バラクーダ・スカイ
第8話: フィジカル
トラウトマンが四方をヤシに囲まれたデューンズ・パークの隣にあるフェイ・ラングーンの事務所の前にやって来たのは一七時丁度だった。薄桃色の背広にギリシア神話の神がプリントされたシャツ、ライトカラーのサングラス姿のトラウトマンは階段を上りながらデューンズ・パークでケネス・クーパーによって考案された有酸素運動、エアロビック・エクササイズに興じる健康志向の太った人々を見て、口角を吊り上げた。その中で最も若く、最も派手なウェアに身を包んでいる女はラジオカセットレコーダーから流れるオリヴィア・ニュートン=ジョンの『フィジカル』に合わせて片足を高く上げ、太った人々は糸繰り人形のように足を上げる。トラウトマンはネオン管のようなピンクパープルの夕陽に隠れるように階段を上っていく。トラウトマンが呼び鈴を押すと、ブザー音が響き、のぞき穴が曇った。
「何の用だ?」
手をヒラつかせたトラウトマンが「尻拭いだ」と言い、ドアが開いた。大柄なドアマンが視界を遮った。トラウトマンが「お前に用事を言う義務がない」と言うと、大男は尻のように立派な顎をしゃくって「入れ」と言った。事務所の床には配線がタコのように這い回っていた。受話器を握る男たちは、受話器の奥から聞こえる声に忙しく顔色を変えていく。その様子は色素胞を拡大、縮小させて瞬時に褐色や黄色、赤色に体色を変えるタコと同じである。応接室に通されたトラウトマンはアタッシュケースから封筒をとり出し、事務机の上に封筒を置いた。椅子に深々と腰掛けているラングーンは岩礁のようなあばた面を撫で、封筒から書類を引っ張り出した。英米法に則した法律用語の一切を無視したラングーンは書類にサインを殴り書いた。
「これで終わりか?」とラングーンが言い、トラウトマンはソファに腰を下ろしてゆっくりと口角を吊り上げた。
「ホンキー・ボーイが逃げ出さなければ」
ラングーンは人差し指と中指に葉巻をはさみ、ケンタウロスを模したライターで火を点けた。
「逃げたりしない。次はないからな」
トラウトマンが口笛を吹き、ラングーンは喉を鳴らした。
「話があるんだろう? 先に言っておくが、おれは手一杯だ。知っての通り、この間の件でクラブは全焼。なのに、保険会社は支払いを拒否。それに、サンディエゴの再開発の件じゃあ、土壇場で入札をひっくり返された。連中には金を渡して、さんざんいい思いをさせたのにだ。まったく、仁義ってものがあるだろうに」
言い終えたラングーンが口から煙を吐き出した。トラウトマンは葉巻の赤黒い先端を眺めながら
「生存競争に勝つのは最も環境に適応したやつだ」と言った。
「なんの話だ?」
「ダーウィンということになっているが、実際は経営学者のメギンソンが言った言葉だ」
「おちょくっているのか?」
「いいや。本題に入ろう。ジム・フライが帰って来た」
ラングーンは机を殴り「どうして、電話で言わなかった? そういうことはすぐに言うものだろう」
「おれの口から言いたかった。どの道、あいつが帰って来ることは、わかっていた」
「なぜわかる? お前がゼラと寝ているからか?」
「二、三回、寝ただけだ。数のうちに入らない」
口から灰色の煙を吐き出したラングーンが「馬鹿が恨むには十分な理由だな」
「あいつはおれを殺さない。その証拠は、殺したい奴からは金を借りない」
「金を借りに来たのか? 見上げた、底が抜けた……とんでもない馬鹿だ。それで、お前は金を貸したのか?」
「靴下代をくれてやった」
「あいつの女房と寝た慰謝料の間違いだろう?」
手をヒラつかせたトラウトマンが「あんな靴下を履いている奴を見れば、誰だって金をくれてやりたくなる」と言うと、ラングーンは大きなため息をついた。
「フライは始末する。こういう時のためにホンキー・ボーイを雇っているんだからな。それで、ゼラの住所は教えたのか?」
「そこまで聞かれなかった」
