バラクーダ・スカイ
第35話: エル・マニフィカ ~憂鬱な仮面
ロッカールームで特注サイズの黒い背広に身を包んだジョーイは短く刈られた髪に櫛をあて、ロッカールームから出ると、クローク係のアマリアが片目を瞑り
「お出掛け?」と言った。ジョーイはカリフラワー耳を撫で
「あぁ、新しい仕事だ」と答え、アマリアが唇を舐めた。
「昔に戻ったみたいって思う?」
肩を竦めたジョーイが「昔は自分で運転しなかった」
「じゃあ、今のほうがいい?」
「まぁ、怪我のリスクは少なそうだが」
「不満なの?」
「そんなことはないさ。先週までドアマンでしかなかったおれがハンドルを握るんだ。大出世だよ。それこそ、メインイベントをしていたぐらいの」
アマリアはジョーイの大きな肩を撫で「気を付けて」と言った。外に出たジョーイはクラブを囲むオリーブの木を見るなり、黒いキャデラックのドアを開けた。運転席からはみ出そうなほどの巨体を無理やり押し込んだジョーイはキーを差して捻った。すましたエンジン音が響き、アクセルを踏み込んだ。
キャデラックはティワナ・スラウ国立野生動物保護区をなぞるように走っている。ノース・ビーチ・トレイルで自然を満喫した観光客たちは顔に張り付いた疲れと満足を汗とともにハンケチで拭い、バスに乗り込んでいく。ジョーイはハンドルを切り、シーコースト・ドライブを直進する。萎んだヒマワリのような外灯、太平洋側に点在する別荘、屹立したヤシは下部の葉が枯れており、幹をマフラーのように覆っている。信号のない交差点を、廃品を積んだトラックがゆっくりと横切る。ジョーイは左右に手を振り、トラックからクラクションが鳴らされた。ジョーイがアクセルを踏む。
車線変更を禁止するためにアスファルトの上に立てられた膝丈ほどの標識、アスファルトに引かれた自転車の形をした記号は暦法、あるいは雨を乞うナスカの地上絵のようである。道路沿いのレストラン、テント張りの席に座りながら白い歯を見せあう恋人たち、野球帽をかぶり、道路を見ながら大きなピザを一人で食べる男、正方形の形に植えられたヤシ、管理された自然。
ジョーイはデューンズ・パークの前、岩礁から飛び出すように彫り込まれたイルカ像を通り過ぎるとハンドルを切って自動車を停止させた。ジョーイは自動車から降り、ドアの前に立った。ヘビのようにうねった形の滑り台で遊ぶ子供の声、甲高い音で鳴らされる自転車の呼び鈴、潮風と混ざった芝生の匂い。ラングーンの姿を見るなり、ジョーイはドアを開け、ラングーンが後部座席に座った。ジョーイが運転席に座ると、ラングーンはあばた面をハンケチで拭き
「リトル・イタリーに行け」と言った。ジョーイは聞き返すことなく、ただ「はい」と答えてアクセルを踏んだ。
自動車は七五号線から八号線に進む。合計八車線の道路は両側を土手に囲まれている。トラックや乗用車、深緑色の軍用ジープが間隔を維持したまま走っている。「どうだ?」というラングーンの質問の意図がわかりかねたので、ジョーイは礼を言った。ラングーンは黒いボタン式の車載電話に目を落とし「道を覚えたかという意味だ」と言った。
「それなら問題ありません。このあたりはよく走るんです」
「道も満足に覚えていないような馬鹿を運転手に雇うほど余裕はないからな」
「おれは運転手以外もできます」
ハンケチで額を拭ったラングーンが「冷房をつけろ」と言った。既に冷房は最も強く設定されていた。ジョーイがつまみをいじるふりをすると、ラングーンは「それでいい」と言った。
バリオ・ローガンを通過していると、遠くに停泊する軍艦から伸びたクレーンが見えた。通り沿いの古い倉庫にはメキシコ系住民による積極的行動主義に基づいた極彩色の壁画が描かれている。通りに向かって声なき声を上げ、睨みを利かせる壁画を見ながらジョーイは欠伸を噛み殺す。蛇行したフリーウェイが交差する。枝分かれしたアスファルトの先に何があるのかを夢想しながらジョーイはカリフラワー耳を掻く。ラングーンが車載電話のボタンを押し、イタリア訛りの英語で話をはじめた。
サンディエゴ航空宇宙博物館の看板を通り過ぎると、ハンドルを切り、左に車線を変更してフリーウェイから降りた。ウェスト・グレープ通り沿いに植えられたヤシはどれも背が低く、幹は太くて枯れた葉が上部を覆っていた。通りに並んだ近代的な凹凸のアパートは建築士たちの未来志向が殊更に強調されていた。車載電話を置いたラングーンが
「そこの交差点の先だ。今、セダンが頭を出したところで停めろ」と言ったものの、ジョーイからは五台のセダンが見えた。ジョーイはケトナー通りの交差点の前でブレーキを踏んだ。リングを囲むロープを飛び越えるような素早さでジョーイは運転席から降りて後部座席のドアを開けた。ラングーンは「ついてくるな。一時間ほど待っていろ」と言い、そのまま白い壁のレストランに入って行った。ケトナー通りを赤いメルセデスが走り去る。ジョーイは毒キノコのような形状の消火栓とメタリック・ブラウンの速度標識の間に立ち、ポケットに手を突っ込んだ。ジョーイはため息をつき、靄がかかった太陽に向かって歩き出した。
