バラクーダ・スカイ

第36話: ニンジャ! 光を掴め

Avatar photo書いた人: イシュマエル・ノヴォーク, 投稿日時: 2023.01.12

ビーチに突き立てられた標識に寄り掛かりながら腰を下ろしたアーロ・ミューレンは大きなため息をついた。デイト・アベニューからやって来た観光客にとって、薄汚れた空手着姿のミューレンは荒行を終えたばかりの修験者のように見えるらしく、彼らはミューレンを尊敬と侮辱が混じったような目で見た。ミューレンは砂浜に押し寄せる白波を見ながら、再びため息をついた。身体と精神が萎み、消えゆく塵のような吐息。
打ち上げられた海藻を手首に巻き付けたまま桟橋をくぐったジェイクはライフセーバーのバーノン・クックに向かって手を振った。ジェイクはミューレンを見るなり、歩く方向を変えた。海藻を放ったジェイクがミューレンの隣に腰を下ろす。ジェイクは肩についた糸くずか砂粒か、あるいはマリファナの幻覚を麦わら帽子で払いのけ、手をヒラつかせた。
「よぉ、アーロ。調子はどうだい?」
 水平線を見つめるミューレンは答えない。傷んだ空手着に潮風が吹き付ける。球形サングラスの縁を撫でたジェイクが「いい場所だろ? まぁ、生きている限りはどこもいいところだけどな」と言った。桟橋の近くではコーヒーを売る男の声が波間に漂っている。ジェイクはアロハシャツの胸ポケットに入れたままの、半分ほど吸い終えたマリファナを口にくわえた。波打ち際ではビキニ水着姿の若い娘たちがスイカを模したゴムボールを蹴り上げ、ボウルは波の上に落ちた。ジェイクが言う。
「世界ってやつは運動だ。イデオロギーのことじゃない。あらゆるものは運動している。とはいえ、運動そのものを見ることができるものは少ない。おれたちの時間、物差しは思っている以上に小さいってことさ。たとえば風景。あそこの波は動いている。間違いない。じゃあ、あそこの砂は? 風に吹かれている。ボブ・ディランみたいだ。もう少し大きなもの、たとえば、あの風景そのものは動いていないように見えるかも知れないが、実のところ、何万年もかけてダイナミックに動いている。いずれ、すべての大陸が一つになるのかも知れない。ゴンドワナ大陸がそうだったみたいにな。グルーヴィ、視点のスケールだ。運動の話に戻そう。波打ち際の十字架。あれは光だ。別に神が顕現しているわけじゃない。だけど、不思議だ。光には質量、重さがない。なのに、運動している。運動しているから、あの光を見ることができる。アインシュタインはうまく考えた」
 砂に〈 E=mc ²〉と書き記したジェイクが笑みを浮かべた。
「こいつはいい。シンプルだ。もう少し色々とあるが、ここまで煮詰めたものを書いた奴は他にいない」
 ジェイクがマリファナに火を点け、潮風が焼け焦げた煙を吸引した。ミューレンは空手着の袖に触れ「ぼくは、もうおしまいだよ」と言った。ジェイクは遠くに置かれたラジカセから流れるハービー・ハンコックの『カンタロープ・アイランド』のブリッジに耳をピクつかせ
「何かあったのかい?」と尋ねた。ため息をついたミューレンが
「道場破り、敗北、逮捕」と、途切れ途切れに言った。ジェイクが手を大袈裟にヒラつかせると、アロハシャツにプリントされたヤシと小屋が揺れた。
「道場破りに敗けたから逮捕されたって意味かい? おかしいぜ。なぜって、アーロはここでおれと喋っているんだからさ」
 ミューレンが髪を掻き、砂粒が落ちる。
「違うよ。ぼくが敗けたのは違わないけれど……師範が逮捕されたんだ」
「試合に敗けると逮捕されるのかい? 冗談だろ? 本当は脱税したんだろ? どんな奴も税金からは逃げられないってことはアル・カポネが証明したからな」
 首を横に振ったミューレンが「彼は脱税なんてしないよ。彼はぼくに良くしてくれた。生徒たちにも。みんなが彼を慕っていた。尊敬していたのに……なんでこんなことになったんだろう?」
