七五号線のサウス・サンディエゴでピックアップトラックのハンドルを切ったエミールは三階建ての保安官事務所の前で自動車を停めた。助手席に置かれた制帽をかぶったエミールが自動車から降りると、地面に落ちたアカシアの黄色い花は半円形の絨毯のように見えた。保安官事務所に入ったエミールは受付係に挨拶をして階段を上った。〈C・ワイズマン〉というプレートが取り付けられたドアをノックすると、ワイズマンの「どうぞ」という声が聞こえた。部屋に入るなり、エミールは制帽のつばを撫でる。窓の隙間から通りを見つめるワイズマンの襟元には五つ星が輝いている。エミールが
「邪魔したか?」と言うと、ワイズマンは小さくため息をついた。
「進展がありそうなんだ」
「ジム・フライの居場所がわかったのか?」
ワイズマンは「それがわかっていたら、もう少し、気分が晴れるんだけどね」と言って、デスクに両手を置く。
「どこから話したらいい?」
「わかっている限りでいい」
「お喋りの前にコーヒーはどうだい? コーヒー・マシンを置いたんだ。応接室に置いていたんだけれど、誰も使っていないことを思い出して、今朝、ここまで持ってきた。仕事をはじめるのにピッタリな味だよ」
「薄味だと言いたいのか?」
「胃に優しい味と言おうか」
エミールは来客用のソファに腰を下ろし、ワイズマンが黒いコーヒー・マシンのボタンを押した。咳き込んだような起動音が響いている間、ワイズマンは逆さに重ね置かれた紙コップを二つ用意した。マシンのランプが点滅すると、紙コップを置いてボタンを押した。紙コップの底から湯気が立ち上り、アラビカ種のジャスミンのような香りが漂う。鼻をピクつかせたワイズマンが紙コップの上部を掴んでエミールに渡した。窓辺に寄り掛かったワイズマンがコーヒーを一口飲み
「文明的な味だよ」と言った。コーヒーを飲んだエミールは顔を顰めた。
「薄すぎる」
「都会的と言い換えてもいいね」
エミールが手をヒラつかせ、ベルトのバックルを指で突いた。
「カリフォルニア人は屁理屈が上手い」
「テキサス人は頑固な、わからず屋」
二人は笑い、地図や写真が貼られていない無地の壁に声が反響した。ワイズマンが椅子に腰を下ろして口を開く。
「先日、重度の火傷を負って入院していたアレクセイ・ソコロフというコメディアンが死んだ」
「病院はそういう場所だからな」
「そう、人は死ぬ。そういうことになっている。でも、それが意図的なら別。同じコメディアンのジム・ゴーティマーという男が自白した」
「どういうことだ?」
口をすぼめたワイズマンが「ゴーティマーがソコロフを殺したんだ。点滴に息を吹き込んでね」と言った。エミールは目を細め、黒々した無精ひげに手をやった。
「動機は?」
「そこはだんまり。でも、火事が起きた場所はフェイ・ラングーンのナイトクラブ。そして、それはジム・フライが放火した店だ」
「一気に進展だ。このまま、女の送り迎えでキャリアが終わるのかと思っていたからな」
「この件には詐欺局も動いているんだ」
「放火課はどうした?」
ワイズマンは手を叩き「それについて説明を受けようと思っているんだ。レジー、いるかい?」と言うと、ドアが開き、ネイビーブルーの帽子をかぶった男が部屋に入ってきた。帽子の男、レジーはカーク・ダグラスに似た男で、チャンピオン然とした佇まいを漂わせている。レジーが腰に手をやると、ワイズマンが言う。
「技官のレジー・テイタム。ぼくからの紹介はこれぐらいにしておこう。レジー、話を聞かせてくれるかい?」
テイタムはポケットから真っ黒になった金属片をとり出して二人に見せた。
「死亡したアレクセイ・ソコロフは自転車を改造した発電機で自身に通電させ、頭にのせた電球を点灯させる大道芸人だった。そして、放電の熱が樹脂を分解し、発煙。発火した」
