バラクーダ・スカイ
第42話: 緑の取引
チュラビスタ五番通りに停まった自動車から降りた男はラピスラズリのように冷たい光を放つ瞳を隠すようにライトカラーのサングラスをかけ、ギリシアにおける旅人と商人を守護する神がプリントされたシャツの襟が揺れた。建物に比べて、いささか広すぎる迷路のような駐車場を歩いた男は躊躇することなく回転ドアを通り抜けた。ドアの近くに立っていた大柄な警備員が男を横目で見る。男は大理石に模した光沢のロビーを歩き進むと発券機から飛び出た感熱紙を摘まんで踵を返し、ソファに腰を下ろした。男は楕円形の木製テーブルにアタッシュケースを置き、指を組む。指をアポロンの竪琴を奏でるようにしならせ、僅かに口角をつり上げる。呼び出し音が響くと、男は感熱紙を薄桃色の上着のポケットにしまい、アタッシュケースを持って立ち上がった。天井に埋め込まれたスピーカーからは環境に溶け込み会話を隠すための、音楽と呼ぶにはいささか抵抗がある穏やかな音の連なりが流れている。楽曲としての構成、リズム、メロディを持たない瞑想的な音の隙間。クッションが敷かれていない木製の椅子に腰を下ろした男は、柔和な笑みを浮かべ、アタッシュケースから封筒をとり出した。対面に座る男はくすんだブロンドの髪を真ん中から二分するようにペッタリと撫でつけている。黒く、大きめのサイズの背広は顧客に安心感を与えるために選んだものだろうが、陰気な堅物のような印象を与えた。
「ようこそ。当銀行へ。ロラン・ガイトナーです。本日はどのようなご用件でしょう?」
男は既に記入された書類とパスポートを引っ張り出し、手をヒラつかせた。ガイトナーが書類に目をやる。男はライトカラーのサングラスを外し、薄桃色の背広の胸ポケットにしまった。
「口座を開設したい」
事務的な口調でガイトナーが「それでしたら、当銀行のセービング・アカウントをおすすめします。払い戻し期間は制限されますが、利率の良さは州でも指折りです」と言い、三枚に折られたリーフレットを広げた。男は首を横に振り
「チェッキング・アカウントだ」と言い、ガイトナーがさっさとリーフレットを机の下にしまった。ガイトナーが書類に目をやっていると、男は手をヒラつかせた。
「一つ質問だ。売春と金融、どちらのほうがビジネスとして先に成立したと思う?」
ガイトナーは書類から目を離し、男の青々とした瞳を見た。鏡のような瞳にはガイトナーの顔が映っていた。目を細めたガイトナーが
「歴史には詳しくありません」
「ただのお喋りだ。お前がどちらかと思うほうを選べ」
「知識がない状況では選べません」
「選ばないからといって、お前に不利益はない。これはお喋りだからな。お喋りは嫌いか?」
「答えなければなりませんか?」
「我儘な客は嫌いか? 特に、自分の意に反して喋る客は」
小さくため息をついたガイトナーが膝を撫で「得意ではありませんが、仕事です。ミスター」と言うと、男は遮るように手をヒラつかせた。
「大昔はお喋りを競った。シーツみたいな服に身体を包んで」
「パスポートの番号を控えてもよろしいですか?」
「そのためにおれはここに来たんだからな」
後ろを向いたガイトナーがパスポート番号を書類に写しながら小さく舌打ちしたものの、舌打ちの音は天井から絶え間なく流れる不連続の音楽によって搔き消された。ガイトナーは閉じたパスポートを男に返し「旅行はお嫌いですか?」と言った。男が白い歯列を見せた。
「どうしてそう思う?」
「上陸許可証印がありませんでしたから」
「片方だけなら、おれはここにいない」
「再入国許可証印も」
男は黒々とした海藻のような髪に触れ「メキシコやチリ、コロンビアに行けば満足か?」
「いいえ」
「そういうことだ。回遊するのはこの国の中だけで十分だ」
ソファを指差したガイトナーが「口座開設には少々、お時間をいただきますので、その間はそちらでお待ちください」と言ってソファを指差し、男は大袈裟にうなずいた。椅子から立ち上がった男はフラフラと歩き、ソファに腰を下ろすと上着のポケットに丸めて差したナショナル・ジオグラフィック誌を読みはじめた。男は組んだ足を上下に揺らしている。ガイトナーは一つでも紛失することがないように細心の注意をはらっている、何も印字されていない通帳を手にとり、大きな機械に通帳のミシン目を合わせて回転レバーを引いた。通帳に印字された名前にはズレはおろか、かすれもない。息を吐いたガイトナーが通帳を開き、ペンと定規を握って書き込みを開始する。三〇分ほどすると、ガイトナーが男の名前を呼んだ。上機嫌な態度でやってきた男が椅子に腰掛けた。ガイトナーが半透明のビニールに入れた通帳を渡すと、男は笑みを浮かべた。ガイトナーが「科学はお好きですか?」と尋ねると、男は雑誌を開いた。