「ここは尊敬されたら逮捕される国じゃないぜ」
「ぼくもそう思う。でも、彼は子供を虐待しているんだって。サッパリわからない」
 ジェイクは煙を吐き出し「アーロに勝ったって奴はどうしているんだい?」
「さぁ、知らない。でも、名前は知っている。ジョーイ・ラブ」
「愛なき世界ってわけだ」
「綴りが違うとも言っていた」
 喉を鳴らしたジェイクが「おれには、アーロが愛に敗けたって聞こえたぜ」
「空耳だよ」
 立ち上がったジェイクはジーンズについた砂をはらい落とす。白や薄茶色の砂粒が落ちていく。
「違わないさ。アーロ、ちょっとばかり、歩こうぜ」
「そんな気になれないよ。ぼくはおしまいなんだから」
 口をアヒルのようにすぼませたジェイクが「まだ終わっちゃいない」と言うと、ミューレンの腕を引っ張り、半ば無理やりミューレンを立ち上がらせた。
「どこに行くの?」
「ドリス・デイはなんて歌った? そう、『ケ・セラ・セラ』……行こうぜ」
 ジェイクが歩き出し、ミューレンも歩き出す。視認するにはあまりにも微細な変化の波が打ち寄せる。

 ジェイクはシーコースト・ドライブの酒店でハイネケンを二本買い、片方をミューレンに渡した。
顔を顰めたミューレンが「飲みたい気分じゃないんだ」と言い、ジェイクは手をヒラつかせた。
「アーロ、栓を開けてくれよ」
「栓抜きは?」
ジェイクがミューレンの猛禽類のような手を指し「そこにあるだろ?」と言うと、ため息をついたミューレンが拳二つほどの広さに足を開いて指を伸ばし、腰を捻って勢いをつけた指先でハイネケンを貫手した。白い泡がアスファルトに滴り落ち、ジェイクが口笛を吹いた。
「グルーヴィ。これで栓抜きはお役御免ってわけだ」
「こういうことのために鍛えているわけじゃない」
「使えるものは使ったほうがいいぜ」
「見せびらかすみたいで嫌なんだ」
「まぁ、そういう考え方もあるな」
 二人はエバーグリーン通りを歩いている。ジェイクはハイネケンを飲みながら、ミューレンは呆れた顔で。靴底を鳴らしたジェイクがスプリームスの『愛はどこへ行ったの』を歌い出し、調子が外れた歌と詩の固相線が響く。手を伸ばしたジェイクは柵を越えて伸び放題になっているリュウゼツランの葉に触れた。ミューレンがため息をついた。
「どこに行くんだい?」
 ジェイクは「お楽しみは聞かないほうが楽しめるぜ。最たるものは人生。未来は誰にも聞けないからな」と言ってステップを踏んだ。肩を竦めたミューレンが歩き出した。アスファルトに入った浮き出た血管のような亀裂、錆びた鉄柵、所有権を主張するかのように置かれた青とグレーのポリバケツ、路肩に植えられたまま管理されない薄茶と緑の芝生。交差点でジェイクはピタリと足を止めた。灯りが消えたビデオショップの緑や赤、青といったネオンライトにはクモが巣食っている。口笛を吹いたジェイクがビデオショップに入り、ミューレンも後をついていく。店内は経年劣化したビデオテープの臭いが充満しており、微かに埃の臭いが嗅ぎ取れた。ジェイクは天井まで届く、棚にぎっしりと並んだタイトルの波を撫でながら白と黒のチェス盤のような床を歩いていく。ジェイクは早口であらすじや感想を述べていく。途切れない言葉はストリートで相手をやりこめるアフリカ系住民たちの軽口言葉のようである。ミューレンが呆気にとられていると、ビデオを手にとったジェイクがカウンターに向かった。
「よぉ、ラプチャー。調子はどうだい?」
 ラプチャーはガラス張りのカウンターに手を置き、手から発せられた体温でガラスが曇った。ラプチャーはニンテンドー社製テレビゲームに登場する配管工の弟のような緑色の帽子をかぶっており、紺色のデニム生地のエプロンには赤いサインペンが引っ掛けられている。頬を撫でたラプチャーが「こんな時間に店に来るのはジェイク、君ぐらいかな」と言った。
「商売がうまくいっていないのかい?」