金属片をポケットにしまったテイタムが帽子に触れた。ワイズマンが「それで?」と尋ねた。テイタムはハッキリした口調で「以上だ」と答え、エミールが親指で無精ひげを撫でた。
「もう少しわかりやすく教えてもらえるかな?」とワイズマンが言うと、テイタムが
「これ以上はない」
喉を鳴らしたエミールが制帽のつばを撫で、ワイズマンは気まずそうに「わざわざありがとう」と言った。テイタムが部屋から出て行き、エミールはコーヒーを啜る。
「わかりやすい話だったな。火が出た。要するに、放火じゃない」
「こんなつもりじゃなかったんだけど。彼は口下手なんだ」
「十分だ。これでジム・フライの罪状が一つ減った。そして、サンディエゴの保安官の仕事もなくなった。テキサスでの恐喝と傷害、護送中の逃亡と傷害。ここから先はテキサスの保安官代理の仕事になる」
ワイズマンは首を横に振り「ここはテキサスじゃない」と言った。
「そうだな。だが、カリフォルニアではジム・フライは善良な市民の一人でしかない」
「逃亡中の犯人だよ」
「カリフォルニアで厄介ごとを起こしたわけじゃない」
「君一人でやるつもりかい?」
「テキサスの問題だからな」
大きなため息をついたワイズマンが「君一人でジム・フライを逮捕するなんて無茶だ。腕を折られておしまいだよ」
エミールは「お前は親切にしてくれた。礼を言う」と言うなりソファから立ち上がり、空になった紙コップをゴミ箱に放った。
「どこに行くんだい?」とワイズマンが尋ね、エミールが腰に手をやった。ワイズマンが言う。
「君に暴力沙汰を起こされたりしたら、ぼくは大目玉だ」
「粗暴なテキサス人が勝手にやったと言えばいい」
ワイズマンはネクタイのコブに人差し指と中指を突っ込み、ネクタイを緩めた。
「最後まで付き合うよ。ぼくにはその責任がある。これでも五つ星だから」
外に出た二人はバンに乗り込み、助手席のエミールが胸ポケットから煙草の箱をとり出すと、手を伸ばしたワイズマンが煙草を一本、引き抜いて口にくわえた。
「煙草は身体に悪い」とエミール。
「君に影響された」
エミールがライターで火を点けると、ワイズマンが煙を吐き出した。ワイズマンは咳き込み、目をしばたたかせた。
「たしかに、身体に悪そうだ」
「似合わないことはやめておけ」
「これでクビになったらテキサスで保安官代理をするよ」
エミールが笑い、制帽のつばを撫でる。ハンドルを切ったワイズマンがバンを発進させると、カー・ラジオからはドラムのフィルインに続いて高音のコーラス、ボブ・マーリーが歌う『アイ・ショット・ザ・シェリフ』が流れ出した。「おれは撃たれたくない」とエミールが言い、ワイズマンが口笛を吹いた。
ワイズマンはドナックス・アベニューにある郵便局にバンの尻を向けて停めた。二人は通りを挟んだ二階建ての白いアパートを見ている。ラジオを止めたワイズマンが口を開く。
「殺人事件に詐欺局。随分とキナ臭くなってきたね」
「サンディエゴの保安官の出る幕じゃない」
「まぁね。それはわかっているよ。退屈していたのかも」
「刺激を求めると早死にする」
「君は?」
「息子と会う約束がある」
「多分、君は自分が思っている以上に他の人から好かれている」
制帽のつばを撫でたエミールが「何を言っているんだ?」と言い、ワイズマンはシャツの袖をまくった。
「放っておけないって感じがする」
「放っておけば、死ぬほど弱くはないつもりだ」
ワイズマンはハンドルを撫でながら「そういうところだよ」と言った。バンの隣に黒いセダンを停まり、運転席から老人が降りるのが見えた。老人は助手席側のドアを開けると、小包の大きなダンボールを引っ張り出そうとするものの、ダンボールが引っ掛かっていた。制帽のつばを撫でたエミールが黙って自動車から降りた。ワイズマンは突き立てた人差し指を上下させながら「そういうところ」と言い、エミールが「便所を借りるついでだ」と答えてバンのドアを閉めた。