貸しユニフォームを宣伝するトラックと黒いジープがジョーイを追い越し、通り沿いのカフェではモノトーンのパラソルの下で仏頂面のウェイターが皿を盆に載せている。ガラス一面に貼られた広々としたマンションを見せつけている不動産業者は奥からジョーイを値踏みする。ケトナー通りを左折し、ウェスト・デイト通りを歩いていると、ワイン箱に放られたペーパーバックの束を目にしたジョーイが足を止めた。開け放たれたドアの先には細長く、薄暗い古書店の奥からカビの臭いが漂ってきた。ジョーイはゴミのような束から日焼けしたペーパーバックを手にとった。もっと派手で、目を引く表紙は他にあったものの、それを手にしたことは運命ではなく、単に手にとりやすいからだった。ジョーイは大きな身体を揺すりながら古書店に入った。湿気たカビの臭いにくしゃみを噛み殺しながらカウンターに置くと、斑色のシャツを着た男が目を細め、曲がった鼻に触れた。
「二五セント」
ジョーイは拳骨で腰を叩き「随分と安いんだな」と言った。両目を見開いた男が眉間に皺を寄せ
「古本は買わないほう?」
「本に縁がない人生でね」
男は指を組み「だとしたら、もう少し読みやすいもののほうがいい。それは、何年か前に出たもので、たしか、賞を獲った。はじめのうちは飛ぶように売れたらしい。まぁ、その時、ウチで扱っていなかったわけだけれど。読者ってやつは飽きっぽいんだ。刺激に飢えている。刺激、刺激、刺激……刺激に次ぐ刺激。読者は物語の中で人が死ぬのを心待ちにしている」
「本の中で死ぬぶんには、何人死んだところで誰も困らない」
「まぁ、そう。本の中でならね。でも、本は現実を後追いしている。価値観とか、そういったものを標本にするんだ。綴じることで、いびつな形で」
「あんたは、それをおれに売りたくないのか?」
男は大袈裟に振った手を胸に当て
「喜ばしく思っているよ。飽きっぽい読者に手放され、巡り巡ってウチにやってきたその本が君のもとに行く。感動的だ。あるいは運命的」
ジョーイがポケットからとり出した硬貨を男に渡すと、男は笑みを浮かべ、白々しい口調で
「よい旅を」と言った。
ケトナー通りまで戻ったジョーイはキャデラックの運転席に座った。そして、膝の上に置いた日焼けしたペーパーバックを開く。目次はおろか、著者の名前にすら目を通さずにカンマの少ない一文を目で追っていく。インキによって刻まれた文字が黄ばんだ紙の上で光に照らされ、ゆっくりと踊り出す。幾何光学のように素朴にはじまる一文は物語の赤外線、紫外線、可視光を飲み込みながら小さく震えだす。
黄ばんだページが赤銅色に染まる頃、運転席のドアがノックされ、慌てたジョーイがドアを開けた。赤ら顔をしたラングーンは上機嫌な様子だった。後部座席に腰を下ろしたラングーンは酒臭いため息をつき「次に同じことをしたらクビだ」と言った。
「申し訳ありません。ミスター・ラングーン」
「さっさと出せ」
キーを捻ったジョーイがアクセルを踏み込んだ。
連載目次
- 星条旗
- テキサス人
- 保釈保証書不要につき
- バロース社製電動タイプ前にて
- アスク・ミー・ナウ
- ユートピアを求めて
- ヴェクサシオン
- フィジカル
- バロース社製電動タイプ前にて ~テイクⅡ
- ジェリーとルーシー
- プレイヤー・レコード
- イースタン・タウンシップから遠く離れて
- エル・マニフィカ ~仮面の記憶
- バロース社製電動タイプの前で ~テイクⅢ
- 炸裂する蛾、網を張る蜘蛛
- 窓の未来
- セックス・アフター・シガレット
- バロース社製電動タイプ前にて ~テイクⅣ
- アタリ
- 小カンタベリー、五人の愉快な火かき棒
- 回遊する熱的死
- 顔のないリヴ・リンデランド
- 有情無情の歌
- ローラースケーティング・ワルツ
- 永久機関
- エル・リオ・エテルノ
- バトル・オブ・ニンジャ
- 負け犬の木の下で
- バロース社製電動タイプ前にて ~テイクⅤ
- エアメール・スペシャル
- チープ・トーク
- ローリング・ランドロマット
- 明暗法
- オニカマス
- エル・マニフィカ ~憂鬱な仮面
- ニンジャ! 光を掴め
- バスを待ちながら
- チープ・トーク ~テイクⅡ
- ブルックリンは眠らない
- しこり
- ペーパーナイフの切れ味
- 緑の取引
- 天使の分け前
- あなたがここにいてほしい
- 発火点
- プリズム大行進
- ソムニフェルムの目覚め
- テイク・ミー・ホーム
- オン・ザ・コーナー ~劇殺! レスリングVSニンジャ・カラテ
- 血の結紮(けっさつ)
- 運命の交差点