別に何かあったわけじゃないけど、 砂糖と脂肪をたっぷり使った食品を山のように買い込んで吐くほど平らげて大声で泣きたい。 人間が怖くて買い物に出る元気がないし、 アパートの壁も薄いので実際にはやらない。 Netflix と Amazon Prime の東宝チャンネルを解約した。 後者は黒澤明と怪獣映画のためだったけれど、 望むものはだいたい観てしまって、 数ヶ月まったく利用していなかった。 前者は期待したほど観たいものがないわりに、 観たくもない韓国ドラマをごり押ししてくる。 『ウェンズデー』 のつづきを観ろって? つまらないからやめたんだっていい加減わかれよ。 『これいただくわ』 の LGBT 作家が脚本を書いた映画がよかったのは 「普通」 や 「正しさ」 との対比があるから。 「正しさ」 を押しつける 「普通」 の人間がいちばん怖いんだ。 そんなこともわからない JR 君たちは、 せいぜい 『肩をすくめるアトラス』 でも読んでりゃいいさ⋯⋯。
さいきん身も蓋もないことがわかってきた。 まず、 おれを褒めてくれた作家とならうまくやれる。 みんな感性が合っていて技量に秀でていてコミュニケーション能力が高い。 商業作家になろうとした若いとき、 おれの書くものに合う投稿先なんてないんで、 しょうがないから似ても似つかない雑誌やら新人賞やらに投稿して、 当然はじかれてばかりだった。 いまでは断る側の理屈もわかる。 なむさんに憧れて原稿もってくるひとがたまにいるんだけどさ、 うちの掲載作ちゃんと読んだ? って感じなんだよ。 もっとふさわしい場所があるんじゃない? ロリペド礼賛ならよそでいくらでも需要あるでしょうがよ⋯⋯。 おれが書いたものでさえも好意的に受け入れてくれる親切なひとたちならそんな心配はない。 イエスマンを集めてるだけじゃないのと問われたら、 なんもいいかえせない。 うしじまいい肉さんが 「自分を肯定してくれるひととだけ関わって何が悪いの」 といっていて、 なるほどと感心した。 とはいえなむさんもイシュマエルさんも、 だめなときはちゃんと指摘してくれる。 その指摘が信頼できるからやっていける。 才能がないやつみたいにとんちんかんな否定をすることがないからね。 あと、 どうもおれは自分で書くより他人に書いてもらうほうが得意らしい。 おれでさえなければ、 それなりにちゃんと読まれて評価される。 ばからしいから自分では書かないことに決めた。
一般的にはインターネットでは才能のないやつほど評価される。 そこでは話題性だけが重視され、 なじみ感や使い勝手のよさは必須とされる。 才能があれば、 なじみ感は損なわれる。 響いた相手だけの特別なものとなり、 そこから広がっていくことはない。 一般的にはね。 そういう世間での泳ぎ方、 バランスの取り方が、 寄稿者とりわけなむさんはうまい。 独自の才能を別に隠してもいないのだけれど、 そうでありながら、 ちやほやされる要素を技法として狡猾に使いこなして、 使い勝手のいい消費財となっている。 それは擬態ですらない。 技能であり機能なんだ。 そういう才能なんだろうな。 皮肉でも妬みでもない。 自分がそうなろうとは思わないけれど、 素直にあこがれる。 天性のものに加えて、 泥臭い地道な努力の積み重ねで、 研ぎすまされたものなんだよな。 イシュマエル氏だってそうだ、 休まず書いてピアノの練習と研究も怠らず、 絵まで描いている。 一夜文庫さんの生産量や行動力にも驚かされる。 おれだって努力はしてきたけれど、 あまりに報われないんでもう元気が失せた。 寄稿者諸氏ほど努力してきたかと問われたら、 それほどじゃないと認めざるを得ないけれど⋯⋯。 報われなさはいいわけでしかない、 といわれたら、 まぁそうかもしれない。 学習性無力感というやつ。 どうすればいい。 報われなくてもいいし、 このままだれにも受け入れられなくてもから、 せめてまた自己満足の努力ができるようになりたい。 おれでないだれかであれば、 書いたらリスペクトされ読みたい、 と思われる。 おれならキモい迷惑な自己愛者の印象しか生じない。 それが人間の価値というもの。 人格 OverDrive だって、 おれがかかわってさえいなければ、 もっとずっと読まれていた。 どの寄稿者も十万 PV の mimei さんとおなじくらい読まれていたはずだ。 おれがおれでさえなければと不甲斐なく思う。
数年前まで日本の Fediverse はペドアニメアイコンのギークが卑語をわめくだけの地獄だった。 最近はおれと考えの近いまともなひとが増えてきたかに見えた。 錯覚だった。 がっかりした。 偉そうな態度で小難しいことをいって他人をばかにしたいだけの連中だった。 一見もっともらしい主義主張はだれかをばかにするための手段でしかない。 ペドギークにしても説教強盗にしても、 要するに Twitter のもっとも苦手な連中が流れてきただけだった。 ソーシャルメディアというかインターネットそのものの特性として、 そういうひとたちしか目につかない (そうしたものの表示が増幅され、 まともなものの表示機会は抑制される) ってことなんだろう。 プラットフォーム企業は儲かる表示を追求する。 そりゃまぁ営利企業は利潤を追求するのがあたりまえなのだけれど、 人類の大半が本を読まず、 差別や暴力を好むからには、 インターネットで効率よく儲けるためには知性や論理を排除して、 差別や暴力を増幅するのがいいに決まっている。 アルゴリズムで効率的にそれを突き詰めたあげく、 かれらはインターネットを差別と暴力の温床にした。 いや温床って言葉じゃ生ぬるいな、 極限までとことん増幅したんだ。 