「そういうわけじゃない。夜はそこそこ儲かっているよ。しいて言うなら、昼間からビールを飲みながらビデオを選ぶ人間は少ないってこと」
 手をヒラつかせたジェイクが「そいつには勤労意欲ってやつを教えてやるといい」と言って、ハイネケンを飲んだ。口を歪ませたラプチャーが
「で、それを買うのかい? またまた、変なものを選んだね。もうちょっとマシなものは山ほどあるのに」
 ジェイクはカウンターにビデオを置き、球形サングラスの縁を撫でた。
「ショー・コスギにサニー・チバ、ヒロシ・フジオカは最高だぜ」
「言わせてもらうけど、その『ニンジャⅡ ~修羅の章』よりも『燃えよニンジャ』のほうが面白いよ。『激突! 殺人拳』と『SFソードキル』はわかるけど」
「グルーヴィ」
「ジェイク。真面目な話、お金は持っているんだろうね?」
「今まで、おれが一度でも金を払わなかったことはあったかい?」
「ジョシュアの店でツケを貯めている」
「あとでまとめて払っているよ。金がない時は払えないからな。ない袖は振れないもんさ」
「ウチはツケをやらないよ」
 ジェイクはジーンズのポケットに手を突っ込み「魔法のカードがある。振れば命の金が湧き出すような」
「クレジットカードを持っていたのかい?」
「ダイナーズよりも凄いやつさ」
 ジェイクが二つに折られた皺くちゃの紙をとり出し、カウンターに置かれた青い小銭トレーに落とした。トレーから生えたプラスチックの毛に撫でられた紙が乾いたと音を立てる。ため息をついたラプチャーが〈インペリアル・ビデオ〉とプリントされた紙を手にとった。
「ポイントが貯まっていたってわけね」
「グルーヴィ、魔法のカードさ。そいつを満タンにすると、三本がタダになる。だろ?」
「まぁね」と言ったラプチャーがレジを打ち、吐き出された薄い感熱紙を引き千切って小銭トレーの上に置いた。
「おれが領収書をせっせと貼り付けて節税に勤しむフィリップ・マーロウに見えるかい?」
「毎回、狙いすましたように後頭部ばかりを殴られて気絶させられていたら世話がないよ」
 ジェイクが笑みを浮かべ、ラプチャーは小銭トレーの上に置かれた感熱紙を摘まんでゴミ箱に放った。ビデオを小脇に抱えたジェイクが「また来るよ」と言い、二人は店を出た。
 通りをふらふら歩くジェイクがポリバケツの上に置かれた木彫りのニポポ人形を掴んだ。ナイフで横に引いただけの両目と口は開かれているのか、閉じているのか、ミューレンには見当がつかなかった。ミューレンが指差し「それ、何?」と尋ね、ジェイクは人形の八角形の胴を擦った。
「何って、人形だよ」
「うん、まぁ……そうだろうけど」
「これが何かっていうことは、それほど重要じゃないぜ。それがここにあって、今、おれの手の中にあるっていうことが重要なんだ」
「持って行く?」
 ジェイクは人形を宙に放り、片手で掴んだ。
「捨てられちまうよりはマシだろ?」
 肩を竦めたミューレンが「まぁ、君が欲しいならそれでいいけど。ところで、どこに行くのか、いい加減教えてくれてもいいんじゃない?」
「ブーンの店に行こう」
「ブーンに用があるの?」
「上等兵はビデオデッキを持っている。つまり、こいつを観るのに必要ってわけさ」
「ビデオデッキを持っていないのにテープを買ったの? いつもそうなのかい?」
「デッキを持っていないから観ないなんて、そんな手はない。アーロが顔を見せればブーンだって喜ぶさ」
「それは彼の趣味じゃないと思う」
「だったら、趣味を広げてもらおうぜ」
 人形をポケットに突っ込んだジェイクが歩き出した。

 商店〈名誉ある者たち〉のカウンターの前で、ノルマンディー上陸作戦における落下傘降下を語ったマックス・カーンエースの瞳は四一年という月日を超えても煌々と輝きを放っていた。真っ赤に染まったオマハ・ビーチを電撃的に語るカーンエースの口調は劇的であり、ロベール・デスノスが咽頭を震わせながら紙に記した自由に対する炎のような愛と同程度のものだった。カーンエースは肩を震わせながら悪しき者は必ず去り、その後に自由と正義が勝利することを告げると、颯爽と店から出て行った。黒々とした髪を掻き上げたランカスターがレジの締め処理ボタンを押した。ドアが開き、ジェイクとミューレンがやってくると、ランカスターは目を細めた。