ワイズマンは街路樹のヤシから伸びる細長い影を見ている。通りを斜めに切り裂くように伸びた細い光、ヤシと交差する電線、白いアパート。助手席のドアが開き、ワイズマンが「早かったね」と言うと、薄汚れたハーフパンツとクマがプリントされた靴下、ゴルフウェア、頬骨を避けるように生えた無精ひげ、親指を包むように折り曲げられた四本の指。最も原始的な闘争手段にして、抵抗の意思を示す最も安価な武器がワイズマンの下顎に当たり、窓ガラスに頭をぶつけたワイズマンが気を失った。握り拳を一撫でしたジム・フライはドアを閉め、ドナックス・アベニューを横切る。フライはアパートの階段を上り、喉を鳴らして二〇二号室の呼び鈴を押した。高鳴る心臓の鼓動にチャイムの音が重なる。乱れた赤毛を掻き上げながらゼラ・ドミトリクがドアを僅かに開け、目を白黒させる。亡霊、あるいはほとんど死んだ人間を目にしたドミトリクがドアを閉めようとすると、フライは汚れた革靴の爪先を挟んでドアを力いっぱい押した。ドミトリクが叫び、フライは部屋に入った。ドミトリクは膝をついたまま動物の真似をする幼児のように廊下を進んだ。フライは飼い犬を追うように速足で歩く。ドミトリクがキャビネットを背に、震える手でペーパーナイフを掴んだ。ペーパーナイフの柄にはめ込まれた模造ダイヤとエメラルドが輝いた。フライは部屋を見た。自身の写真は一枚も飾られておらず、記憶を共有した品物が一つもない女の部屋を。開けっ放しのクローゼットにはドレスや、ヒールが並べられている。自身が知らない香水の匂いに鼻をピクつかせたフライはドミトリクを見る。瞳、髪、身体、手入れが行き届いた手指の爪。フライが誰よりも詳しく知っていると考えていた他人はペーパーナイフの薄く、頼りない刃を向けている。フライがポケットから二二口径の拳銃をとり出すと、女は歯を鳴らし、唇を震わせた。かつて、彼に向かって甘く囁いた唇は歪んでいる。すっかり、気が抜けたフライは拳銃を握ったままダラリと腕を下げた。
「久々に亭主が顔を見せたっていうのに、それか?」
女が吐き捨てるように「あんたとは離婚した」
「あんなもの。紙一枚じゃないか」
「出て行ってよ。じゃないと……」
「じゃないとなんだ? 何をする? そいつでおれを刺し殺すのか? やれよ。好きにしろ。お前がもっと贅沢をしたいと言ったから、ラングーンの小間使いをやったんだぞ。クソッタレのテキサスまで行って、借金の取り立てまでした。そこまでやったっていうのに、おれが捕まったらどうだ? お前はラングーンの店で、まるで何もなかったみたいに、いけしゃあしゃあとしている」
肩を震わせたドミトリクが走りだすと、フライはドミトリクの腕を掴んで壁に叩きつけた。安普請の白い壁に鼻血がこびりついた。ドミトリクが目に涙を溜めながらつぶやいた。拳銃を握ったフライが近付き、ドミトリクは怯えた顔でフライを見た。瞳には狂暴な他人が映っているだけだった。フライは弾倉が空になるまでクローゼットに向かって発砲し、クローゼットから木片が飛び散った。髪を搔きむしったフライが自身に言い聞かせるように「おれは人殺しじゃない」と言い、部屋から出て行った。
郵便局まで荷物を運ぶことを手伝ったエミールは、利き手が震えることを訴えた老人、ロムロ・コモンフォルトのために宛名を書いた。コモンフォルトは宛先の住所を口に出すよりも先に、一人息子をメキシコ・シティのトラテロルコ地区ラス・トレス・クルトゥラレス広場で失ったことを語り出した。コモンフォルトはグスタボ・ディアス・オルダスを考えられる限りで最大限のスペイン語でこき下ろした。うなずいたエミールが「シィ」(あぁ)と言うなり、コモンフォルトは目に溜まった涙を拭き取ってエミールの肩を抱いた。コモンフォルトの言葉は六八年に殺された息子に向けられたものだった。老人の肩を叩いたエミールが「アディオス」(さようなら)と言うと、コモンフォルトはエミールの黒い瞳を見つめ、エミールを息子の名前で呼んだ。
