朝のカーネーション・アベニューはプラカードを掲げた人々でごった返していた。人々は体内で猛毒を生成する昆虫や小さなカエルのように派手な色の服を着ており、先頭に立つジャッキーが片手に持っているアレン・ギンズバーグの『吠える』を空に見せつけるように掲げた。ショートパンツを履いたパトロール隊のようなバイカーたちがクラクションを鳴らし、水玉模様のドレスを着た人々が歩き出す。権利と自由といった、当然、備わっているべきものを奪われ、日々、尊厳を踏みにじられ続けている人々は嘆くことなく、怒ることなく、小さな太鼓を打ち、笛を吹きながら優雅に歩いている。物珍しい演目を目にしたような顔をした観光客がカメラのシャッターを切っても、彼らは笑顔で応える。ブライアン・ジョーンズが耽溺(たんでき)したモロッコの民族音楽のように瞑想的な響きが太平洋に向かって放たれる。居場所のない孤児たちの行列、孤独や無理解にさらされ続けた人々は楽しげに海岸線をゆっくりと歩く。行列の中ほどには薄汚れたゴルフウェアを着ながら萎みはじめた風船を引く男が痛みに耐えるように歩いており、少し離れたところではテキサス州公安部から支給された制服を着た男が、国境沿いの砂漠地帯で鍛えた、しっかりした足取りで歩いている。人々は愛を、自由の尊さを訴える。目を背け、顔を顰める者には微笑む。軍靴を必要としない、足並みが揃わないゆっくりとした前進。
 一晩中、歩き通したエミールは白いカウボーイハットのつばを撫で、歩く速度を上げた。後方では下顎を紫色に染めたワイズマンが部下たちに向かって目配せする。エミールがコルト・シングルアクションアーミーの銃身に手を伸ばすと、銀色のアイシャドウを塗った大柄な男が足を止め、彼にぶつかった。エミールが先に進もうとすると、男がエミールの手を引いた。
「謝るぐらいしたら?」
「今、忙しい」
「あんた、忙しかったら何をしてもいいと思っているわけ? 大体、そんな服、着ちゃってさ。ここは警官の来る場所じゃないのよ」
「おれは保安官代理だ」
 大柄な男がエミールに顔を近づける。アイシャドウがキラキラと輝いた。エミールが横を向いてワイズマンに指示を出すと、ワイズマンはゴルフウェアの男に向かって走り出した。異変に気付いたフライが振り向き、エミールの顔を見た。フライの手から萎みつつある風船が放れ、ハチドリのように空中に静止した。フライが全速力で駆け出す。

 パーム・アベニューのダイナーに客は一人もおらず、オーナー兼コックのデラウェイとステイシーは対面に腰掛けている。デラウェイが白いTシャツに付着した油染みに目を落とす。ステイシーは両手を膝の上に置いて肩を上下させた。デラウェイは店内に飾られた民主党支持者であることの証である青い旗、トマス・ジェファーソンによって創設された民主共和党を起源にする青いロバを見た。鼻に触れたデラウェイが苦笑いをすると「こうなることは、わかっていたよ」と言い、ステイシーがうなずいた。
「今まで雇ってくれて、ありがとう。あなたがいなかったら、ここがなかったら、あたしはどうにもならなかった」
「そうでもないさ。君は立派だし」
「立派な人は、こんな風に辞めない」
「従業員が退職するのは自然なことだよ。今までだって、何度もあったんだ。お金を持ち逃げされたことがあるし、調理器具を質屋に持って行かれたことだってある」
「それ、初耳」
「ぼく自身、初めて喋ったよ。あんまり自慢できることじゃないからね」
 ステイシーが店内を見渡した。二人以外、誰もいない閉ざされた場所にはラジオすら流れていない。ステイシーは大きく息を吸い込んだ。揮発した揚げ物油の匂い、薄く切られて山のように盛られたオニオン。刺すような匂いにステイシーが鼻をピクつかせた。
「ダイナーで働くなんて思ってもみなかった。それまで、食事はママが作っていたし、放校された大学の近くに借りたアパートでも、料理なんて一度もしなかった。料理が嫌いというわけじゃない。食べることは好きだし。でも、自分で作るとなると別。カタログを買って、レシピを見ても、あぁ、そういうこと……そう思うだけ」
「人には向き不向きがあるよ」
「生活に必要なことだっていうことはわかっている。でも、いざやるとなると、覚束ない。変よね?」
「変じゃないよ。毎日、自分で自分のために食べるものを用意することは容易じゃない」
「そんなあたしがクレイ・ウォールに帰って、これからどうするのかしらね。まぁ、予想はできるけど」