「今日は店じまいだ」
ジェイクは小脇に抱えているビデオテープを指差し「映画を観ようぜ」
 レジから吐き出された金を小さな金庫に移したランカスターが
「二時間もノルマンディーの話を聞かされたんだ。気分じゃない」
「これから『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』を観ようというわけじゃないぜ」
「付き合っていられるか」
 ランカスターは薄汚れた空手着姿のミューレンを見て
「アーロ、久しぶりだな。調子はどうだ?」
 言葉を遮るように手をヒラつかせたジェイクが「今、それは禁句だぜ」と言った。こめかみを掻いたランカスターが
「何かあったのか?」
 ミューレンがうつむき、ジェイクはカウンターに空になったハイネケンの瓶を置いた。
「ゴミを押し付けるな」とランカスター。ジェイクは麦わら帽子の側面を人差し指で突き
「金を隠したら映画を観ようぜ。サニー・チバとヒロシ・フジオカ、とどめにショー・コスギがある」
「そんなものに興味ない」
 ジェイクは「ジャーキーでも齧りながら観ようぜ」と言い、ビニールに真空詰めされたビーフ・ジャーキーと業務用冷蔵庫に入ったハイネケンをとり出した。
「それは売り物だ」とランカスター。ジェイクがジーンズのポケットからとり出した小銭をランカスターに渡すと、ランカスターはレジの下に敷かれた絨毯をめくり、地下室につづいている観音開きのドアを開けた。ジェイクが口笛を吹くと、ランカスターは舌打ちした。
 涼し気な空気が漂う、厚いコンクリートに囲まれた地下室にやってくるなり、ジェイクはテーブルの上にハイネケンとビーフ・ジャーキーを置いた。ジアゼパムの錠剤が入った白い容器が口を開けたまま転がっていた。パイプ椅子に腰を下ろしたランカスターは背中から自動拳銃をとり出してテーブルに置いた。ミューレンが立ったまま「相変わらず、いつも銃を持っているのかい?」と尋ね、ランカスターが「まぁな」と答えた。ジェイクは雑誌の上に置かれたブラウン管テレビのスイッチを押し、さらにその上に置かれたビデオデッキのスイッチを押した。
「ブーン、この国でホールドアップされたことはあるかい?」
 ランカスターはテーブルの上に足をのせ、ラッキー・ストライクに火を点けると首を横に振り
「それでも、安心する」と答えた。
「どの道、不安の種は尽きないものさ」と言ったジェイクがビデオデッキの再生ボタンを押した。
ブラウン管の中では忍者がヌンチャクを振り回し、数々の演武を披露しはじめる。ベトナム帰りの帰還兵の男が、日本で忍者になるための修行を終えて、メキシコに住む友人を訪ねるものの、友人は木の葉のように呆気なく死に、赤や白の忍者たちと死闘繰り広げ、滝壺に飛び込む。
日本の山中で崖から落ちた武士が四〇〇年後にアメリカでスキーヤーによって発見される。瞬間冷凍された侍は日本製品と同じようにタフであり、解凍された侍は異国の街で夜な夜な悪を斬り捨てていく。
ある日、無頼の空手家のもとに男女が訪れ、腕試しとして殺人を犯した兄を脱獄させることを依頼する。空手家は脱獄を成功させるものの、男女は文無し。そうこうしているうちに闘いがはじまり、男は雑居ビルの上から転落して死亡する。復讐に燃える兄と妹。百人組手。気が付けば豪華客船の甲板でずぶ濡れになりながら喉の肉を毟り取って咆哮する空手家。

 五時間ほどのビデオ鑑賞を終えたジェイクが拍手した。すべての銃の整備を終えたランカスターはナイフを研いでいた。ワイン色の砥石をタオルで拭いたランカスターが「わけがわからん」と言い、ジェイクはビーフ・ジャーキーを温くなったハイネケンで流し込んだ。ジェイクがマリファナに火を点けた。
