いや、 もうまじで Fediverse、 ひとが増えてる印象があるよ。 数年前、 ポルトガルのヒューゴさんに前のサーバを建ててもらったときには静かなもんだったぜ。 そのサーバは版元のコミュニティにするつもりだった。 だれも参加しないんで結局はおひとりさま専用になっちゃったけど。 サイト自体に BuddyPress でコミュニティ機能をもたせたこともある。 やっぱり利用されなかったし、 分けたほうがいいと感じたから、 もうやらない。 今回は自分で建てたんで、 作家や読者にセキュリティを保証する自信がなくて、 需要があろうとなかろうと、 最初からおひとりさま専用でやっている。 そんなやつが増えてきたのがおもしろくないのか、 社会的に成功したコピーライターが 「うまくいかなかった」 ひとたちをばかにしていた。 うまくいかなくて結構だ。 「贅沢は敵だ」 や 「欲しがりません勝つまでは」 はじつに 「うまくいった」 宣伝文だよね。 どうか勝手にうまくいってください。 頼むから巻き込まないで。 権力ってものは、 都合のいいものの表示機会を増やして被言及性を高め、 あたかも価値であるかに見せかけて、 従うよう強要する。 そんなのに媚びておこぼれにあずかり、 何者かになったところで嬉しくない。 人権と民主主義は 「うまくいかない」 ことをめざし、 教育は 「うまくいった」 の偽善を明らかにする。 そして出版や小説のめざすところは 「うまくいった」 の偽善を暴き、 「うまくいかない」 価値を伝えることだ。 まぁ全力で媚びたところでおれは 「うまくいかない」 んだけどね。
どんなサイトも見せたいものを見せてるんだってこと、 自分でやってないとわからないものなのかもしれないね。 だから見せられたものを全世界と思いこみ、 誘導された先を権威として信じちゃう。 ロシア人にとってのテレビもおなじ。 搾取を前提として成り立つ社会は、 いいことのように見せかけることでその構造が再生産され、 強化される。 搾取する側もされる側も、 学習してそういうものだと信じ込む。 日本の大規模サーバと連合するとペド画像が流れてくるからブロックされるのに、 日本人はみんな 「なんで?」 ってきょとんとしている。 搾取を当たり前とする価値観が公に表示されることに、 だれも疑問をもたない。 他人の足は踏まれて当然というか、 踏まれるのが常識だと思っているし、 踏まずに立つ発想がそもそもない。 踏まずに立つ方法を知らないので、 足をよけられたら立つ権利を奪われたかのように感じる。 だから人権のことを指摘されると、 血相を変えて暴れだす。 玩具を取り上げられた子どもみたいにね。 もちろん娯楽もそうした構造に組み込まれている。 それに抗うには、 もっとましな娯楽を公に表示させることなのだけれど⋯⋯。 そのために既存の権力に媚びるか、 新たな場をつくりだすか。
とはいえ、 出版 (Publish。 おれは書いたものを公開するくらいの意味でこの言葉を使っている) ツールとして Fediverse を使うのに、 わざわざ営利プラットフォームを理由にしなくてもいいよな。 生煮えの思考を自由に垂れ流せる。 好みで調整して、 自分で管理できる。 そういう道具をおれは求めていて、 それだけが動機だ。 前のサーバでは 「削除して編集して再投稿」 はできたけど、 じかに編集することはできなかった。 それができるようになったのは嬉しい。 でもいったん配送された先では、 直す前の文章で読まれるから、 あまり意味がない。 そのあたりはメールや RSS みたいで不自由に感じる。 というか、 よそに配信されるって考えがそもそも気に食わない。 見た目や使い勝手をコントロールしたいんだ。 おれが見ているのとおなじによそでも表示させたい。 であれば自前のサイトでやるべきだろう。 おひとりさま BuddyPress は何度か試した。 大勢で使う前提のしくみだからか、 使い勝手がしっくりこなかった。 Mastodon は最初からおひとりさま専用にできるのがいい。 それをいえば microblog.pub あたりがいいのかもね。 GoToSocial ってのにも興味がある。 知識と技術があればよそと通信する機能のない、 「生煮え思考の垂れ流し」 に特化した道具をつくる。 それができないんで、 既存の何かを調整して使うんだけど、 ちょっと突っ込んだことやろうとすると壁にぶち当たる。 たとえば文字制限は緩められたけどファビコンは変えられなかった。 なんか権限がないっていわれちゃうんだよな。 おなじ理由で約味フォントでの字詰めもできなかった。 たぶん基本的な知識があれば、 なんてことのない作業なんだろうけど。