 デラウェイはテーブルの上に両手を置き、祈るように指を組んだ。
「何をするんだい?」
 口を尖らせたステイシーが「パパの手伝い。スーパーマーケットをやっているの。台車にダンボールをのせて押したり、レジを打ったり」と言うと、デラウェイは眉間に寄せた皺を撫でた。
「それは、君に向いていると思う?」
 ステイシーは両手をヒラつかせ「思わない。でも、証券会社とか、銀行とか、そういう仕事もあたしに向いているとは思えない」
「ある程度は仕事に合わせて自分を変える必要はあると思うけれど、本当にいいの?」
「もう決めたことなの。あたしはクレイ・ウォールに帰る。あたしは一人でクレイ・ウォールからオークレーに行って、オークレーからクレイ・ウォールに帰った。その後、オークレーからここに来た。いつも一人だった」
「ジェイクは?」
 唇を尖らせたステイシーが「ジェイクはいつも勝手にやっている。だから、大丈夫。ジェイクは気にしないし、あたしのことなんて明日には忘れている。マリファナと一緒に吐き出して」と言った。ため息をついたデラウェイが言う。
「まだ喧嘩しているのかい?」
「まぁ、そう……二人で一緒にドライブインシアターでヘンテコな映画を観たのも、百年ぐらいしたらいい思い出になるかも」
 デラウェイは組んだ指を回した。
「もう一度、ジェイクと話し合ったほうがいい。ぼくだって、君とジェイクが水と油だっていうことは知っている。でも、水と油だって、振ればどうにかなる」
「あたしはドレッシングじゃない」
 デラウェイがステイシーを見つめた。デラウェイは彼女の顔に向かって伸びたがっている右手を左手で抑え「決意は固そうだ」と言った。ステイシーが窓の外を見つめる。店の外では派手な服装をした人々が小さな楽器やプラカードを掲げながら歩いている。ステイシーは前髪を撫で、デラウェイを見た。目尻から頬骨にかけての筋肉が微かに動いた。ステイシーの腹部から洞窟の奥で呻く悪魔のような音が響き、彼女は鼻下を擦った。デラウェイが言う。
「何か食べるかい? 代金はいらないよ。お祝いとか、そういう意味。丁度、貸し切りみたいなものだしね」
 ステイシーが白い前歯を見せ「ハンバーグをお願いできる? フライド・オニオンも」
「ソースは?」
「バーベキュー」
 立ち上がったデラウェイが「最高のハンバーグを約束するよ。少し待っていて」と言った。厨房に入ったデラウェイは炎のような速度でエプロンを装着し、冷蔵庫を開けた。冷蔵庫の中で眠っていたひき肉の塊を叩き起こしたデラウェイがガスを点火する。厨房の壁に掛けられた温度計と湿度計を見たデラウェイは理想となる燃焼時間をコンピュータのように計算する。ゴム靴を鳴らしたデラウェイは書道家のように迷いなく鉄板の上にひき肉の塊を置いた。
 テーブル席のステイシーは磨かれたディスペンサーを見ている。物言わぬプラスチック、重力に従順なケチャップは下部にたまっている。ドアが開き、反射的にステイシーが立ち上がると、薄汚れたゴルフウェアにハーフパンツ姿の男が立っていた。男はドアに張り付き、ポケットから二二口径の小さな拳銃をとり出した。ステイシーが声を上げ、男と目が合った。

 トレーラー・ハウスの中にはタイプライターを打つ、歯切れ良い音だけが響いている。ジェイクはタイプライターから顔のないリヴ・リンデランドのドアの上、トイレットペーパーのように巻かれた紙を撫でながらソファに腰を下ろした。ゴミ箱の中に溢れ返ったマドレーヌが包装されていたビニールは黄ばんだ灯りを反射している。マリファナに火を点けたジェイクが頭を振り、テレビを点ける。そして、ブラウン管の下部に文字がスクロールされていく。
〈速報ニュース ダイナーで立てこもり発生。人質二名〉
 大急ぎで化粧したと思われる女性レポーターの口紅は少しだけ上を向いており、笑っているように見えた。肩まで伸ばした栗色の髪は知的に見えるようにスタイリストがセットしたもののようだが、髪は静電気と潮風で逆立っている。見慣れたパーム・アベニューの最果て、太平洋に最も近いダイナーがブラウン管と拳銃を握りながら血走った顔で喚いている男の顔が映ると、ジェイクは球形サングラスをシャツで拭き、もう一度見た。精神に刷り込まれるように流れていく文字は変わらなかった。ジェイクは口にマリファナをくわえたまま、ソファから立ち上がり、トレーラー・ハウスを飛び出した。