「聞かれたら、言うつもりだったんだろう?」
「善良な市民だからな」
「まぁ、いい。フライから搾り取れるものは何もないが、何事もケジメは必要だ。まったく、金の回収をさせるためにテキサスに行かせれば、厄介事を起こした挙句、肝心要の金を回収することもできない。帰ってくれば、腹いせにおれのクラブに火を点けやがった。恩知らずのド畜生だ」
ラングーンが灰皿で葉巻を揉み消し、折れ曲がった葉巻から弱々しい煙が立ち上った。トラウトマンは煙を避けるようにソファから立ち上がった。
「ホンキー・ボーイに仕事をさせるつもりなら、保釈保証書が必要ない奴にしてくれ」
「丁度、イキがいいのがいる」
「生き残るような奴は厄介だ」
鼻で笑ったラングーンが言う。
「初めて、お前がここに来た日のことを覚えているか? 全身にボルトが埋め込まれているのに、松葉杖で器用に階段を上ってきた。便所虫みたいにな。開口一番、お前は自分が優秀で、金を搔き集めることで右に出る奴はいないと豪語した。面白いと思ったから、おれはお前に力を貸してやることにした。フランスの件じゃあ」
トラウトマンは言葉を遮るように手をヒラつかせ「だからこそ、おれに出資したあんたを儲けさせている」
ラングーンは笑みを浮かべ「いい心掛けだ。再開発の件もお前に任せるべきだった」
「軍人は手に負えない」
「軍人の金はどこからくる? 税金だ。自分のポケットが痛まない以上、目くじらを立ててくることもない。むしろ扱いやすい。英雄だ、愛国者だとおだてていればいいんだからな」
「扱いやすいなら、上手くいった」
ラングーンが舌打ちし、トラウトマンが口角を吊り上げた。
「もっと、金を集めるんだ。いいな?」
手をヒラつかせたトラウトマンは応接室を出た。そして、振り返ることなく騒々しい廊下を歩いて事務所を出た。階段を下りながらトラウトマンはデューンズ・パークの一角でエアロビック・エクササイズに興じている人々を見下ろし、大きく開いた両足を地面に擦り付けている若い女に向かって手を振った。
応接室で新たな葉巻に火を点けたラングーンは地肌が剥き出した頭皮を撫でると受話器を手にとり、ダイヤルを回した。
「ジェリーか? 仕事をやる。まずは、おれの事務所に来い。質問? そんなものはここでいくらでも答えてやる。さっさと来い」
連載目次
- 星条旗
- テキサス人
- 保釈保証書不要につき
- バロース社製電動タイプ前にて
- アスク・ミー・ナウ
- ユートピアを求めて
- ヴェクサシオン
- フィジカル
- バロース社製電動タイプ前にて ~テイクⅡ
- ジェリーとルーシー
- プレイヤー・レコード
- イースタン・タウンシップから遠く離れて
- エル・マニフィカ ~仮面の記憶
- バロース社製電動タイプの前で ~テイクⅢ
- 炸裂する蛾、網を張る蜘蛛
- 窓の未来
- セックス・アフター・シガレット
- バロース社製電動タイプ前にて ~テイクⅣ
- アタリ
- 小カンタベリー、五人の愉快な火かき棒
- 回遊する熱的死
- 顔のないリヴ・リンデランド
- 有情無情の歌
- ローラースケーティング・ワルツ
- 永久機関
- エル・リオ・エテルノ
- バトル・オブ・ニンジャ
- 負け犬の木の下で
- バロース社製電動タイプ前にて ~テイクⅤ
- エアメール・スペシャル
- チープ・トーク
- ローリング・ランドロマット
- 明暗法
- オニカマス
- エル・マニフィカ ~憂鬱な仮面
- ニンジャ! 光を掴め
- バスを待ちながら
- チープ・トーク ~テイクⅡ
- ブルックリンは眠らない
- しこり
- ペーパーナイフの切れ味
- 緑の取引
- 天使の分け前
- あなたがここにいてほしい
- 発火点
- プリズム大行進
- ソムニフェルムの目覚め
- テイク・ミー・ホーム
- オン・ザ・コーナー ~劇殺! レスリングVSニンジャ・カラテ
- 血の結紮(けっさつ)
- 運命の交差点