バラクーダ・スカイ

第13話: エル・マニフィカ ~仮面の記憶

Avatar photo書いた人: イシュマエル・ノヴォーク, 投稿日時: 2022.12.21

ジョーイは車庫に停めた一九七〇年製オールズモビル四四二に乗り込んでキーを捻る。そして、エンジンがいななく。ジョーイ・ラブを知っている者は一握りだ。なぜなら、少し前まで、彼は顔を覆面で隠したレスラーだったのだから。レスリングのファンならば、今もジョーイのリング名、エル・マニフィカという名前が記憶の片隅に残っているかも知れない。しかし、全盛期のはちきれんばかりの肉体を記憶しているファンには、今のジョーイは大きいだけの男にしか見えない。
 ジョーイのキャリアは独立系のレスリング団体からはじまった。そこで彼は徹底的にレスリングの基礎を教わった。大柄な身体を見込まれてスカウトされただけのジョーイは、それまでレスリングをしたことがなかった。彼はリングの脇に敷かれた薄いマットの上で受け身を覚えた。覚えなければ脳か頸椎を破壊されるだけだった。ジョーイの初めての試合は酷いものだった。対戦相手のバチーダはジョーイに見せ場など一つも与えず、ひたすら攻撃を繰り返した。その中には、かなり危険な攻撃も含まれていた。試合終了後、彼はシャワーを浴びながら不甲斐ない自分自身に涙した。そして、彼は二度と情けない試合をしないことを心に誓った。次の日からジョーイは変わった。スクワットを三〇〇〇回終えた後、二〇〇キロのベンチプレスを持ち上げ、ジョギングを済ませた後、リングの脇で受け身を練習した。それらは肩から、首から、頭から落とされることを想定したもので、一歩間違えれば即死するようなものだった。仲間たちはジョーイがおかしくなって死にたがっているのだと噂した。一か月ほど受け身を自身の身体に叩き込んだジョーイは二回目の試合に臨んだ。相手は前回と同じバチーダだった。その時のジョーイの身体はパンプアップされた野生のクマのようだった。ゴングが鳴るなり、ジョーイの見た目に気圧されたバチーダがラフファイトを仕掛けた。ジョーイの頬に拳が放たれ、人差し指で目を突かれた。明らかな反則技だったがレフェリーは止めなかった。試合は無効試合だった。ジョーイはまたもシャワー室で悔し涙を流した。ここで、ようやくジョーイはレスリングの本質を理解した。
 ジョーイは投げ技や関節技はもちろんのこと、動き方と歩き方、トップロープからどのようにしたらより大きく見せて飛ぶことができるかを研究した。ラフファイトに対抗するためにも、レスリングでは禁じ手とされる汚いやり方も学んだ。これらは同じ団体の選手たちからは学べないので、空手、柔道、カポエィラといった道場に押しかけて学んだ。
 一年ほど経った時、ジョーイは優れたレスリング選手になっていた。ジミ・ヘンドリックスのブルース『レッドハウス』をバックに入場する歩き方は美しく、顔は真剣そのもの。観客たちに供犠を思い起こさせた。その後、ジョーイはメキシコで試合をするようになった。小柄なメキシコ人たちが身軽さを活かしてリングの上で跳んだり跳ねたりするのを目の当たりにして、彼も真似をするようになった。重量級のジョーイには常に危険が伴っていたが、それらは最初に覚えた受け身によってなんとかなった。この頃からジョーイはリングネームをエル・マニフィカに変えた。名前を変えると同時に、彼の人気はうなぎのぼり。リングネームを変えてから半年後にはWWFのエージェントから電話があり、彼は破格の契約金で移籍した。WWFの興行は金銭力、豊富な選手、観客の熱意、すべてが桁違いだった。彼は歴史に残るような試合を幾度も繰り返し、出演したビデオテープも飛ぶように売れた。使用したマスクは高値で売買が検討されたが、これは断った。ジョーイの人生は絶頂だった。しかしながら、急峻な山の頂が槍のように鋭いように、絶頂はあっという間に過ぎ去る。ある日の試合中、トップロープから飛んだジョーイの腰椎が潰れてしまったのだ。筋肉は鍛えることができたが、骨格は鍛えることができない。それから半年間、ジョーイはベッドの上で過ごした。体重は現役時代に比べて落ちてしまったものの、相変わらず巨漢だった。ジョーイに残ったもの。それは痛みと、エージェントが切った見舞金の小切手だけ。しかし、エル・マニフィカが終わっても、ジョーイの人生は終わらない。

