バラクーダ・スカイ

連載第22回: 顔のないリヴ・リンデランド

保安官事務所の留置室で一夜を過ごした一行は保安官事務所を出るなり挨拶もせずに散った。ビーチまで歩いたジェイクは彼を呼び止めた観光客のためにカメラのシャッターを切り、満面の笑みを浮かべた。すまし顔の波が押しては引いていく。トレーラー・ハウスに戻るなり、ジェイクはスチームパンクゴーグルを装着したマネキンの頭に麦わら帽子をのせ、棚を開けて無理数がプリントされた豆スープ缶を手にとった。丸められた白い紙に占拠されたソファに腰を下ろしたジェイクがスープ缶を開ける。ジェイクがねじれたアンテナが伸びるテレビを点けると、映画『フレンチ・コネクション』のパロディドラマ、『バッド・ブー・コネクション』が映し出された。ブラウン管の中ではポパイというあだ名の赤ん坊がジーン・ハックマンに似せた声で吹き替えられており、紙おむつを着用した赤ん坊が元気いっぱいに這い回る。笑みを浮かべたジェイクは着色料で真っ赤に染まったスープに湿気たクラッカーを浸して口に放り込む。『バッド・ブー・コネクション』が終わると、ボウリング場が映り、アナログ合成されたシンセサイザーの安っぽいテーマ曲が流れ出した。そして、デニム生地のショートパンツに国旗がプリントされたビキニ姿の若い女たちが一斉に走り出し、それぞれのレーンで投球を開始する。レーンの先には各国の指導者たちの顔写真が貼られたピンが立っている。指導者たちは現実と同じように意地悪い位置で立っている。油が塗られたレーンの上をボウルが滑り、ボウルはレーンの奥に消えた。
 薄ら笑いを浮かべながら食べ終えたジェイクはスープ缶をゴミ箱に放り投げた。それから、涅槃の境地を目指してソファに横になった。丸めた白い紙が敷かれたソファは白バラのように無垢である。言葉として成立しない非連続の記号の上に寝転がったジェイクは球形サングラスをシャツの胸ポケットに入れ、天井を見つめながら腹を擦った。歯列の隙間からは吐息と共に音節が漏れ出した。
 ジェイクがうたた寝から寝覚めた時、既に陽は傾いており、トレーラー・ハウス内はオレンジ色に染まっていた。ジェイクは花が敷かれた棺のようなソファから起き上がると、狭いトイレに入り、汲み取り式の仄暗い穴に向かって排便した。茶色い吸い取り紙のように硬い紙で尻を拭いたジェイクは胸ポケットからマリファナをとり出し、火をつける。そして、狭苦しいトイレはあっという間にネコの小便、あるいは眠気と啓示をもたらす香りが充満した。ジェイクはドアに貼られたリヴ・リンデランドのポスターに向かって微笑んだ。プレイボーイ誌創刊以来、初めて陰毛を見せたリンデランドは少女のようにあどけない笑みを浮かべているものの、ポスターはブロンドの長い髪と乳房の下側に焦点をあてており、ブロンドの陰毛は慎み深い障害物によって巧みに隠蔽されている。煙を吐き出したジェイクが再びリンデランドに微笑むと、リンデランドの微笑みはコンバットブーツの踵落としで中断された。小さな木片が舞い、顔が吹き飛んだリンデランドのポスターが貼られたドアが蝶番ごと外された。便座に座るジェイクの前に立つのはレザージャケットにレザーパンツ姿の若い女と、ケシが刺繍されたヌーディスーツに身を包んだ男。手をヒラつかせたジェイクが言う。
「使用中だぜ? 漏れそうならビーチにあるトイレを使ってくれよ」
 ヌーディスーツの男はソファに向かってドアを放り投げ、てのひらについた埃をはらうために手を叩いた。
「ルーシー。もう少し綺麗にやれ。このスーツがいくらしたか知っているだろ?」
 ルーシーはブロンドの長い髪を掻き上げ「OK、クソみてぇにダサいジェリー」と言った。ジェリーはジェイクに向かって指を差し
「フライの居場所を言え」
 首を傾げたジェイクが「フライ? それなら、レコードの中にいるぜ。カーティスは最高さ」
「昨日、仲良くポーカーをしていた奴だ。忘れたか?」
「グルーヴィ」
 ジェイクが手をヒラつかせていると、ポケットからとり出したナックルダスターをはめたルーシーの拳がジェイクの鼻先を掠め、ジェイクの二つの穴から血が滴り落ちた。ジェリーは整髪料でテカテカと輝く髪に触れ「思い出したか?」と言った。ジェイクは折れ曲がり、血が噴き出している鼻を親指で戻すと、マリファナを口にくわえて煙を吐き出した。ジェリーは片眉を吊り上げ
「もし、おれがお前なら、さっさとフライの居場所を言う」
「おれと代わるかい?」
「遠慮する」
 ルーシーはソファの上に置かれたドアに飛び乗り、リヴ・リンデランドの裸体をコンバットブーツで踏みつけた。ジェイクが便座から立ち上がると、ルーシーは右足を軸にして体を右方向へと回転させ、ジェイクに背中を見せた状態で軸足を左足に切り替える。ルーシーは体を右方向へ捻りながら右足を振り上げ、コンバットブーツの踵でジェイクの顔を蹴り飛ばした。壁と便座に頭を打ち付けたジェイクの脳内に蚊のような光が点滅した。ジェリーが「もういい、行くぞ」と言うと、ルーシーが
「ぶっ殺そうぜ」
「こんな奴、殺す価値を見つける頃には明日の朝だ。もう充分だ」
 舌打ちしたルーシーが「つまらねぇ」と言った。

