バラクーダ・スカイ
第12話: イースタン・タウンシップから遠く離れて
ジェイソンを寝かしつけた私は書斎で仕事のつづきをしている。妻のトニはベランダに置いたプラスチック椅子に腰掛けて音楽を聴いているのだろう、ブラームスの交響曲が聴き取れた。
父がイースタン・タウンシップに遺した別荘は一枚の書類にサインすることで他人の手に渡った。父の顧問弁護士だったコンプソン・インゲマンは、それが当然といった顔をしていたが、そのことを不満に考えることはない。なぜなら、私と父は遠い昔、既にお互いの人生に干渉しないことを選択したのだから。これは決定していたことだった。しかし、トニは私の決断が非情なものと考えている。もしかすると、彼女はメープルシロップやスモークミート、ベーグル、チーズの製造過程で牛乳のタンパク質が固まったチーズカートと肉汁、グレービーソースをかけたフライドポテト、プティーンに憧れていたのかも知れない。
私とトニは結婚するなり、小さな出版社を立ち上げた。小規模な出版社を切り盛りすることは作家になり損ねた人間が夢見る唯一のことだろう。ある意味では、私は夢を叶えたことになる。とはいえ、夢の代償はあまりに大きい。たとえば長期休暇。夢のまた夢だ。
書斎には封筒に入れられたままの原稿が山ほど積まれている。これらは読まれることを望んでおり、目先の成功を望んでいる。あるいは、野望、絶叫のような渇望は生命を得ようとしている。これらは玉石混交だ。ひどい出来のもののほうが多いだろう。トニと結婚するより以前、大手の出版社に勤めていた時代のことを懐かしく思う。忙しかったが、今よりは安定していた時代のことを。
乳白色の受話器が鳴り、ブラームスの交響曲が途切れる。私は受話器を手に取る。
「もしもし?」
─ よぉ、クエンティン。調子はどうだい?
受話器の奥から陽気な声が聞こえた。私はこの声の主を知っている。会った当時と比べれば、まるで変わってしまったが。
「いいよ。それで、今日は何の用なのかな?」
─ この前の電話で頼んだ小切手だが、受け取ったぜ。
「それは良かった」
─ まったくさ。本当に良かった。首の皮一枚だがね。
「前回の電話で君が言っていた次回作の進み具合はどうだい?」
─ クエンティン、焦るなよ。まだだ、まだそこまでじゃない。でも……
「でも?」
─ ここから良くなる。うんと面白くなる。
「書きあがり次第、すぐに連絡して欲しい。何せ、君は数年も音沙汰なかったのだからね」
─ 連絡しなかったことは悪かったと思っているよ。ちょっとばかり現を抜かしていたんだ。
「具体的には?」
─ 一日中、キメていると、時間はあっという間なんだ。試してみるかい?
「遠慮しておくよ」
私は山のように積まれた書類を見る。
「今、進めているものをやり遂げたほうがいい。君は最後まで走り切ることができる。私と違って」
─ グルーヴィ。おれは踊るのが得意だぜ。
「期待している」
受話器を置いた私は封筒からクリップで留められた原稿用紙に目を落とし、ブラームスによる古典的なピアノ協奏曲が聞こえた。
連載目次
- 星条旗
- テキサス人
- 保釈保証書不要につき
- バロース社製電動タイプ前にて
- アスク・ミー・ナウ
- ユートピアを求めて
- ヴェクサシオン
- フィジカル
- バロース社製電動タイプ前にて ~テイクⅡ
- ジェリーとルーシー
- プレイヤー・レコード
- イースタン・タウンシップから遠く離れて
- エル・マニフィカ ~仮面の記憶
- バロース社製電動タイプの前で ~テイクⅢ
- 炸裂する蛾、網を張る蜘蛛
- 窓の未来
- セックス・アフター・シガレット
- バロース社製電動タイプ前にて ~テイクⅣ
- アタリ
- 小カンタベリー、五人の愉快な火かき棒
- 回遊する熱的死
- 顔のないリヴ・リンデランド
- 有情無情の歌
- ローラースケーティング・ワルツ
- 永久機関
- エル・リオ・エテルノ
- バトル・オブ・ニンジャ
- 負け犬の木の下で
- バロース社製電動タイプ前にて ~テイクⅤ
- エアメール・スペシャル
- チープ・トーク
- ローリング・ランドロマット
- 明暗法
- オニカマス
- エル・マニフィカ ~憂鬱な仮面
- ニンジャ! 光を掴め
- バスを待ちながら
- チープ・トーク ~テイクⅡ
- ブルックリンは眠らない
- しこり
- ペーパーナイフの切れ味
- 緑の取引
- 天使の分け前
- あなたがここにいてほしい
- 発火点
- プリズム大行進
- ソムニフェルムの目覚め
- テイク・ミー・ホーム
- オン・ザ・コーナー ~劇殺! レスリングVSニンジャ・カラテ
- 血の結紮(けっさつ)
- 運命の交差点