 ダイナーの前は人でごった返していた。レポーターや記者、警官、保安官、愛や平等、自由について書かれたプラカードを掲げる派手な服装の人々。ジェイクは情報の混戦状態をすり抜けるように進んでいく。黄色い規制線を背にした警官に制されると、ジェイクは
「フライド・オニオンを食いに来たんだ」と言った。警官が真面目な顔で首を横に振った。
「他の店にしてください」
「デラウェイのフライド・オニオンが食いたいんだ。おれは中毒なんだ。三日に一度、デラウェイのフライド・オニオンを食わないと、抗議の行進をするぐらいの。そう、仕事と自由のために」
 最後の一節を耳にした人々が呼応するように自由を叫び、声の波が大きくうねる。ジェイクが手をヒラつかせると、人々は静まり返った。人々はワシントン記念塔広場の前で非暴力主義の牧師を見るような目でジェイクを見ている。誰かの手から手へと渡った拡声器がジェイクの手に渡り、拡声器を口に近付けたジェイクがスイッチを押す。
「おれには夢がある。ある日、サンディエゴのダイナーで、以前の奴隷の子供と、以前の奴隷所有者の子供が同じテーブルでフライド・オニオンを食うことを。ケチャップとタルタルソース、両方つけてくれ。おれには夢がある。ある日、不正と抑圧という熱で苦しんでいる不毛の五〇の州が自由と正義のオアシスになることを。おれには夢がある。まだいないし、特に予定もない、おれの子供が肌の色やセックスじゃない、内容で評価される国に住むことを」
 拍手が巻き起こる。太鼓が叩かれ、小さな笛と指笛が吹かれる。愛と自由、寛容の精神が連呼される。拡声器のスイッチを切ったジェイクが伸びた手に拡声器を渡し、片腕を突き上げる。襟に五つの星が輝くチャック・ワイズマン保安官がジェイクの肩を叩いた。ワイズマンの顎は外傷と内出血で紫色に染まっている。ワイズマンが言う。
「申し訳ないけれど、パレードはもう少し先でやってもらえるかい? ここは事件現場で、今まさに危険な場所なんだ」
 ジェイクは球形サングラスの縁を撫で「いつだって、どこにだって危険は潜んでいるものさ。核戦争はいつはじまるかもわからない。家でくつろいでいてもバットで素振りされるかも知れない。クソをしようと便座に座っていても回し蹴りを食らうかも知れない。ドライブインシアターで映画を観ていると」と言うなり、横を向いた。ジェイクと目が合ったエミールは目を細め、白いカウボーイハットのつばを撫でた。エミールは腰に手をやった。
「見かけによらず、根に持つんだな」
「そうでもないさ。それで、エミール。腹が減っていないかい?」
「もうすぐスワットが到着する」
「それじゃあ、困る。おれは今すぐにフライド・オニオンを食わなくちゃならない」
「他の店に行け」
「そういうわけにいかない。ステイシーがいるんだ」
 眉間に皺を寄せたエミールが「スワットが来る」と言った。手をヒラつかせたジェイクが言う。
「ステイシーっていうのは、夕べ、おれと一緒に映画を観ていた女だよ。覚えているだろ?」
 エミールが喉を鳴らした。ジェイクが肩を上下に揺すると、黄色いアロハシャツにプリントされたヤシの木が伸びたように見えた。
「エミールもステイシーと知り合いなんだろ? この際、どこで知り合ったとか、そういうことは聞かないぜ。あの中にいるのは知り合いばかりなんだ。ステイシー、コックのデラウェイ、チャーリー。チャーリーは夕べ、おれにアイスクリームをご馳走してくれたし、一緒にポーカーもやった。ジョシュアの店は潰れそうだが、まだ潰れていない。チャーリーみたいな気のいい奴がどうして、こんなことをやったのか、おれにはわからない。ひょっとすると本人もわかっていないのかも知れない。だけど、おれはおれがすべきこと、やりたいと思うことは、はっきりわかっている」
「やりたいことぐらいは、誰だってわかっていると思うよ」とワイズマン。
ジェイクは焦げ茶色をした無精ひげに触れ「やりたいようにやっているかい?」
「まぁね、それなりに。それじゃあ、さっさとここから離れて。これ以上は公務執行妨害にするよ」
 両手を突き出したジェイクが「捕まえるといい。でも、捕まえていい奴は石を投げていい奴と同じ」と言った。
「それじゃあ、世の中がメチャクチャになる」
 ワイズマンがジェイクの手を掴み、エミールが口を開いた。
「アイディアはあるのか?」
「策も練らずに行けと命じるのは大統領だけさ」