交流なんてもの抜きに、 みんなが好き勝手に長文でひとりごとを書くのがいいんだよ⋯⋯評価とか価値なんてものに関係なく、 こっそり読ませてもらうのがさ。 ひとさまの人生を垣間見せてもらって、 経験や感じたことをお裾分けしてもらう。 そういうのを静かに楽しみたいだけなんだ。 Twitter もかつてはそのように使えた。 変わったのは震災後。 スマートフォンの普及と同時だった。 それまではパソコンとガラケーでやっていた。 たとえば漫画なんかだと、 描かれた携帯で 2011 年より前の作品だってわかるくらい、 明確にあのときを境に変わった。 そうしてアルゴリズムが人間を値付けするようになった。 プラットフォームを儲からせる人間に価値があることになった。 掌中の端末でインターネットにつながることで、 ひとびとが権力に支配される。 そんな 「未来」 をピンチョンが書いていたね。 とりあえず Fediverse はいまんとこ、 まだそんな風にはなっていない。 既存のプラットフォームで価値が高いと見なされている有名人が、 ただの一般人になって、 ひとりひとりの価値が認められるようになればいいんだけど。 でもたぶん、 そうはならないだろうな。
サーバごとに演じる人格を変えるって投稿をいくつか見かけた。 おひとりさまだったら維持費すごくかかるよね⋯⋯なんでそんなことするんだろ。 それだけ他人に合わせるのを重視するひとなんだろな。 「空気」 で自分がだれであるかが決まる、 そういう社会であり、 ひとなんだろう。 他人の建てたサーバを好むひとも多いみたいだし、 やっぱり日本人は所属するのが好きなんだろな。 他人がそいつの都合で見せたいものを見せたいように見せる場所で、 人柄を最適化するために演じ分けたり、 拡散したりされたりしようとするのは、 別に Fediverse でまでやらなくても⋯⋯と感じる。 権力への媚に見えちゃうんだよね。 まぁ他人の勝手なんだけどさ。 かといって自由なソフトウェアにもまた別のリスクがある。 若き日のおれは 「企業に××××握られて小説が書けるか!」 と勢い込んだものだけれど、 当時の Linux は日本語環境があまりにお粗末で、 悪戦苦闘したあげく Mac で書くようになった。 要は自由は金で買うしかないんだよな。 売ってるとは限らないし、 就労機会も環境に左右される。 だから結局は持ってるやつがさらにいい思いをし、 持ってないやつは権力に媚びるしかない。 そして媚びたところでいい目を見るのは、 もともと持っているやつだけだ。 かれらは生まれながらに権力の都合に最適化されている。 他人の足を踏みつける側にね。 Fediverse も結局は声のでかいひとの世界なんかな。 だとしたら鎖国でいいや。
ダニエル・クレイグとヒュー・グラントが同棲している映画をみるために Netflix に加入したら 「ウェンズデーを最後まで観よう」 なるメールが届いた。 うっせえな、 つまらなかったんだよ、 ほっといてくれよと思った。 おれは観たいときに観たいものを観たいんだよ⋯⋯。 あの手の権利商売はどれも 「いまは見せて (聴かせて) やってもいい、 ありがたく思え」 みたいな尊大な態度で、 いらないものを押しつけてくる。 正直わずらわしい。 使いはじめたころの Spotify はそれなりに関連付けが機能していた。 聴いたものと一応それなりに関わりがあったし、 フォローしたアーティストの新作はちゃんと表示されていた。 三年くらい前から、 かれらの見せたいものしか表示してくれなくなった。 Twitter や Facebook もだいたいおなじころ、 使い勝手に大きな変化があったような記憶がある。 Spotify は iPhone アプリ版にはかろうじて、 フォローしたアーティストの新譜が表示されるので (なるべく利用されないように、 目立たない位置にしぶしぶ表示している印象)、 新譜はそっちで把握するようにした。 新たなものとの出逢いは YouTube で得ている。