郵便局から出たエミールは制帽のつばを撫で、バンのドアを開けた。運転席で窓ガラスに顔を寄せたまま気を失っているワイズマンの肩を掴んで頬を張ると、ワイズマンが目をぱちくりさせ、赤くなった下顎に触れてうめいた。
「何があった?」
「君がいなくなってすぐに来たんだ……ドアが開いて、そのままゴツン」
「ジム・フライだな?」
「そう……そう」
「応援を呼んでくれ。おれは女の家に行く」
「無駄だよ。もう殺されている」
制帽のつばを撫でたエミールが「それを確認してくる」と言ってドアを閉めた。ドナックス・アベニューを横切りながら、エミールは支給品の自動拳銃をとり出した。セダンのクラクションを無視したエミールは階段を上り、開いたままになっている二〇二号室のドアをすり抜けるように入った。脇を緩め、慎重に、しかしながら大胆に歩くエミールはスクリーンの中を闊歩するクリント・イーストウッドのようであり、眉間に皺を寄せた彼は映画『夕陽のガンマン』でジャン・マリア・ヴォロンテが演じるエル・インディオと対決する名無しのよう。スクリーンの中で鳴り響いたオルゴールの音はドミトリクのすすり泣く声に置き換えられている。エミールはペーパーナイフを握ったまま、床に腰を下ろして泣いているドミトリクを見た。ドミトリクが非難めいた目つきでエミールを見た。エミールが言う。
「今、応援を呼んだ」
「あいつが来た。あたし、死ぬの?」
エミールは穴が開いたクローゼットを見ると、制帽のつばを撫で
「そんなことにはならない。部屋の風通しをよくされただけだ」
「全部、自分でやったことなのに、あたしのせいにした」
「大体の男はそう言う」
「あんた、誰の味方?」
「テキサス人の味方だ。もちろん、テキサス人が法を犯せば捕まえる。弁護士に告げ口したいならすればいい。おれの知ったことじゃない。どちらにせよ、ジム・フライはおれが捕まえる」
「殺してよ。得意なんでしょ?」
首を横に振ったエミールが「これで保護プログラムの対象になる。いい子にしろよ」と言って、部屋から出て行った。
連載目次
- 星条旗
- テキサス人
- 保釈保証書不要につき
- バロース社製電動タイプ前にて
- アスク・ミー・ナウ
- ユートピアを求めて
- ヴェクサシオン
- フィジカル
- バロース社製電動タイプ前にて ~テイクⅡ
- ジェリーとルーシー
- プレイヤー・レコード
- イースタン・タウンシップから遠く離れて
- エル・マニフィカ ~仮面の記憶
- バロース社製電動タイプの前で ~テイクⅢ
- 炸裂する蛾、網を張る蜘蛛
- 窓の未来
- セックス・アフター・シガレット
- バロース社製電動タイプ前にて ~テイクⅣ
- アタリ
- 小カンタベリー、五人の愉快な火かき棒
- 回遊する熱的死
- 顔のないリヴ・リンデランド
- 有情無情の歌
- ローラースケーティング・ワルツ
- 永久機関
- エル・リオ・エテルノ
- バトル・オブ・ニンジャ
- 負け犬の木の下で
- バロース社製電動タイプ前にて ~テイクⅤ
- エアメール・スペシャル
- チープ・トーク
- ローリング・ランドロマット
- 明暗法
- オニカマス
- エル・マニフィカ ~憂鬱な仮面
- ニンジャ! 光を掴め
- バスを待ちながら
- チープ・トーク ~テイクⅡ
- ブルックリンは眠らない
- しこり
- ペーパーナイフの切れ味
- 緑の取引
- 天使の分け前
- あなたがここにいてほしい
- 発火点
- プリズム大行進
- ソムニフェルムの目覚め
- テイク・ミー・ホーム
- オン・ザ・コーナー ~劇殺! レスリングVSニンジャ・カラテ
- 血の結紮(けっさつ)
- 運命の交差点