 アイリス通りにオールズモビルを停めたジョーイは、ネイバーズ・マーケットで缶ビールを二本買い、馬車馬のように瞬時に飲み干した。そして、ヘロドトスによって記された、アテナイを除く世界のどこにも存在しないはずのオリーブの木に囲まれた建物に向かった。ロッカールームでは同僚のビッグ・ラッシーが着替えをしていた。ジョーイがロッカーを開けると、ルー・テーズのブロマイドが彼に挨拶をした。グレーのTシャツの上に白いシャツ、真っ黒の蝶ネクタイをしめたジョーイは大人二人が着ることもできる背広に袖を通した。ジョーイのロッカーを盗み見たラッシーが言う。
「まだ、レスラー気分が抜けないのか?」
 ラッシーは縮れて長い髪を輪ゴムで結んだ。ジョーイが仰け反り、骨が軋む音が響いた。
「ルーが今も現役だなんて信じられんよ。おれたちは一週間働いても一〇〇ドルにもならないボーイなのにな」
「ほとんどのレスラーの寿命は短い。別に、おれやお前に限った話じゃない」
「おれはステロイド剤をやらなかった」
「おれだってそうだ」
 ジョーイはロッカーを締め
「ルーだってやっていないだろう。この身体は闘うための身体だ。なのに、おれはこの通り。酔っ払った馬鹿を叩き出すだけ。それも、子供をあやすみたいにして」
「おれたちが本気を出したら二級殺人になる。ムショはご免だね」
「いっそのこと、リングの上で死ねればどれだけ幸せだったかと思わないか? こんな馬鹿馬鹿しい生活じゃない。観客の心に残る、伝説のレスラーとして」
「伝説とやらはテレビじゃあ放送できない」
「戦争はテレビで放送できるのにか?」
「垂れ流したわけじゃない。つまるところ、伝説なんか目指すものじゃないってことさ」
 ラッシーが歩き出すと、ジョーイは七フィート丁度の身体を揺さぶりながらロッカールームを出た。燃えるような真っ赤な髪の女とお喋りしていたクローク係のアマリアは、ジョーイを見るなりお喋りをやめてジョーイに手招きした。すれ違った真っ赤な髪の女は上等な香水の匂いを漂わせていた。アマリアの前に立つジョーイは彼女の露わになっている足を見た。週に一度か二度、クロークルームでセックスする関係のアマリアは背伸びをするとジョーイのカリフラワー耳を甘噛みし、ジョーイが笑みを浮かべた。
「ミスター・ラングーンが呼んでいるから、早く行ったほうがいい」
「終わってからじゃ駄目かい?」
 アマリアはジョーイの耳を一舐めして「また今度ね」と言った。