Spotify への不満はほかにもあって、 書誌情報じゃなくてなんていうんだろ、 音源の情報がでたらめなところ。 分類や整理もめちゃくちゃ。 たとえばチャーリー・パーカーの怪しげなコンピレーション盤みたいなのがあたかも代表作であるかのように表示されたり、 そのなかに収録された曲が 「チュニジアの夜」 のはずなのに明らかに現代のまったく関係ない音源だったりする。 つい先日リリースされた音源が 1904 年リリースとかになっていたり、 同一アーティストのページが表記のぶれで複数あったり、 有名なアーティストのページに同名の無名アーティストが混入していたり、 離れ小島みたいにアーティストに紐付けられていない音源があったりと、 とにかく雑。 「権利でどう稼ぐか」 の観点しかないから、 こんな UI になるんだと思う。 中央集権ではないオープンソースの民主的なしくみで、 運営者と権利者がちゃんと儲かる何かがあればいいのに。 一定の決まったやりかたで権利者それぞれが音源を管理していて、 そこに再生クライアントが音源を借りに行き、 データは別の書誌情報データベースに取りに行く⋯⋯みたいな。 最終的には再生ツールで 「音楽を聴く」 という体験に統合されて、 利用者に意識されることはないんだけど、 そこに至るまでの各工程は分散されたそれぞれの場所から供給されるような。 しらんけど。
YouTube はそれなりに嗜好を理解してくれて、 おおむね好きなものが表示される。 好みでないものが表示された原因は見当がつくし、 履歴を削除すればだいたい直る。 ここ数年はかれらの収益になるくそみたいな YouTuber 動画を見せたがっているのを強く感じるけれど、 それだって調教の手間を惜しまなければ、 とりあえず耐えられる程度にはなる。 ただそれは嗜好と表示がじかに結びついている YouTube みたいな製品の話で、 おなじ企業がやっていても Google 広告はくそ以下でしかない。 どれだけ手間暇かけて調教してもだめ。 どうも嗜好を学習した先に問題があるようだ。 偏見に基づくステロタイプできわめて雑に分類し、 関連づけているとしか思えない。 結果としてまったく好みではない広告を日々、 見せつけられる。 その点では Facebook は比較的ましだった。 元データは Google から買ってるんだろうから、 利用者の行動を分析して操るのはかれらのほうが上手なんだろうな。 さすが戦争を最大の商品とするだけのことはある。 とはいえ世界中の見知らぬ他人を 「知り合いでしょ」 と見せつけてくるとんちき機能がわずらわしいのと、 UI がどんどん使いにくくなっていくのと、 何より表示が重すぎてイライラするので、 Facebook はあまり見なくなった。 音楽家のファンページを眺めるのが好きだったんだけど。
いちばん関連付けがひどいのは Amazon。 利用者の嗜好をばかにしていることや、 JR 少年を思わせる商売の都合を、 隠そうともしない。 ほんとうに要らない不快な商品ばかりを 「あんたはこれが好きなんだ、 買えよ」 「程度の低いあんたにはこれがお似合いさ」 と押しつけてくる。 Amazon の調教には膨大な手間暇をかけた。 どれだけ努力しても無視されるので、 もうあきらめた。 「なにがなんでも見せたいものだけを見せるぞ」 「意地でも客のニーズは無視するぞ」 「なぜならおまえら客はばかだし、 われわれはばかをだまして儲けたいからな!」 との強い意志を感じる。 不快なものばかり見せつけられて、 好きな本を探すことができない。 自著がゴミみたいな商品と関連づけられるのも困る。 まずもって自著がゴミみたいに見えるし、 ゴミを好む客が寄ってきて、 好みに適合しないので低評価をつけられる。 前回も書いたけど 「本の網」 はそうした関連付けに、 外部から影響を与えたくてやっている。 浜辺で砂糖をまいて海水を甘く変えようとするようなもんだけどね。 だれも信じないと思うけど、 おれは努力するのが好きなんだ。 それで得られるのは価値じゃない。 前にできなかったことができるようになる、 ってこと。 できるようにならなくてもいい。 それだけのことをやったと自分に証明すること。 「努力することができる」 「怠け者の自己愛者じゃない」 と自分に証明すること。 でも、 それだけで書きつづけるのはむずかしいね。 ゴミ扱いされるだけの人生では、 元気がでなくなる。 できたこともできなくなる。 今年はとり戻したいな。 サーバを建てたのもそのためなんだ。