去年の秋に M51 のぱちもんを買ったんだよ。 ジミー少年みたいにでかすぎるサイズがよかったんだけど、 よくわからなくてジャストサイズになっちゃった。 ライナーをとりはずせるんで秋も冬もいける。 モッズスーツにタブカラーシャツ、 細い黒のニットタイ、 ビートルブーツにレノンハットで気分は 60 年代。 それで満足してもいいのにオプションのファーつきフードがほしくなった。 実用性からいえば、 いらない。 見た目も好きじゃない。 もともとついてたとしたら、 はずすと思う。 なのに、 つけることができる、 と知ったら試してみたくなったんだよ。 どうもおれにはそういう悪癖がある。 機能があると試してみたくなるんだ、 いらないのに。
Fediverse もそうなんだ。 何度も書いてきたけど、 生煮えの思考を垂れ流せる UI が好きなだけであって、 よそと連合する必要はないんだよ。 他人に読まれるために書くわけじゃない。 頭のなかの妄想や言葉を外に出してすっきりしたいだけ。 努力してかたちにして、 おれにもこれだけのことがやれたんだ、 と自己満足したいだけ。 理解されずに貶められるくらいなら人目に触れたくない。 なのによそと連合する機能があると、 つい試したくなる。 数年前に前のサーバを建てたときは、 ペドアニメアイコンのギークしかいなかった。 最近は考えの近いひとが増えてきた気がして、 思いきって他人を視界にいれることにしたんだ。 よせばいいのに調子に乗って、 読んでくれよと 『ぼっちの帝国』 のリンクを投稿までした。 いつものひとりごとのつもりで、 反応を期待したわけじゃない。 でもひょっとしたら気の合うだれかに見つけてもらえるかも、 と浅ましく願ったのも否定しない。 こないだ思いだせなかったのは SION の 「鬼は外」 だった。 こんな唄だよ。
だれにも見つかりたくないくせに、 みんなに見つけてほしい。 どうなってんかな、 三つから進歩なし。
おひとりさまで自己完結する予定だったのに。 たぶん原因は通知機能だ。 ぴょこぴょこと音を立てて数字が増えるんでつい気になる。 そんなつもりはないのに知らず知らず他人に気に入られようとしてしまう。 浅ましい人間にはなりたくない。 自己満足で自己完結したい。 なのにおかしな方向へ行っていた。 いつもこのくりかえしだ。 『GONZO』 だってただ頭から追い出したいだけだった。 読まれようとして書いたわけじゃないし、 出版すれば貶められて、 無価値や無能を思い知らされるだけとわかっていた。 だから書き上げたその日に原稿をゴミ箱へ棄てた。 なのに数ヶ月後には発掘して出版していた。 あげく売れないわ、 低評価ばかりつけられるわで惨めな思いをして、 さんざん懲りたはずなのに、 またしても似たようなことのくりかえし。 フォローした他人に 「いちおう読んだけど、 不快なことばかり書いてあって怖いので序盤で挫折した」 といわれた。 「読書は性交とおなじで、 自分を傷つけないことが保証されている相手しか受け入れたくない」 とも。 わざわざ侮辱するくらいならなんで読むのか。 というかそれ以前に、 見ず知らずの他人にいきなり性的な話をするあんたのほうが怖いだろと思った。 たぶん性的価値のあるひとたちは、 そんなふうに面と向かって 「あなたには価値がない」 と告げるのに慣れてるんだろうな。
おれにとってソーシャルメディアは四人囃子 「おまつり」 だ。 怒ったみんなに殴られるとわかっている。 なのに、 なんでいそいそと出かけていくんだろう、 おろしたてのバラ色のシャツまで着て。 やっぱ向いてないわ、 やめようやめよう。 通知は切った。 ペド画像で世界の爪弾きとなっている日本の大規模サーバふたつを拒否した。 「ローカル」 ってのも要らないんだよな、 おれしかいないんだから。 ダイレクトメッセージは迷惑でしかないし、 リストもブックマークも使わない。 検索と連合、 百害あって一利なし。 返信機能も、 自分の投稿をつなげてぶらさげるにはいいけど、 他人に話しかけたり、 話しかけられたりは好きじゃない。 というか怖い。 通りすがりの他人に性的能力の欠如を云々される機能はごめんだよ。 そもそも入力欄が左にあって右にいらんリンクが並ぶ UI が好きじゃない。 かといって microblog.pub はストイックすぎるし建て方もわからない。 右ペインぜんぶ CSS で消した。 不自然な余白ができたけれどしょうがない。 そこに並ぶ 「おまつり」 をおれはもう見たくない。 街へは二度と出かけない。 おろしたてのバラ色のシャツは自室で着て楽しむ。 どうせ殴られるだけだとわかっているからね。