「たとえば、この記事にあるヒトデ。ヒトデは人間が登場するよりもずっと昔から存在していた。恐竜よりも古い。ヒトデは三葉虫で有名なカンブリア紀に棘皮動物(きょくひどうぶつ)から分かれた。オルドビス紀では数を減らしたが、今も続いている。驚異的だ。生物は環境によって形を変える。進化……いい言葉だ。進化がどれほどの速度かは意見が分かれるが、想像しているよりも速いだろう。今、こうやってお喋りしている間にも深海やジャングルの奥、地中で新しい形を模索した試作品が生まれているかも知れない」
ガイトナーが「魚は苦手です」と言うと、男は口をすぼめた。
「ヒトデは魚じゃない」
「失礼しました。そちらのチェッキング・アカウントについての説明を」
「その前にやることがある。待っていろ」
こめかみを掻いたガイトナーが「規則があります。当銀行では」と言うと、男は遮るように手を振り「同じことを言わせるな」と言って通帳を持ったまま席を離れた。男はロビーに置かれた電話にコインを投入し、ダイヤルを回した。ガイトナーは回転ドアの近くに立つ警備員に目配せし、警備員がうなずいた。電話を終えた男がガイトナーの対面に腰を下ろし「さぁ、お前の仕事をしろ」と言った。
ガイトナーは三〇分ほどかけて重要事項の説明を隅から隅まで読み上げた。抑揚のない声は退屈極まりないものだったが、目の前の男は、欠伸はおろか、視線を逸らすこともなく、冷たい青い瞳でガイトナーを見ていた。説明を終えたガイトナーがハンケチで額を拭うと、男は口角をつり上げた。
「ロラン・ガイトナー、次の仕事だ。今しがたそこに入金された金を今から言う口座に送金しろ」
「でしたら、こちらの用紙に記入してください」
「いいだろう。それがお前の仕事だからな」
一〇以上の国際送金を終えたガイトナーの背中は汗まみれだった。半年に一度行われる銀行員としての査定評価を落とさないためにも書類不備がないよう細心の注意をはらわなくてはいけない作業は過酷な肉体労働のようだった。朦朧とした意識の中、ガイトナーが明日の有給休暇申請の理由を考えていると、男はポケットから緑色に輝くトラップカットの宝石をとり出し、ガイトナーの前に置いた。
「報酬だ」
「いただけません」
男は宝石を指差し「これがたいそうなものだと思っているのか? よく見ろ。これは偽物で、価値はない。ネロはエメラルドを眼鏡にして剣闘士たちの殺し合いを見物した。これは偽物だが、とっておけ」と言うと、ため息をついたガイトナーが「記念にさせてもらいます」と答えた。
連載目次
- 星条旗
- テキサス人
- 保釈保証書不要につき
- バロース社製電動タイプ前にて
- アスク・ミー・ナウ
- ユートピアを求めて
- ヴェクサシオン
- フィジカル
- バロース社製電動タイプ前にて ~テイクⅡ
- ジェリーとルーシー
- プレイヤー・レコード
- イースタン・タウンシップから遠く離れて
- エル・マニフィカ ~仮面の記憶
- バロース社製電動タイプの前で ~テイクⅢ
- 炸裂する蛾、網を張る蜘蛛
- 窓の未来
- セックス・アフター・シガレット
- バロース社製電動タイプ前にて ~テイクⅣ
- アタリ
- 小カンタベリー、五人の愉快な火かき棒
- 回遊する熱的死
- 顔のないリヴ・リンデランド
- 有情無情の歌
- ローラースケーティング・ワルツ
- 永久機関
- エル・リオ・エテルノ
- バトル・オブ・ニンジャ
- 負け犬の木の下で
- バロース社製電動タイプ前にて ~テイクⅤ
- エアメール・スペシャル
- チープ・トーク
- ローリング・ランドロマット
- 明暗法
- オニカマス
- エル・マニフィカ ~憂鬱な仮面
- ニンジャ! 光を掴め
- バスを待ちながら
- チープ・トーク ~テイクⅡ
- ブルックリンは眠らない
- しこり
- ペーパーナイフの切れ味
- 緑の取引
- 天使の分け前
- あなたがここにいてほしい
- 発火点
- プリズム大行進
- ソムニフェルムの目覚め
- テイク・ミー・ホーム
- オン・ザ・コーナー ~劇殺! レスリングVSニンジャ・カラテ
- 血の結紮(けっさつ)
- 運命の交差点