「グルーヴィ。楽しいっていうものは、わからないを通り越したところにあるものさ」
「度を越えている」
 煙を吐き出したジェイクはポケットからニポポ人形をとり出してテーブルに置いた。眉をひそめたランカスターが「なんだそれは?」と言い、ジェイクが「人形だよ」と答えた。ジェイクは椅子から立ち上がって球形サングラスの縁を撫でた。
「さぁ、アーロ。トレーニングだ」
 目を丸くしたミューレンが「何を言っているんだい?」
「何って、トレーニングだよ。どうして、アーロが敗けたのかを考えてみたかい?」
「それは……彼のほうが身体が大きかったから」
「それはつまり、デカい奴に勝つことはできないってことかい?」
 ナイフをズボンで拭ったランカスターが「銃なら相手の大きさは関係ない。銃は正直だからな」と言い、ミューレンは首を横に振った。
「人を殺したいわけじゃないんだ」
「殺すのが目的じゃない。勝つため。相手を叩きのめして打ち負かすためじゃない。アーロが自分自身に勝つためさ」
「スポーツの常套句だな」とランカスター。煙を吐き出したジェイクが
「そう、スポーツ。だから、人は殺さない。だけど、それでいいんだ」と言うと、大袈裟にため息をついたランカスターが「おれにはよくわからん」と言った。ジェイクはテーブルに置かれたビーフ・ジャーキーを手で小さく刻んだ。ジェイクが言う。
「アーロ、今からこいつを投げるから、それを全部捕まえてみな」
ミューレンに向かって千切られたビーフ・ジャーキーが投げられる。ミューレンの拳は素早く、拳圧はロウソクの灯を消してしまいそうなほどだった。すべての干し肉を掴んだミューレンが
「これぐらい、朝飯前さ」と言った。
「グルーヴィ。じゃあ、ブーン。銃を貸してくれ」
「マリファナを吸った奴に貸せるか」
「OK、それじゃあ、ブーン。アーロに向かって撃ってくれ。アーロはその弾丸を掴むんだ」
 抗議するような口調でミューレンが「無茶だよ」と言い、呆れ顔のランカスターが
「いよいよ、頭の中までマリファナに浸かったらしい」
 手をヒラつかせたジェイクが
「これはトレーニングだ。頭の上にリンゴをのせる必要のない。ウィリアム・テル……バロウズを超えようぜ」と言った。ミューレンの口がゆっくりと開かれ「やるよ」という言葉が絞り出される。ランカスターが後頭部を掻きながら「正気じゃない奴が二人になった」と言った。ジェイクは壁にコートのようにかけられたナイロン製のボディアーマーを手にとると、髪を掻き上げたランカスターが
「それじゃあ、貫通する。セラミックプレートを入れろ」
ジェイクは「セラミックプレートは嫌になるほど重い」とひとりごち、ランカスターが指差した引き出しを開け、引っ張り出したセラミックプレートをボディアーマーに入れた。ボディアーマーを空手着の上に着たミューレンが抗議するような口調で「動きにくい」と言った。ランカスターは整備を終えた自動拳銃を握った。
「胸に向かって撃つ。動くな。おれの手元が狂うことはないにせよ、跳弾で怪我をしたくない」
「度胸試しじゃないぜ」とジェイク。ミューレンは胸を叩き
「一つ聞くけど、当たるとどうなるのかな?」
「衝撃で痛むだろうが、貫通しない。セラミックプレートは頑丈だ」
「試したことは?」
「ボディアーマーは動きが遅くなる。狙撃兵は捕虜になれない。見つかれば殺される。ベトナムでは着なかった」
「着たことがないのに、どうして言い切れるの?」
「ベトナム以外で着たのさ」とジェイク。ランカスターは手を振り
「発射された弾丸を掴めると思うか? 無理に決まっている。弾丸を掴むことができるのなら、おれはジャングルで死んでいる」
「やってみなきゃわからないぜ」
 ゆっくりと息を吐いたミューレンが「やってみよう」と言い、ジェイクの球形サングラス、レンズの輝きが増した。
「アーロ、ここまで来た道のりを思い出してくれ」