 腕時計に目をやったエミールが「お前が撃たれても、市や保安官事務所を訴えないと言うなら、スワットが到着するまで目を瞑る」と言うと、ジェイクは球形サングラスの縁を撫でた。
「グルーヴィ。恩に着るよ、エミール。それじゃあ、ちょっとばかり行ってくる」
 ジェイクは手をヒラつかせながら規制線をくぐった。歩きながら、ジェイクはアロハシャツを脱ぎ、次にジーンズを脱ぎ捨てた。レポーターがジェイクの後ろ姿に向かってマイクを向け、テレビカメラが露わになっていく臀部を映す。そして、派手な服装の人々が歓声を上げる。ワイズマンは突き立てた指をエミールに向け「何かあったら、ぼくの責任になる」と言い、エミールが
「スワットが到着するまでの時間稼ぎになる。これでフライの目は少しの間、あいつに行くだろう。人質に何かあるより、余程いい」
「すぐに殺されておしまいだよ。余計に事態は悪化する。大体、何かあって、訴えられたりしたら、どうやって責任をとるつもりなんだい?」
 カウボーイハットのつばを撫でたエミールが「約束した」と言った。ワイズマンは信じられないといった顔で肩を上下させた。
 下着を道端に投げ捨てたジェイクは一九七一年にジョン・レノンが世界に向けた最高の贈り物である『イマジン』を口ずさんだ。穏やかで柔らかいメロディはマリファナの粒子と共に歌われる。ジェイクがダイナーのドアを押すと、ベルが鳴った。店に入ったジェイクは油の匂いと、ハンバーグが焦げた臭いに鼻をピクつかせながらゆっくり歩く。そして、窓から差し込む光に照らされて銀色に輝くフォークやナイフ、壁に掛けられた青い旗を見た。いつも店内に流れていた軽快なラジオは聞こえず、他愛ないお喋りも聞こえない。静電気のようにひんやりした緊張感だけが漂っていた。厨房の前では、床に腰を下ろしていたフライが幽鬼のような顔を上げた。フライの手には二二口径の小さな拳銃が握られている。ジェイクは球形サングラスの縁を撫で、いつもと変わらない口調で言う。
「よぅ、チャーリー。調子はどうだい?」
 フライは銃口を上下に振り「最悪だ」と言った。喉を鳴らしたジェイクが
「ステイシーは?」
「誰だ?」
「ここのウェイトレスだよ。細身で、おれより背が高くて、色が白くて、胸と尻はあんまり。それから、何かある度におれを怒鳴り散らすんだ」
フライは「女と男は奥にいる」と言い、脂ぎって濡れたように見える髪に触れた。
「どうして、裸なんだ?」とフライが尋ねると、ジェイクは手をヒラつかせた。
「シャワーを浴びる時は、誰だって服を脱ぐぜ。チャーリーこそ、どうして銃なんて握っているんだい?」
「ここにシャワールームはない」
「すっかり忘れていたよ」
 フライはクマがプリントされた靴下に目をやった。
「おれはジム・フライ。チャーリーじゃない」
「OK、ジム。もう少しすると、外に黒いプロテクターを装着したスワットが到着する。するとどうなる? 新メニューが開発されることになる。メニューの名前は、フライド・ジム。夏の香り漂う脳みそソースを添えて」
「おれは、お前が思っているほど、大したことをしていない」
「かもな。かくいう、おれも大したことをしちゃいない。せいぜい、たまにハッパを吸うぐらいさ」
「それ、たまになのか?」
「言い直すよ。しばしば、たまに、しょっちゅう。ステイシー、いるかい?」
 フライが厨房のドアを銃身で押した。コンロの前に座るステイシーとデラウェイの姿がチラリと見えた。ジェイクは手を振り、裸のジェイクを見たステイシーが目を丸くした。ドアが閉じられ、腰に手をやったジェイクが言う。
「ここから先は考えているのかい? この場合、まずは車が欲しいところだ」
「おれを止めるために来たんじゃないのか?」
 麦わら帽子を叩いたジェイクが「やめろと言ったらやめるのかい? そんなわけないだろ? 賽は投げられたんだぜ」と言うと、ダイナーの窓ガラスをクロロベンジリデンマロノニトリルを主成分とする非致死性ガス化学兵器が突き破り、あっという間に白い煙が店内に充満していく。ジェイクは円筒形の催涙ガスを素手で掴んで外に放り投げた。外で待機しているスワット隊員たち、テレビリポーターたち、派手な服装の野次馬たちが慌てた様子で距離をとる。手をヒラつかせたジェイクが「言うだろ? 手りゅう弾は投げ返せってさ」と言い、フライが目は覆いながら悪態をついた。