 VIPルームのドアの前でジョーイは咳払いし、ドアをノックした。ドアの奥からはラングーンの低い声が響いた。ジョーイが部屋に入ると、ソファに深々と腰掛けるラングーンがドミニカ産の薄茶色の葉巻を吸っていた。ジョーイは壁際に立ち、ラングーンの口の隙間から煙が吐き出された。
「ジョーイ・ラブだな?」
「はい、そうです。ミスター・ラングーン」
「腕に自信があるそうじゃないか」
「昔の話です」
「他の奴らに聞いたら、みんながお前の名前を挙げたぞ」
「ミスター・ラングーン。あいつらが言う強さっていうのは、リングの上だけですよ」
「謙遜しなくていい。おれだって、若い頃は喧嘩をした。まぁ、得意だったんだろうな。だから、ここにいる」
「えぇ、そう思います」
 ラングーンは「お世辞はいい」と言って葉巻の灰を折った。
「仕事の話をしよう。今、エボニー・アベニューにレストランをオープンさせようと計画している。地中海風のレストランで、魚介類料理を出す店だ。魚介類は好きか?」
「おれは肉のほうが好きです。ミスター・ラングーン」
「だろうな。だが、客はそうじゃない。商売のコツは客が望むものを嗅ぎ分けて、その通りに出すことだ」
「レスラーも同じです。観客の期待に応えられないレスラーはすぐに廃業します」
「賢いな。身体ばかり鍛える奴は馬鹿が多いが、どうやら、お前はそうじゃないらしい」
「どうでしょうね」
「まぁいい。それで、その計画している場所には、もう別のものがある。こういう時、お前ならどうする?」
 顎を撫でたジョーイが「商売敵なら隣に店を出します。観客は新しいほうが好きですし」と言い、ラングーンは笑みを浮かべた。
「そう、客は新しい店を選ぶ。味は食うまでわからないからな。だが、これはレストランの場合だ」
「それはどういう意味でしょう?」
「そこにあるのがカラテ道場ならどうする?」
「難しい質問です。おれには答えることができません」
「マクマホンの団体に入る前、お前はそういう場所に行ってトレーニングしたと聞いたぞ?」
「えぇ、まぁ」
「そのカラテ道場のオーナーはおかしな奴だ。一ブロック離れたところに新しく道場をオープンさせるだけの金を用意してやると言っているのに、サインしない。なんでも、弱い奴からの意見を聞くつもりがないそうだ。だから、こちらが強いと証明しなくちゃならない。そこでお前だ。お前が勝てば、新しい店をオープンできる。ボーナスをやるし、今よりも給料を上げてやる。どうだ?」
「おれは引退したレスラーです」
「だから何だ? その身体は飾りなのか?」
「ミスター・ラングーン、少し考えさせていただいても?」
「この場で答えろ。おれは暇じゃない。フライが丸焦げにしたクラブの件で、今後の予定まで丸焦げにされたからな。しかも、保険会社は保険金の支払いを拒否している」
 ラングーンは目を細め、不機嫌な顔で喉を鳴らした。
「あの疫病神。テキサスの刑務所で大人しくしているなら目を瞑ってやろうと思っていたのに、これだ。恩知らずっていう言葉はあの野郎のためにある。そう思わないか?」
「恩を仇で返すのは悪いことだと思います」
「お前もそう思うか。気が合うな。ところで、もし、おれがお前にフライを始末しろと言ったら、お前はどうする?」
「おれは人殺しじゃありません」
「まぁ、そうだろうな。そっちはいい。忘れろ。カラテ道場をしっかり潰せ。おれを失望させるな。わかったら、さっさと出て行け」
 追い払われるように部屋を出たジョーイはため息をつき、大きな身体を揺さぶりながら廊下を歩き出した。


作家、ジャズピアニスト、画家。同人誌サークル「ロクス・ソルス」主催者。代表作『暈』『コロナの時代の愛』など。『☆』は人格OverDrive誌上での連載完結後、一部で熱狂的な支持を得た。

連載目次


  1. 星条旗
  2. テキサス人
  3. 保釈保証書不要につき
  4. バロース社製電動タイプ前にて
  5. アスク・ミー・ナウ
  6. ユートピアを求めて
  7. ヴェクサシオン
  8. フィジカル
  9. バロース社製電動タイプ前にて ~テイクⅡ
  10. ジェリーとルーシー
  11. プレイヤー・レコード
  12. イースタン・タウンシップから遠く離れて
  13. エル・マニフィカ ~仮面の記憶
  14. バロース社製電動タイプの前で ~テイクⅢ
  15. 炸裂する蛾、網を張る蜘蛛
  16. 窓の未来
  17. セックス・アフター・シガレット
  18. バロース社製電動タイプ前にて ~テイクⅣ
  19. アタリ
  20. 小カンタベリー、五人の愉快な火かき棒
  21. 回遊する熱的死
  22. 顔のないリヴ・リンデランド
  23. 有情無情の歌
  24. ローラースケーティング・ワルツ
  25. 永久機関
  26. エル・リオ・エテルノ
  27. バトル・オブ・ニンジャ
  28. 負け犬の木の下で
  29. バロース社製電動タイプ前にて ~テイクⅤ
  30. エアメール・スペシャル
  31. チープ・トーク
  32. ローリング・ランドロマット
  33. 明暗法
  34. オニカマス
  35. エル・マニフィカ ~憂鬱な仮面
  36. ニンジャ! 光を掴め
  37. バスを待ちながら
  38. チープ・トーク ~テイクⅡ
  39. ブルックリンは眠らない
  40. しこり
  41. ペーパーナイフの切れ味
  42. 緑の取引
  43. 天使の分け前
  44. あなたがここにいてほしい
  45. 発火点
  46. プリズム大行進
  47. ソムニフェルムの目覚め
  48. テイク・ミー・ホーム
  49. オン・ザ・コーナー ~劇殺! レスリングVSニンジャ・カラテ
  50. 血の結紮(けっさつ)
  51. 運命の交差点
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