「人形を拾って、ビデオショップに寄った」
「違うぜ。ワックスかける、ワックス拭き取る。つまりはそういうことさ」
舌打ちしたランカスターが「ジェイクの言うことは聞かなくていい。アーロ、動くなよ」と言った。ランカスターがスライドを引き、スプリングの力によって初弾が薬室に送り込まれる。ランカスターの顔は微動だにせず、力みのない身体が自然に引き金を引いた。床と平行に発射された弾丸は線の上を滑るようにミューレンの胸を目指す。ミューレンの脳の中ではショー・コスギが滝壺に落ち、サニー・チバが貫手を完成させ、ヒロシ・フジオカが悪漢を斬り捨てる。ミューレンの筋肉が収縮し、呼吸とまばたき、脈打つ心臓、全身を流れる電気信号が結合する。精巧に計画された大胆で無鉄砲な作り物はブラウン管とミューレンの脳内で完成された奇跡であり、すべての信徒は奇跡を疑うことをしない。
 ミューレンが掌を広げると、微かに火傷をしていた。掌の中にある黒ずんだ弾丸を見たジェイクが「グルーヴィ」と言って、ミューレンの肩を叩いた。
「ブーン、アーロがジャングルの中にいたら死んでいたな」
舌打ちしたランカスターが「おれは気付かれたりしない」
「ブーンが上手かったからだよ。もし、少しでもズレていたら、銃弾を掴むなんてとてもできなかった」
 ジェイクは麦わら帽子を叩き「謙遜は美徳だな」と言ってミューレンと肩を組んだ。口笛を吹いたジェイクが「それじゃあ、ブーン。お祝いにハイネケンをおごってくれよ」
 ため息をついたランカスターが「上から持ってこい」と言った。


作家、ジャズピアニスト、画家。同人誌サークル「ロクス・ソルス」主催者。代表作『暈』『コロナの時代の愛』など。『☆』は人格OverDrive誌上での連載完結後、一部で熱狂的な支持を得た。

連載目次


  1. 星条旗
  2. テキサス人
  3. 保釈保証書不要につき
  4. バロース社製電動タイプ前にて
  5. アスク・ミー・ナウ
  6. ユートピアを求めて
  7. ヴェクサシオン
  8. フィジカル
  9. バロース社製電動タイプ前にて ~テイクⅡ
  10. ジェリーとルーシー
  11. プレイヤー・レコード
  12. イースタン・タウンシップから遠く離れて
  13. エル・マニフィカ ~仮面の記憶
  14. バロース社製電動タイプの前で ~テイクⅢ
  15. 炸裂する蛾、網を張る蜘蛛
  16. 窓の未来
  17. セックス・アフター・シガレット
  18. バロース社製電動タイプ前にて ~テイクⅣ
  19. アタリ
  20. 小カンタベリー、五人の愉快な火かき棒
  21. 回遊する熱的死
  22. 顔のないリヴ・リンデランド
  23. 有情無情の歌
  24. ローラースケーティング・ワルツ
  25. 永久機関
  26. エル・リオ・エテルノ
  27. バトル・オブ・ニンジャ
  28. 負け犬の木の下で
  29. バロース社製電動タイプ前にて ~テイクⅤ
  30. エアメール・スペシャル
  31. チープ・トーク
  32. ローリング・ランドロマット
  33. 明暗法
  34. オニカマス
  35. エル・マニフィカ ~憂鬱な仮面
  36. ニンジャ! 光を掴め
  37. バスを待ちながら
  38. チープ・トーク ~テイクⅡ
  39. ブルックリンは眠らない
  40. しこり
  41. ペーパーナイフの切れ味
  42. 緑の取引
  43. 天使の分け前
  44. あなたがここにいてほしい
  45. 発火点
  46. プリズム大行進
  47. ソムニフェルムの目覚め
  48. テイク・ミー・ホーム
  49. オン・ザ・コーナー ~劇殺! レスリングVSニンジャ・カラテ
  50. 血の結紮(けっさつ)
  51. 運命の交差点
ぼっち広告