にはあまり関心がない)。若いころ編集者に、親が有名だとか楽器が弾けるとか何かないのかと訊かれたけれど、実際そういう付加価値があったなら、本物の才能があってもうまくやれる余地はあるのかもしれない。イシュマエル氏はそこを抜け目なく活用すればきっとブレイクする。ピアノを置いた画廊でも開店して、かれに寄生して喰わせてもらうか⋯⋯。おれ? 書かれたものがおれなんだ。読まれなければおれはいない。おれはもうどこにもいない。

 しかし実際これからどうしようかな、 Twitter は詰まった便所の悪臭漂う場になったけれど(比喩じゃない、噂は聞いたろ?)、 Fediverse も結局は、世渡り上手が弱者をばかにするだけの場でしかなかった。しかしまぁこの国じゃなんだかんだ、あの手のプラットフォームが使われなくなることはないんだろうな、サービス停止でもされないかぎり。古き良き「普通」の価値観にもとづく暴力にはうってつけだからね。この国での運営企業の背後には有力な政党もついてるし。とはいえあいつらビッグテックは今後も安泰でありつづけるんだろうか。すでに陰りが見えつつあるとも聞くぜ。この二十年で連中が証明したのは、ユーザの視界や思考をコントロールすると儲かるってこと。それは今後もっと身も蓋もないやり口で洗練されていく。おれらはいま連中が見せたいものを、あたかも自分の意思で検索して手に入れたと思い込んでいるけれど、この詐欺が近いうちにさらに巧妙になる⋯⋯というか、おれらはもっと怠惰になり騙されやすくなる。いちいち文章を打ち込んで検索して、文字列の答えを読まされるなんて、読み方を教わったことのない国民には酷な話じゃないか。いまにもっと怠惰かつ安易に、狡猾な嘘を吹き込まれるようになる。そのご託宣がまったくのでたらめと差別意識に満ち満ちていようが、だれが気にする? むしろお誂え向きじゃないか、だれだって搾取する側の尻馬に乗って権力を感じたいんだからね。そしてその AI だって無から自然に生まれたわけじゃない。権力に金をもらっただれかが書いてるんだ。利用者の視界をコントロールするビッグテックの手口は、それでさえもう古くなりつつある。はるかにシンプルに、判断のすべてをご託宣に委ねて支配される世界が、もうすぐそこに迫っている。というかすでにそうなっちまったんだろうさ、何しろ犯罪集団の脅しにですら、小学生以下の国語力さえも失われたんだから。

 おれらは自分で考えたり決めたりするのがきらいだ。責任が生じるから。おれらは選択の責任を負いたくない。だから権力のご託宣に頼るんだ、着るものも食べるものも投票すべき政治家もお伺いを立てるようになる。他人の言葉を要約させたり翻訳させたりして、ほんとうにそいつが喋った内容だと純真にも信じ込む、ロシア市民がテレビを信じるようにね。ちょっとでも疑うような心の穢れた輩は袋叩きに遭う。そうなればだれが得をするのかは明らかだ。そしておれらはおめでたくも、それをすばらしい未来への変化だと信じきっているんだ。権力がおれの視界を支配しようとすることにも、あんたがご託宣に溺れるのにも嫌悪感しかないけれど、そのご託宣が完璧にユーザにパーソナライズされて個別のフィルターバブルと化し、マイケル・マーシャル・スミスの小説に出てくる時計みたいな友人になってくれたら、当然おれだって耽溺する自信がある。でもそれが百パーありえない確信もあって、ってのは権力に都合がよいことと、おれのニーズとはけして相容れないから。権力はおれらを自分たちに最適化しようとするばかりで、その逆は躍起となって否定する。国家と国民の関係をそのように取り違える連中が政権を握っていて、おれらはそれをありがたがって伏し拝んでる。床蝨のわいた小さなマスクを仏壇に捧げてね。たぶんそこを巧妙にごまかす方向に AI は進化するんだろうけれど、どうかなぁ、騙される多数派と、不幸にしてそうでない少数派とに明確に分かれるんじゃないかな。だって騙されたいんだもの。侵略戦争をやってた頃のおれらだって、いまのロシアだって、どれだけ雑なごまかし方でもみんな大喜びで騙されたじゃないか。そして詩集を手に浜辺を散歩した女学生は悪として断罪され、排除され、なかったことにされる。おれだって願うことなら最適化されたいんだ。侵略する側に染まれたらどんなに生きやすいことだろう。