ActivityPub のいいところは、 自分のサイトさえフォローしていれば、 だれもいないひとりぼっちのタイムラインでも寂しくないところ。 自分や寄稿者がサイトになんか書いてくれたら、 流れてくる。 寄稿者がだれもいなくても、 自分で投稿すればいい。 あたかも他人のように、 おれがもうひとり別にいるかのように感じられて心強い。 おっ杜昌彦の新作かってなるわけですよ、 唯一の読者であるところのおれがね。 おれにはそういうのが必要だ。 ソーシャルな交流じゃなくてさ。 おれがおれであることで罰されるのではなく、 おれであることに安心していられる。 いわば自分の体臭を嗅いで安心する変態みたいなもんだよ。
Twitter やはてブを眺める。 そこではいつもおまつりだ。 火のないところに煙を立てて業務を妨害し、 今後この国で支援事業をおこなうのを困難にしたひとびとを眺める。 人権や民主主義の概念がこれだけ憎まれるようになったのは教育の失敗だ。 人権や民主主義を国民が知るようになれば権力には都合が悪い。 だからこそそのような教育が行われてきた。 でもこの国は一度それで滅びたのだ。 かつて角川源義が書いたように、 そうなるのを防いだり、 そうなったとき抗うのが出版の役割なはずで、 それをしてこず、 権力におもねるばかりだった出版業のひとたちは反省すべきじゃないのか。 そうは思うけれど、 かれらにはむりだろうなとも思う。 あの名文もかなり前に削除されたしね。
「自分を傷つけないことが保証されている小説しか読みたくない」 って意見、 それ小説ってもんのアイデンティティ全否定じゃんと思ったのだけれど、 でもたぶん、 いまの読者の総意を代弁した声だろうなって気がする。 感情を動かされることをかれらはきらう。 それは攻撃的なものと見なされる。 読む前後で何も変えられない小説しか、 いまのこの国では許されない。 権力が国民をそのように調教してきたからだ。 都合の悪いものをひたすら排除してきた結果、 そうなった。
いまの子どもたちは海外文学を教わらないし、 学校図書館の予算はおそらく年々減らされている。 世界で大ヒットした映画の興行成績が日本でだけぱっとしないのも、 そのせいだと思う (米国の価値観が全世界で通用するのもおかしな話なんで、 それ自体は別にいいのだけれど)。 子どもたちは 「読む」 技術が未発達のまま成人する。 論理的な思考も、 欺瞞を読み解くこともできないまま。 意味を考えることもない。 狭い視野を全世界とする内向きの意識のまま。 そのようにしてひとびとは異質なもの、 感情や価値観を揺すぶるものを憎むようになる。 権力に与えられたものこそが絶対の正義で、 反するものや異なる視点は 「攻撃的で怖い」 とされ、 憎まれ、 蔑まれ、 排除される。 そうした動きに出版は抗わねばならなかったのに、 おもねるばかりだった。 それがいまのこの国をつくった。 権力を礼賛し、 人権を憎む社会のできあがり。 新しい戦前をつくりだしたのは出版業界だよ。
そんな時代に小説を書いても貶められるだけだ。 おれはもう殴られたくない。 ファー付きフードの M51 とバラ色のシャツを着て笑っていたい、 ひとりでね。 そのために epub やプリントオンデマンドでサミズダートするよ。 原稿は燃えない、 というのは嘘だけれど、 おれは 『GONZO』 を燃やせなかった。 『ぼっちの帝国』 を読んでくれとおまつりの街で口走った。 まったく浅ましいね。 どうなってんかな、 三つから進歩なし。