 広々とした講義室の黒板にはチョークで光学における偏光を記述、計算するためのジョーンズ計算法が書かれていく。教壇に立つインコヒーレント教授の黒縁眼鏡の奥からは斜視の屈折した眼光が放たれる。青年は寝癖で飛び跳ねた焦げ茶色の髪に触れ、非偏光と部分的偏光を取り扱うミュラー計算法が書き記されたノートを見る。まばらな生徒たちは開放的な窓の外か、インコヒーレント教授のもったいぶった動作を退屈そうな顔で見ている。
 青年の隣に音を立てずに男が腰を下ろす。機械油、火薬、汗、煙草、腐乱した水の臭い。深緑のチョッキを着ただけの男は肩から小銃、コルトM一六A一を下げている。青年は黒板を見たまま
「帰って来たんだね。また会えて嬉しい」
 男は汗を拭うように、顔に張り付いた血を拭う。青年は手をヒラつかせ
「一つ質問がある。つまり……死んでみてどうかな? 何か変わった?」
 男は立ち上がり、二乗しても負にしかならない虚数のように消えた。額を撫でた青年が
「答えはない。答えなんかないんだ……」とひとりごちた。

 便座を抱えるようにして目を覚ましたジェイクは頭を振り、無精ひげを撫でると凝固しはじめた血液を手の甲で拭きとった。ジェイクは立ち上がり、ズタズタになったリヴ・リンデランドを惜しむような顔でドアの修理を試みたものの、折れ曲がった蝶番の修理が不可能であることを理解してドアを立て掛けた。ソファに寝転がったジェイクは丸められた紙で鼻の周囲を拭いた。
「答えはない。いつだって、答えなんかない」


作家、ジャズピアニスト、画家。同人誌サークル「ロクス・ソルス」主催者。代表作『暈』『コロナの時代の愛』など。『☆』は人格OverDrive誌上での連載完結後、一部で熱狂的な支持を得た。

連載目次


  1. 星条旗
  2. テキサス人
  3. 保釈保証書不要につき
  4. バロース社製電動タイプ前にて
  5. アスク・ミー・ナウ
  6. ユートピアを求めて
  7. ヴェクサシオン
  8. フィジカル
  9. バロース社製電動タイプ前にて ~テイクⅡ
  10. ジェリーとルーシー
  11. プレイヤー・レコード
  12. イースタン・タウンシップから遠く離れて
  13. エル・マニフィカ ~仮面の記憶
  14. バロース社製電動タイプの前で ~テイクⅢ
  15. 炸裂する蛾、網を張る蜘蛛
  16. 窓の未来
  17. セックス・アフター・シガレット
  18. バロース社製電動タイプ前にて ~テイクⅣ
  19. アタリ
  20. 小カンタベリー、五人の愉快な火かき棒
  21. 回遊する熱的死
  22. 顔のないリヴ・リンデランド
  23. 有情無情の歌
  24. ローラースケーティング・ワルツ
  25. 永久機関
  26. エル・リオ・エテルノ
  27. バトル・オブ・ニンジャ
  28. 負け犬の木の下で
  29. バロース社製電動タイプ前にて ~テイクⅤ
  30. エアメール・スペシャル
  31. チープ・トーク
  32. ローリング・ランドロマット
  33. 明暗法
  34. オニカマス
  35. エル・マニフィカ ~憂鬱な仮面
  36. ニンジャ! 光を掴め
  37. バスを待ちながら
  38. チープ・トーク ~テイクⅡ
  39. ブルックリンは眠らない
  40. しこり
  41. ペーパーナイフの切れ味
  42. 緑の取引
  43. 天使の分け前
  44. あなたがここにいてほしい
  45. 発火点
  46. プリズム大行進
  47. ソムニフェルムの目覚め
  48. テイク・ミー・ホーム
  49. オン・ザ・コーナー ~劇殺! レスリングVSニンジャ・カラテ
  50. 血の結紮(けっさつ)
  51. 運命の交差点
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