ブルックリンの中央に位置する長屋建家屋は一見に値する。ブルックリン=ジャマイカ鉄道、ロングアイランド鉄道、アトランティック通りとフランクリン通りの間に存在した駅舎、コニー・アイランド鉄道も車両基地を除けば現存しないものの、一九世紀から居住を開始したアフリカ系アメリカ人たちのウィークス・ビル村は今も存在している。ニューヨークには現存するものと、しないものが入り乱れている。それらは幻のように感じることができる。微かな匂いとして残っているのだ。
手すりのない石階段をのぼり、ドアが開け放たれたままの長屋に入ると、見知った顔の人々が私を歓迎した。彼らの何人かはクラック中毒だし、お世辞にも品行方正とは呼べない生活をしている。彼らは夢見ているし、自惚れてもいる。私は、自分自身が生み出すものが世界を変える強度を持っていると信じて疑わないだけの図太い神経を持ち合わせている彼らを微笑ましく感じ、そして、少しだけ嫉妬している。私にも、今の彼らと同じように向こう見ずな時代があったという事実は遠い昔だ。古本のページに殴り書いたメッセージの断片を千切って売り歩いたボヘミアン生活。というより、詐欺師の生活。私自身、懐かしいと感じるし、楽しかったとも思うが、あの頃に戻りたいと思わない。私の感性は加齢や、蓄積された知識と経験によって摩耗したのだ。考えようによっては、これは悲劇的かも知れないが、結局のところ、未熟であり続けることを望み、そこに耽溺する詩情を持ち合わせていなかったというだけだ。
部屋の一室ではポエトリーリーディングが行われていた。使い古された言葉や、勿体ぶった言い回し。過剰な自意識ではあるものの、不愉快だと感じないのは彼らに情熱があるからだ。情熱が冷めるのが先か? 情熱によって自身を焼いてしまうのが先か? 燃え上がる情熱という炎の上で踊り続けることは容易ではない。
開け放たれた窓からは隣で演奏する音が聞こえた。曲はディジー・ガレスピーによる『マンテカ』だった。ピアノやギターといった和音を奏でる楽器は聞こえない。リズムはベースとドラムだけだ。何人かの管楽器奏者たちが代わる代わる自由に吹いている。管楽器奏者は各々の頭の中に和音を想定しながら演奏しているという事実。楽器を演奏せず、知識として知っているだけの私にとっては信じられないことのように思える。目の前で催されるポエトリーリーディングとトランペットの高音が混ざる。言葉は不明瞭だ。人によって感じ方が違うし、想定される意味にも隔たりがある。音楽はどうだろう? 訓練を積むことで隔たりを越え、調和に到達することができるのだろうか?
催しが終わると、見知った人々と会話をした。彼らの私に対する敬意は職業によるものだろう。そのうちの一人、ヒュー・レピンが私の前にやってくるなり、早口でまくし立てるように言った。
「彼の噂を聞いたんだけれど、本当なのかい?」
「彼?」
「ほら、何年か前に……『暈』を書いた彼だよ。噂になっているんだ。彼が次回作を準備しているっていう噂。ずっと前、ここで彼とお喋りしたことがあるんだ。メルヴィルについて。ちょっと時代錯誤かなって思ったけれど、『暈』を読んで、はっとさせられた。メルヴィルにとっての神や悪魔がクジラなら、彼にとっては光だったんだと思った」
「ありがとう。しかし、噂というのは誰から聞いたのかな?」
「誰からかは忘れたよ。でも、みんなが噂している。彼は死んだと言われていたし」
「元気にしているよ」
「君からその一言を聞きたかったんだ。君は今も彼の出版エージェントなんだよね? 書店ツアーはやるの? また、彼とお喋りしたいよ」
「残念ながら、まだ仕上がっているわけじゃないんだ」
「そうなんだ。でも、彼のことだから驚くようなものを書くだろうね」
私は「伝えておくよ」と言うなり、長屋建家屋を後にし、歩いてアパートに帰った。
食事を終え、ジェイソンを寝かしつけた後、書斎に入って窓を開けた。隣の部屋でトニが聴いているスカルラッティのピアノソナタが聞こえた。私はファックスから吐き出されたままになっている紙を千切り、手ごろな大きさにハサミで切ってノートに貼り付けた。彼は相変わらずのようだ。
連載目次
- 星条旗
- テキサス人
- 保釈保証書不要につき
- バロース社製電動タイプ前にて
- アスク・ミー・ナウ
- ユートピアを求めて
- ヴェクサシオン
- フィジカル
- バロース社製電動タイプ前にて ~テイクⅡ
- ジェリーとルーシー
- プレイヤー・レコード
- イースタン・タウンシップから遠く離れて
- エル・マニフィカ ~仮面の記憶
- バロース社製電動タイプの前で ~テイクⅢ
- 炸裂する蛾、網を張る蜘蛛
- 窓の未来
- セックス・アフター・シガレット
- バロース社製電動タイプ前にて ~テイクⅣ
- アタリ
- 小カンタベリー、五人の愉快な火かき棒
- 回遊する熱的死
- 顔のないリヴ・リンデランド
- 有情無情の歌
- ローラースケーティング・ワルツ
- 永久機関
- エル・リオ・エテルノ
- バトル・オブ・ニンジャ
- 負け犬の木の下で
- バロース社製電動タイプ前にて ~テイクⅤ
- エアメール・スペシャル
- チープ・トーク
- ローリング・ランドロマット
- 明暗法
- オニカマス
- エル・マニフィカ ~憂鬱な仮面
- ニンジャ! 光を掴め
- バスを待ちながら
- チープ・トーク ~テイクⅡ
- ブルックリンは眠らない
- しこり
- ペーパーナイフの切れ味
- 緑の取引
- 天使の分け前
- あなたがここにいてほしい
- 発火点
- プリズム大行進
- ソムニフェルムの目覚め
- テイク・ミー・ホーム
- オン・ザ・コーナー ~劇殺! レスリングVSニンジャ・カラテ
- 血の結紮(けっさつ)
- 運命の交差点