Amazon だってそうで、 おかげで出版は差別と暴力の下僕に成り下がった。 米国でもブラジルでもアルゴリズムに操作されて民主主義を憎むに至ったひとびとが議会を襲撃し、 日本では若年女性を支援する事業を、 人権を憎むひとびとが潰した。 はてブのホッテントリとか見るとさ、 もうこの国はタリバンみたいな連中に支配されたんだって実感するわ。 プラットフォームのアルゴリズムは防衛省が研究に着手するくらい、 世論操作に活用されている。 加えて日本の Twitter の運営会社は、 某政党とかかわりの強い大手広告代理店と資本関係にある。 こうした事実と、 この国の変化とは実際にかかわりがあると思う。 Fediverse で陰謀論や人権侵害を見たことがないとしたら、 単に日本のサーバをブロックしているからだよ。 日本人が鳥小屋から Fediverse へ移るのは、 中央集権プラットフォームでさえ許容され得ない虚言や人権侵害を、 おおっぴらにやるためだからさ。
おれがおれであることが許される場所はどこにもない。 実生活のプロトコルにもプラットフォーム企業のアルゴリズムにも適応できない。 非営利の Fediverse でさえ場としては適応できない。 居場所として建てたはずの楽犬舎でさえ、 ActivityPub でよそと連合したせいでそんなことになる。 他人の目に触れたらばかにされる、 だから自分ひとりで自己完結したい。 手段あるいは道具としての Fediverse/Mastodon と、 場としての Fediverse/Mastodon は切り分けて考えなきゃいけないよな。 理想のすべてを実現できるわけではないにしても、 「生煮えの思考を垂れ流す」 という目的に前者はおおむね適っている。 WordPress に ActivityPub プラグイン入れるなり、 ドメイン買ってさくら VPS のスクリプト使うなりして、 簡単にはじめられてある程度のカスタマイズもできた。 でも場としては、 他人を視界から排除することでしか安心を得られない。 だいたいなんで Mastodon には他人に話しかけられる機能があるんだ。 びっくりするし怖い。 だいたいにおいて好意からじゃないし。 嫌悪、 敵意、 憎悪、 蔑み、 嘲笑⋯⋯そうしたネガティブな意図しかない。 読みたいものは購読したいさ、 でも大きな石をひっくりかえして出てきた虫を観察するみたいにしてフォローされる機能はいらん。 通知もいらん。 一方通行がいい。 そもそも出版や読書ってそういうもんだろ。 前は好きな小説を読んでいれば居場所に感じられた。 いまは、 なんで祝福された他人の本を読んでやらなきゃいけないんだ⋯⋯と、 まるでくそ扱いされ堆肥にでもされたかのように感じさせられる。 価値ある他人の養分にはなりたくないんだよ。 ただ物語の世界へ現実逃避したいだけだ。 読者として容認されたかに錯覚しているけれど、 実際にはおれは、 書いたやつにも出版社にも受け入れられない分際だ。 そのことを思い知らされるばかり。 本を読むことそのものが、 おろしたてのバラ色のシャツを着ておまつりの街へ出かけるようなものに成り下がった。 みんながその本を褒めたたえている、 調子にのっておれも発言する、 そしたらみんな怒っておれを殴る。 バラ色のシャツもやぶれそう、 おまつりへ行くときっと泣いてしまう。 結局のところ望ましいユーザ体験って、 RSS リーダのフロンドエンド的なものでしかない気がする。 価値のある連中にとっては別だよ? かれらは大勢から言及され指数関数的に祭り上げられる。 そうでないおれら、 何者でもないおれらはくそ扱いされ養分にされるだけ。 そういう世渡りから距離をおいたら、 Fediverse は RSS と変わりなくなる。
プラットフォーム企業への不信感が日に日に増している。 アパルトヘイトで成り上がった家柄の富豪が、 フロントエンドアプリをのきなみ廃業に追いやったことに、 いまさらみんなが不平をいっている理由がよくわからない。 別の会社が自分たちの商売にのっかることをこれまで許してきたことのほうがおれには奇妙に思える。 中央集権プラットフォームってそういうもんだろ? Google をやめて DuckDuckGo にしようかな⋯⋯とちょっと考えたんだけど、 あれだってアフィリエイトで成り立っているからには利用者の視界はコントロールされてるよな。 非営利オープンソースの検索エンジンってないものか。 あれこれ考えると寡占企業でありつづけるがゆえに利用者の視界をあえてコントロールする必要のない Microsoft が、 ビッグテックではいちばんまともに見えてくる。 かれらにしてもポータルに表示するのは政権とかかわりの深いメディアの記事なのだけれど。 GoToSocial と Elk の組み合わせ、 試したいんだけどやり方がわからない。 ただ、 やれたとしても、 ガワがよそにあってコントロールできないという考えが気に入らない。 自分が見ているように他人にも見せたい。 どれだけ凝った組版で書いても配信先では醜い表示がされるのが、 他人には異なる見栄えで読まれるのが気に入らない。 Fediverse の仕組み上しょうがないのはわかっている。 おれはおれの視界をコントロールしたい。 でも他人の見るものはコントロールできないんだな、 これが。 連中の目におれは堆肥に見えている。 せめて悪臭で悩ませないよう、 人前に出るのはシャワーを浴びてからにしている。 柄の長いブラシと大量の石鹸で全身をすりむけるまで擦っている。 こんな人間であることから解放されたい。