 まったくなんて世界だ。そんな時代に小説なんか書いてどうなる? 表示されなきゃないのとおなじ。原稿は燃える、いともあっさりと。日本でもロシアでも中国でもミャンマーでもアフガニスタンでも、人権ってもんはいかに憎まれてることか。みんなだれかに責任を押しつけて何もかも決めてほしいんだよな。自由とは責任を取る権利のことだから。とりわけ日本人はだれもそんな選択をしたくないんだ。そう教育されて育ってきたからね、「江戸しぐさ」みたいな偉大なる伝統ってやつさ。侵略戦争といえば、成果をあげているのはワグネルで、そのワグネルとプーチンがうまくいってないらしいって話が気になってる。だったら自分たちが政権握った方がうまくやれると考えやしまいか。合法的に大勢の市民を殺害して収益を得る民間企業、という考えがそもそもおれには理解できないのだけれど、『肩をすくめるアトラス』的な、あるいは『意志の勝利』的な世界では、そういう私企業が国家を運営することになるだろう。個人上で稼ぐ企業が図書館を、パワハラ洗脳セミナーの居酒屋チェーンが学校を経営する時代だしね。だいたいにおいてどの国でも軍隊ってのはそういうもんだ。北朝鮮だってミャンマーだってもとをたどれば抗日戦争の英雄だったわけだろ、しらんけど。軍隊が市民を護るものだと脳天気に思っているひとたちは、いつまでそんなおめでたい夢を見ていられるんだろうね。市民をだれかの支配から解放するって主張してた連中がいま何をやってる? あんたが道を歩いてたら拉致されて錆びた銃を押しつけられ、血まみれの塹壕に放り出される日はもうすぐそこだぜ。そうそう、「自由意思がすたれて公の大義が尊ばれる時代がくる」と Web の著名人が書いてるのを読んだよ。あんたの視界をコントロールすることで儲ける商売の文章だから、承認欲求の話にすり替えてあるけれど、でも結論は正しいと思うよ。みんな他人に支配されたいんだ。自分の選択に責任を持ちたくないんだよ。中央集権ばんざいだね。おれもこれからはトイレットペイパー持参で出勤するよ。

 同僚と話すために階段を上り下りするのを億劫がった学者たちがインターネットをつくった。怠惰と言葉、相矛盾するそのふたつが、はじめからそこにあったわけだ。一時期は民主主義の手段として夢見られたのに、いまじゃ権力がひとびとの思考を支配する手段に堕した。そこの視界がだれかが見せたいと思ったものだとおれが知っているのは、自分でウェブサイトを運営したりサーバを建てたりしているからで、その経験がない世間一般のひとたちが、自分の見ているものが山や川みたいに、あらかじめ自然にそこにあるものだと錯覚するのはしょうがない気はする。そして実際は山だって川だって、大昔からそこに暮らす人間が手を入れてきた結果そこにあるんだ。その意味で、本来は公教育でウェブサイトやサーバの建て方を教えるべきなんだけど、日本の教育は子どもたちが自分で考えて生きられる大人に育つことではなく、権力にとって都合のいい国民になることを意図しているから、むりなんだよな。なんたって日本の公教育は侵略とともに発展したわけだから。教育といえば、スティーヴン・キングの本がどこかの州の図書館で禁書にされたそうだね。おれがかれの最高傑作だと思っている三作で、うち一冊はいままさに読んでいる。どれも読書にかんする物語じゃないか、かれの本はどれもそうかもしれないけどね。『骨の袋』が禁書になったのは白人による黒人の強制労働と虐殺が書かれてるからだろうな。でも考えようによっちゃ米国では、そのことを小説に書くことがまだ許されている。日本では外国人の強制労働と虐殺についてエンターテインメント小説に書くことはむずかしい。書いても出版されないし、書店にも図書館にも並ばず、画面に表示されることもない。その点でスティーヴン・キングはまだしも、表現の自由や民主主義や人権を信じられる国に生きている。出版や書店や図書館がまだ機能しているんだ、うらやましいね。かれの本は出版されるし、ソーシャルメディアで表示機会をあたえられるばかりか優先表示までされる。おれはこの国にそのような希望をもてない。「やあ、子供たち! きみらが知らないおれからのお知らせだよ。きみの見ている画面で何かが禁止されたり、世の中にあってもいい言葉がなかったことにされていたら⋯⋯彼らがいったい何を読ませたくないと思ってるのか調べようにも、調べられないね」

 何もかもうんざりしてきた。このままおれらは権力の養分にされつづけるのか?  Gmail をやめて自ドメインのメールに、 Google 検索をやめて DuckDuckGo にしたんだけど、 Mac もやめて ElementaryOS にしたくなってきた⋯⋯でも Linux は日本語環境がだめなんだよな、四半世紀前からたいして進歩していないのは知っている。日本の技術者が言葉に、つまり民主主義と人権に関心がないからだ。 CSS のセミナーで偉い男性 Web デザイナーが「縦書きは Web に来ません!」と叫んでいたのが忘れられない。当時は「横書きでいいじゃん、なんなら日本語をなくせ」なんて主張するやつが大半だったんだよ。いまおれらが日本語で読書を楽しめるのはイスラエル系米国人女性 fantazai 氏のおかげだ。そして黒船来航から十年経ってようやくそれなりに書店に本が並ぶようになった。自分たちの言葉すら外圧がなければ手にできない、だれもそのことを恥ずかしいとも思わない。おれらはそんな国に生きている。まぁ無料で使っといて文句垂れるだけの輩だって迷惑だよな。最近思うんだけど、暮らしたい世界に暮らすためには金を出さなきゃだめなんだよ。 Spotify で好きな音楽が聴けないって? ストリーミングプラットフォームがおれらに見せるのは、権利者がそのとき許したもののうち、企業ないしかれらに影響力をもつだれかがおれらに見せたい世界でしかない。聴きたいものを聴くには円盤を買うんだよ、ひとたび流通したら加水分解するまでは、あるいは権力に焼かれるまでは流通するからさ。 Wikipedia にはたまに小銭を寄付しているけれど、 DuckDuckGo や Mastodon にもそうしようかな。生き恥をさらして小銭を稼いで、それを自由な権利のために、出版と読書のために投じる。せいぜい余生はそうやって生きるさ、書いたって意味ないからな。そうだろ?


(1975年6月18日 - )著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『血と言葉』(旧題:『悪魔とドライヴ』)が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。代表作に『ぼっちの帝国』『GONZO』など。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。

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