「どうして、こうなんだ? おれはこんなこと望んでいない。ただ、ラングーンにそそのかされるままにテキサスに行って、金を返せと小突いただけなんだ。クラブの火事はおれのせいじゃない。ゼラだって、別に何かしようと思っていたわけじゃない。なのに、知り合いはみんな、おれを人殺しか何かだと思っていて、おれを殺そうとしている。居場所なんてない」
 フライは声を絞り出すように「助けてくれ」と言った。ジェイクは指で球形サングラスの縁をゆっくりと撫で、フライの震える肩に手を置いた。
「除隊したばかりの頃、自分が誰だかわからなかった。復学しても、ずっとジャングルの中で隠れているような気がした。レンズを設計する仕事に就けそうだっていうのに、タイプライターを叩いた。少しばかり、自分が誰だか思い出したような気がした。でも、ミランダが死んで、また元通り、誰だかわからなくなった。結局のところ、掌の中にあったと思ったものは煙みたいにすり抜けちまうんだ」
 目に涙を溜めたフライの瞳にジェイクの裸が映った。フライは咳き込み、嗚咽した。ジェイクは
「終わりにしようぜ。でも、これは本当の終わりじゃない。小休止。一休みさ」と言って、フライの手を引き、立ち上がらせた。老人のように腰を曲げたフライの背中に手を置いたジェイクが外に向かって、ゆっくりと歩き出す。催涙ガスの白い煙が漂うダイナーの周辺では、人々が固唾をのんで状況の推移を見守っている。白い煙をまとったジェイクが人々に向かって手を振ると、ジェイクとフライはプロテクターを装着したスワット隊によって、あっという間に取り押さえられた。地面に顔を擦りつけたジェイクが「一体、どうしておれまで捕まえるんだい?」と言い、ハンケチで顔を覆ったワイズマンが
「公務執行妨害。わいせつ物陳列罪もつけたほうがいい?」と言った。それから、二人は窓に鉄格子がされた護送車に押し込められ、護送車が走り出す。ウェーブがかった髪を掻き上げたジャッキーが『吠える』を掲げ、派手な服装をした人々は権利と自由、公正さを訴えながら、虹の彼方に向かって歩き出した。


作家、ジャズピアニスト、画家。同人誌サークル「ロクス・ソルス」主催者。代表作『暈』『コロナの時代の愛』など。『☆』は人格OverDrive誌上での連載完結後、一部で熱狂的な支持を得た。

連載目次


  1. 星条旗
  2. テキサス人
  3. 保釈保証書不要につき
  4. バロース社製電動タイプ前にて
  5. アスク・ミー・ナウ
  6. ユートピアを求めて
  7. ヴェクサシオン
  8. フィジカル
  9. バロース社製電動タイプ前にて ~テイクⅡ
  10. ジェリーとルーシー
  11. プレイヤー・レコード
  12. イースタン・タウンシップから遠く離れて
  13. エル・マニフィカ ~仮面の記憶
  14. バロース社製電動タイプの前で ~テイクⅢ
  15. 炸裂する蛾、網を張る蜘蛛
  16. 窓の未来
  17. セックス・アフター・シガレット
  18. バロース社製電動タイプ前にて ~テイクⅣ
  19. アタリ
  20. 小カンタベリー、五人の愉快な火かき棒
  21. 回遊する熱的死
  22. 顔のないリヴ・リンデランド
  23. 有情無情の歌
  24. ローラースケーティング・ワルツ
  25. 永久機関
  26. エル・リオ・エテルノ
  27. バトル・オブ・ニンジャ
  28. 負け犬の木の下で
  29. バロース社製電動タイプ前にて ~テイクⅤ
  30. エアメール・スペシャル
  31. チープ・トーク
  32. ローリング・ランドロマット
  33. 明暗法
  34. オニカマス
  35. エル・マニフィカ ~憂鬱な仮面
  36. ニンジャ! 光を掴め
  37. バスを待ちながら
  38. チープ・トーク ~テイクⅡ
  39. ブルックリンは眠らない
  40. しこり
  41. ペーパーナイフの切れ味
  42. 緑の取引
  43. 天使の分け前
  44. あなたがここにいてほしい
  45. 発火点
  46. プリズム大行進
  47. ソムニフェルムの目覚め
  48. テイク・ミー・ホーム
  49. オン・ザ・コーナー ~劇殺! レスリングVSニンジャ・カラテ
  50. 血の結紮(けっさつ)
  51. 運命の交差点
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