オネオンタ・アベニューの一軒家。窓のない、閉ざされた部屋には厚手の手袋とゴム製エプロン、ウェーブがかったブロンドの髪が落下することを防ぐためのビニールを頭に装着したジャッキーが現像タンク内のリールに真っ暗な潜像状態のフィルムを巻き付け、現像液、停止液、定着液の順にタンクに入れていく。タンク内を攪はんさせたジャッキーはフィルムをとり出し、水で洗い流していく。表面に感光材が塗られたフィルムに光を通すことで記憶を実体化させたジャッキーは小さくため息をつくと、鳴り響いている受話器を手にとった。
「何の用? 今、忙しいの」
─ ジャッキー、あなたに話したいことがあって。
「その声、クロエね?」
─ えぇ。
「悪い男に騙された? いつだって、男は女を騙すものよ」
─ ジャッキーは?
「あたしは別。スタジオで待っていて頂戴」
 受話器を置いたジャッキーは手袋とエプロンを壁にかけ、部屋を出た。デニム・ジーンズに黒いタートルネック姿で廊下を歩くジャッキーはニューヨークの王、アンディ・ウォーホルのスタジオ、ファクトリーに出入りすることが許された人物である。ジャッキーはマサチューセッツ州ケンブリッジで、文化的にも宗教的にも厳格な両親の下で生まれた。愛ではなく、規律ばかりを押し付けられたジャッキーは一七歳になると化粧をし、ブロンドのかつらをかぶってニューヨークに向かった。
ジャック・トレモンド。ジャッキーは生物学的に男であるものの、シェイプされた肉体は筋肉が注意深く削ぎ落されており、鍛え上げられた日本刀のようにしなやかである。ジャッキーはニューヨークでショウ・ガールたちの衣装を手掛け、ミニコミに記事を書き、給仕係、他にも様々な下働きを経験して磨き上げられた。
ジャッキーがドアを開け、自身の聖域である純白のスクリーンが垂れ下がったスタジオに入ると、袖にボリュームがあるパフスリーブ、ビジューのネックレスをつけたクロエが立っていた。腰に手をやったジャッキーが「まぁまぁね」と言うと、クロエははにかんだように笑った。
「ジャッキーはいつも厳しい」
「甘い言葉だけじゃあ、成長できないのよ。立ち話もなんだし、座って」
 クロエが三本足の丸椅子に腰を下ろし、ジャッキーはコーヒー・マシンのボタンを押した。マシンが唸り、カップに現像液のような色の液体を落とした。ジャッキーがカップを渡すと、クロエが礼を言った。ジャッキーはカップを片手に細長い紙巻煙草に火を点けた。
「それで、どうしたの? トラブル?」
「そう。でも、良いほう」
 眉間に皺を寄せたジャッキーが「どういう意味?」と尋ね、クロエがコーヒーを啜った。
「美味しい」
「ただの機械よ。いつも同じ味だから、あまり使っていない。飽きちゃうのね。つまるところ、刺激に乏しい」
「ジャッキーほど刺激的な人は、そんなにいない」
 肩を竦めたジャッキーが「なんでも屋のおかまは少ないでしょうね」と言った。クロエは大きく息を吐き、意を決したように目を見開く。
「決まったの」
「何が?」
「映画のオーディションに合格したの。撮影は来月から」
 咳払いしたジャッキーがテーブルにコーヒーを置き
「すごいじゃない。あなたは夢を掴んだ。もっと胸を張って喜びなさい」
 両手でカップを持つクロエの指は僅かに震えていた。
「自信がないの」
「オーディションを受けた時の自信はどこにやったのかしらね」
「遠くに行ったみたい。なんだか、不安になった。いきなり上手くいくなんて、きっと、悪いことの前触れなんじゃないかって」
「良いことの後には、悪いことが起きるなんていうのは迷信よ。いいこと、クロエ。悪いことはいつでも起きている。いつも通り過ごしているから、そう感じないだけ。そんなことにあなたの人生を空費しないで欲しい。あなたの人生はいつだって、あなただけのもの。あなたの人生の手綱を引くのは、いつだってあなたであるべきなの。だから、悪いことなんかに引っ張られては駄目。あなたは努力をして、チャンスを掴んだ。だから、今度はチャンスを引っ張り回してやるのよ」
「私にできるかしら?」
「できるわ。断言する」
「努力はする」
 大袈裟に手をヒラつかせたジャッキーが「それじゃあ、駄目よ。あなたはなんのためにここまで来たの? 次のステップに行くためでしょ? 踏み込むべき時には躊躇せずに。遠慮なんていらない」と言った。クロエは天井から垂れ下がる真っ白のスクリーンを見ながら口を開く。
「初めてジャッキーに写真を撮ってもらった日、私、何もできなくて、その場で泣いた。覚えてる?」
「もう帰ると喚いたわね」
「自分には何もないって。何もできないんだって思ったの。でも、ジャッキーが初めからできる人はいないからって。それから、その日一日中、付き合ってくれた」
 ジャッキーは椅子に腰を下ろすと灰皿に頭を垂れた灰を折った。僅かに開いた窓から入った風が純白のスクリーンを揺らす。クロエがコーヒーを啜り、ビジューのネックレス、大きな模造品が淡い光を放った。クロエは笑みを浮かべ、小ぶりな犬歯を見せた。
「泣き言はもう終わりにする」
「それがいいわ」
 ジャッキーは人差し指を突き立て、口を開く。
「これからハリウッドで仕事をするのに、少しだけお小言を言わせて頂戴。仕事はいつも全力で。でも、だからといってプロデューサーや監督、要するに肩書を振りかざすような奴らから呼び出されても、絶対にホテルの部屋に行かないで。それはあなたのキャリアに必要ないことだから。いいこと? もし、何かあって困ったことがあったら、あたしに相談して頂戴。いい弁護士を紹介するわ」
 クロエがうなずき、目からリゾチームを含んだ体液が流れ落ちた。クロエは手で顔を拭うと
「化粧が落ちちゃう」と言って笑い、コーヒーを飲み干した。立ち上がったジャッキーがクロエの肩を抱いた。


