テキサス州ダラスのロス・アベニューにあるアパートの一室。リロイは青いコップに注がれた牛乳を見つめながら「大きくなるために必要なこと」と自身に言い聞かせて牛乳を飲み干した。リロイは咽頭と鼻腔に残る獣の臭いに顔を顰め、身支度を終えた母親のエリがリロイの頭を優しく撫でた。リロイは椅子の上に置かれた茶色いカバンを見る。カバンの金具から垂れ下がる紐を編んだだけのお守りが左右に揺れていた。リロイは前髪を触りながら、弁護士事務所で秘書として働くエリを見る。明るい茶色の髪、細くて長い鼻、ややつりあがった目は自信に満ちている。リロイがコップを流し台に置くと、エリは蛇口を捻ってコップを洗った。コップは流し台の横に敷かれた水切り用の紙タオルの上に逆さまに置かれ、水道水が滴り落ちていく。リロイが言う。
「どうして、父さんと、りこんしたの?」
エリは腰に手をやり、ベルトの金具が音を立てた。手を伸ばしたエリがリロイの肩に手を置き
「そろそろ、バスが来るわね」
「どうしてりこんしたの?」
エリが茶色のカバンを持ち上げリロイの前にやる。背中を向けたリロイが両手を上げ、カバンを背負った。リロイは振り返り、再び同じ質問を投げかけた。小さくため息をついたエリが言う。
「あの人はエルパソで働き続けたいと考えている。母さんは違うの」
「あの人って?」
「エミールとは価値観が違う。彼は私が家で家事をしていればいいと思っている」
「かちかんってなに?」
「大事なこととか、優先することとか。心の中にある物差しみたいなものね」
「それが違うと、りこんするの?」
「しない人もいるけれど、私たちは離婚した。努力したつもりだけど、上手くいかなかった」
「ぼく、父さんと母さんと一緒がいいんだ」
エリはリロイの頭を撫で、背中を優しく押した。
「次にエミールに会ったら言ってみて。今度はもっと意見を尊重するように、人の話をちゃんと聞くようにって。それから、テキサス・レンジャーになりたいからって、危険なことに率先して手を上げないでってね」
「ぼく、父さんも母さんも好きだよ」
「えぇ、わかっている」
二人は部屋を出て、階段を下りた。エリが緑に塗られたアパートのドアを押し、少年はロス・アベニューを見つめる。細い幹のサルスベリ、黒いセダン。人々は赤茶色の建物の前をゆっくりと歩いている。リロイは待っている。ディーリー・プラザ前のエルム通りを通過するオープンカーではなく、学友たちを乗せるためにノロノロと走る黄色いスクールバスの到着を。リロイが「かちかんってなんだろう」とひとりごちた。
連載目次
- 星条旗
- テキサス人
- 保釈保証書不要につき
- バロース社製電動タイプ前にて
- アスク・ミー・ナウ
- ユートピアを求めて
- ヴェクサシオン
- フィジカル
- バロース社製電動タイプ前にて ~テイクⅡ
- ジェリーとルーシー
- プレイヤー・レコード
- イースタン・タウンシップから遠く離れて
- エル・マニフィカ ~仮面の記憶
- バロース社製電動タイプの前で ~テイクⅢ
- 炸裂する蛾、網を張る蜘蛛
- 窓の未来
- セックス・アフター・シガレット
- バロース社製電動タイプ前にて ~テイクⅣ
- アタリ
- 小カンタベリー、五人の愉快な火かき棒
- 回遊する熱的死
- 顔のないリヴ・リンデランド
- 有情無情の歌
- ローラースケーティング・ワルツ
- 永久機関
- エル・リオ・エテルノ
- バトル・オブ・ニンジャ
- 負け犬の木の下で
- バロース社製電動タイプ前にて ~テイクⅤ
- エアメール・スペシャル
- チープ・トーク
- ローリング・ランドロマット
- 明暗法
- オニカマス
- エル・マニフィカ ~憂鬱な仮面
- ニンジャ! 光を掴め
- バスを待ちながら
- チープ・トーク ~テイクⅡ
- ブルックリンは眠らない
- しこり
- ペーパーナイフの切れ味
- 緑の取引
- 天使の分け前
- あなたがここにいてほしい
- 発火点
- プリズム大行進
- ソムニフェルムの目覚め
- テイク・ミー・ホーム
- オン・ザ・コーナー ~劇殺! レスリングVSニンジャ・カラテ
- 血の結紮(けっさつ)
- 運命の交差点