テーブルに並ぶのはエビとホタテ、メバルを水とトマト、白ワイン、オリーブオイル、にんにくとパセリで煮込んだアクアパッツァ。耳に似た形のパスタと長時間茹でて潰したブロッコリーを詰めたオレッキエッテ。縮れた栗毛を後ろに縛った女は袖のないスポーツウェアに身を包んでおり、表情筋が動く度に鼻から頬にかけて広がったそばかすが揺れた。この女は南イタリア出身のガエターナ・ヨンメッリといい、カリフォルニアの大学で気候変動によって変化するマイワシの回遊を研究している。人懐っこく、身体を動かすことが好きなヨンメッリは時間を見つけてはデューンズ・パークでフィットネス・エクササイズを指導しているものの、参加者のほとんどはヨンメッリの肢体を眺めることを目的としている。しかしながら、鷹揚で楽天的なヨンメッリは〈それで健康になってくれるならいい〉と考えている。
椅子に深々と腰掛けるトラウトマンはサングラスをシャツの胸ポケットに入れた。ヨンメッリの故郷では伝統的なアッズッロの瞳に彼女が魅かれたのか、それとも、偶然、立ち寄った観賞用海水魚ショップで熱心にアオヒトデの飼育について質問していたトラウトマンに興味を惹かれたのか。ヨンメッリよりも年上のトラウトマンは仕事の話を一切せず、彼女の研究や科学について話すことを好む。椅子を引いたヨンメッリが腰掛けると、トラウトマンは広げた紙ナプキンを太腿に置いた。
口角を吊り上げたトラウトマンが「ご馳走だ」と言った。ヨンメッリは
「さぁ、食べましょう」と言い、アクアパッツァのメバルをナイフで突いた。白い壁に掛けられたベニヤ板、厚塗りされたアクリルガッシュの上に一筆描きされたオイルパステルは布がかけられた裸体を描いている。トラウトマンはオレッキエッテをフォークで突き刺し
「メナシェ・ゴールドバーグ」と言った。ヨンメッリが笑みを浮かべ、そばかすが動いた。
「メナシェを知っているの? 彼、それほど有名じゃないのに」
トウウトマンはオレッキエッテをトマトソースに浸し、口に放った。
「興味、好奇心は重要なものだ。だが、そこばかりに目を奪われると見えなくなる」
「興味がないことに興味を持てっていう意味? 難しいわね。でも、そうするとアートには興味がなかったっていうこと?」
手をヒラつかせたトラウトマンが「壁一面を同じ色に塗ることに興味を持つことは難しい」
「前衛アートは苦手?」
「いいや、エキサイティングだ。エキサイティングついでに一つ話をしよう」
ヨンメッリは火が通って薄っすらと虹色に輝く白身を口に放り「聞かせて」と言った。トラウトマンが言う。
「恐竜よりも前、海を泳ぐナメクジよりも、この星に海と岩しかなかったときよりも前、宇宙は無から生まれた。無については色々と考える奴がいる。ゼロを発見したのはインド人だが、これは妙だ。なぜなら、無を発見することはできないからだ。概念を創作したと考えるほうがいい。宇宙は爆発で生まれ、膨張し続けている。この説は一九二〇年頃に立てられた仮説だ。当時は鼻で笑われただろうが、赤方偏移や宇宙背景放射といった証拠が発見されたことで、そうだろうということになった。ビッグバン……いい響きだが、もう少しマシな言い方があるように思う。今だと安っぽい響きに聞こえるからな。まぁ、それはいい。問題は宇宙の死、終わりについてだ。ガエターナ、宇宙に終わりはあると思うか?」
「そっちは専攻していないの」
「大学なんて忘れろ。思うまま、吹けば消えてしまうようなただのお喋りだ」
「空が萎んでしまうなんて考えたくないわね」
「空が萎めばマイワシは回遊しないだろう。くだらない書類にサインしなくていいのは悪くないが。宇宙の死についてはいくつか仮設がある。一つ目は熱的死。熱は高い温度から低い温度に移動する。逆はない。熱力学第二法則だ。宇宙全体の熱、エネルギーは時間を掛けて均一に近付き、やがて何も起こらなくなる。退屈極まりない状態だ。二つ目は、膨張した宇宙が限界まで膨らみ、風船のように収縮を開始する。新しい形を作る可能性があるから悪くない。三つ目は、加速し、膨張を続けた宇宙を構成するエネルギーが自然界の力を上回って自壊する。しょぼくれた悲観主義者の考えだ。四つ目は宇宙が真空ではなかった場合。たとえば、今、ミード湖が決壊したとしよう。流れ出した三五〇億トンの水がどこに流れ着く? 見当はつかないが、巨大な湿地を作ることは間違いない。それと同じことが宇宙で起きたらどうだ? 新しい宇宙に流れ着くのかも知れないが、すべてが泡のように消える」
「途方もない話ね。でも、私たちのすることは全部が泡みたいものかも」
「ガエターナ、おれはすべてが無駄だと考えない。すべてが終わるから無駄なことだと決めつけて行動する奴は愚かだ。なぜなら、健康、芸術、金儲け……なんでもいい。探求することを放棄した奴は力に欠ける。おれはそういう奴を軽蔑する」
微笑んだヨンメッリが「あなたのそういう熱心なところが好きよ」と言った。
裸でベッドに寝転がるトラウトマンの隣ではヨンメッリが寝息を立てていた。絨毯の上に転がる精液が詰まった萎んだ風船のような避妊具。壁に貼りつけられた海色のポスター。ポスターに細い鉛筆で書き殴られた円はマイワシの回遊を想定している。トラウトマンはヨンメッリの縮れた栗毛を撫で「熱は膨張する」と言って下腹部を撫でた。
連載目次
- 星条旗
- テキサス人
- 保釈保証書不要につき
- バロース社製電動タイプ前にて
- アスク・ミー・ナウ
- ユートピアを求めて
- ヴェクサシオン
- フィジカル
- バロース社製電動タイプ前にて ~テイクⅡ
- ジェリーとルーシー
- プレイヤー・レコード
- イースタン・タウンシップから遠く離れて
- エル・マニフィカ ~仮面の記憶
- バロース社製電動タイプの前で ~テイクⅢ
- 炸裂する蛾、網を張る蜘蛛
- 窓の未来
- セックス・アフター・シガレット
- バロース社製電動タイプ前にて ~テイクⅣ
- アタリ
- 小カンタベリー、五人の愉快な火かき棒
- 回遊する熱的死
- 顔のないリヴ・リンデランド
- 有情無情の歌
- ローラースケーティング・ワルツ
- 永久機関
- エル・リオ・エテルノ
- バトル・オブ・ニンジャ
- 負け犬の木の下で
- バロース社製電動タイプ前にて ~テイクⅤ
- エアメール・スペシャル
- チープ・トーク
- ローリング・ランドロマット
- 明暗法
- オニカマス
- エル・マニフィカ ~憂鬱な仮面
- ニンジャ! 光を掴め
- バスを待ちながら
- チープ・トーク ~テイクⅡ
- ブルックリンは眠らない
- しこり
- ペーパーナイフの切れ味
- 緑の取引
- 天使の分け前
- あなたがここにいてほしい
- 発火点
- プリズム大行進
- ソムニフェルムの目覚め
- テイク・ミー・ホーム
- オン・ザ・コーナー ~劇殺! レスリングVSニンジャ・カラテ
- 血の結紮(けっさつ)
- 運命の交差点