作家、ジャズピアニスト、画家。同人誌サークル「ロクス・ソルス」主催者。代表作『暈』『コロナの時代の愛』など。『☆』は人格OverDrive誌上での連載完結後、一部で熱狂的な支持を得た。

連載目次


  1. 星条旗
  2. テキサス人
  3. 保釈保証書不要につき
  4. バロース社製電動タイプ前にて
  5. アスク・ミー・ナウ
  6. ユートピアを求めて
  7. ヴェクサシオン
  8. フィジカル
  9. バロース社製電動タイプ前にて ~テイクⅡ
  10. ジェリーとルーシー
  11. プレイヤー・レコード
  12. イースタン・タウンシップから遠く離れて
  13. エル・マニフィカ ~仮面の記憶
  14. バロース社製電動タイプの前で ~テイクⅢ
  15. 炸裂する蛾、網を張る蜘蛛
  16. 窓の未来
  17. セックス・アフター・シガレット
  18. バロース社製電動タイプ前にて ~テイクⅣ
  19. アタリ
  20. 小カンタベリー、五人の愉快な火かき棒
  21. 回遊する熱的死
  22. 顔のないリヴ・リンデランド
  23. 有情無情の歌
  24. ローラースケーティング・ワルツ
  25. 永久機関
  26. エル・リオ・エテルノ
  27. バトル・オブ・ニンジャ
  28. 負け犬の木の下で
  29. バロース社製電動タイプ前にて ~テイクⅤ
  30. エアメール・スペシャル
  31. チープ・トーク
  32. ローリング・ランドロマット
  33. 明暗法
  34. オニカマス
  35. エル・マニフィカ ~憂鬱な仮面
  36. ニンジャ! 光を掴め
  37. バスを待ちながら
  38. チープ・トーク ~テイクⅡ
  39. ブルックリンは眠らない
  40. しこり
  41. ペーパーナイフの切れ味
  42. 緑の取引
  43. 天使の分け前
  44. あなたがここにいてほしい
  45. 発火点
  46. プリズム大行進
  47. ソムニフェルムの目覚め
  48. テイク・ミー・ホーム
  49. オン・ザ・コーナー ~劇殺! レスリングVSニンジャ・カラテ
  50. 血の結紮(けっさつ)
  51. 運命の交差点
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