バラクーダ・スカイ

第7話: ヴェクサシオン

Avatar photo書いた人: イシュマエル・ノヴォーク, 投稿日時: 2022.12.15

七五号線、エミールはサウス・サンディエゴの手前でハンドルを切ってピックアップトラックを停止させた。エミールは白いカウボーイハットを脱ぎ、助手席に置いた制帽をかぶってつばを撫でた。自動車を降りたエミールは季節外れのアカシアの黄色い花を見る。アカシアの枝先には〈東は東、西は西〉のラドヤード・キップリングによって記された『ジャングル・ブック』にちなむ、鮮やかな色合いをしたバギーラ・キプリンギ。バギーラ・キプリンギはクロヒョウのように素早く動き回っている。アカシアと共生関係にあるアカシアアリは、厄介者であるバギーラ・キプリンギを追い回すものの、俊敏な動きについて行けず、バギーラ・キプリンギは目的であるアカシアの葉の先端に辿り着く。そして、粒状の脂肪とたんぱく質の塊に歯を立てた。
 歩き出したエミールは薄茶色をした三階建ての保安官事務所に入った。エミールが受付に向かうと、制服姿の男が「何か御用ですか?」と尋ね、エミールは腰に装着したバッヂを指差し
「エルパソから来たエミール・バーリングだ」と答えた。
「お話はうかがっています。そちらの階段から二階のワイズマン保安官の部屋に進んでください」
 制帽のつばを撫でたエミールが礼を言って、奥にある階段に進んだ。〈C・ワイズマン〉というプレートが取り付けられたドアをノックすると「どうぞ」という声が聞こえたので、エミールはドアノブを捻って部屋に入った。部屋は保安官一人に割り当てられるにしては広々としているものの、壁には写真も地図も貼られておらず、閑散としていた。男の焦げ茶色のネクタイ、砂漠色のシャツの襟には保安官であることの証明、五つ星が輝いている。椅子から立ち上がった男が笑みを浮かべた。柔和な笑みだった。男は「保安官のチャック・ワイズマン」と言って手を差し出し、名乗ったエミールがワイズマンの手を握った。ワイズマンの手は小さく華奢だった。ワイズマンが
「立ち話もなんだし、掛けて」と言い、エミールはソファに腰を下ろした。ワイズマンが言う。
「はるばる、ご苦労様」
 エミールは制帽を脱ぐとソファのひじ掛けに置き、黒々とした髪を後ろに撫でた。
「ジム・フライについて、わかっていることを教えてくれ」
「気が早いね。それとも、仕事熱心と言うべきかな?」
 エミールが手をヒラつかせると、ワイズマンは顔を顰めた。
「そんなに急がなくても、彼は逃げないよ」
「逃亡中なのにか?」
「そう、逃げている。でも、行く場所は一つしかない」
「元女房のところか?」
「そう。住所はドナックス・アベニュー九二六。郵便局の前にあるアパートの部屋。部屋番号は二〇二。二階建ての白いアパート。凶悪犯のジム・フライは元妻の通報で逮捕された。まるで〈大鹿マロイ〉みたいに」
 エミールが肩を竦める。ワイズマンが言う。
「チャンドラーが好きなんだ。でも、あの手の小説にありがちな意地悪な警察官という像はいただけないね」
 エミールがシャツの胸ポケットから煙草の箱をとり出すと、ワイズマンは首を横に振って「ここは禁煙だよ」と言ったので、エミールは煙草の箱を胸ポケットに戻した。
「今現在、三交代で元妻のミス・ドミトリクを監視している。ジム・フライがミス・ドミトリクの前に姿を見せれば終わりだよ。その前におしまいかも知れないけれどね」
「というと?」
 目を細めたワイズマンは「調書は読んだかい?」と尋ね、エミールが「車の中にある」と答えた。
「ジム・フライはフェイ・ラングーンの下で働いていたんだけど、こともあろうに、彼はラングーンのナイトクラブを全焼させたんだ。だから、ぼくたちが彼を捕まえる前に処理されてしまうかも知れない。要するに、彼は八方ふさがり」
「追い詰められた奴は何をするかわからない。そもそも、国境を越えたかも知れない」
「追い詰められて何かされるのは困るけれど、メキシコに犯罪者が増えたからって、憂慮すべきことじゃないよ。あそこは国ぐるみで犯罪をやっているようなものだし」
「すべてのメキシコ人がドラッグを売っているわけじゃない。腐敗が問題なんだ」
 肩をすくめたワイズマンが「国境地帯の保安官は真面目だ」と言い、エミールは顔を曇らせた。
「おれは保安官代理だ。ここだってティフアナが目と鼻。他人事じゃない」
「まぁ、そうだね。でも、サンディエゴに来るメキシコ人と砂漠を越えるメキシコ人は性質が違う」
「違いなんてない」
 ワイズマンは口笛を一吹きし
「国境談義はこれぐらいにしよう。バーリング保安官代理には明日から張り込みをお願いしたいけれど、それでいいかい?」
「元女房のか?」
「それ以外に手の打ちようがないんだ。ここの保安官は多くないからね」
「ドミトリーとかいう女が住むアパートの前で待つだけか?」
窘めるような口ぶりでワイズマンが「ゼラ・ドミトリク。ミス・ドミトリクだよ」と言った。喉を鳴らしたエミールが制帽をかぶった。
「明日の朝にここに来ればいいか?」
「そうしてくれると助かる。八時に来て」
 エミールはソファから立ち上がり
「下で電話を借りたい」
 両肩を大袈裟に竦めたワイズマンが「構わないよ」と言った。

 エミールが階段を下り、受付に向かうと受付係が怪訝な顔をした。エミールが
「電話を借りる。ワイズマンには話を通してある」と言うと、受付係はダイヤルフォンをデスクに置いた。受話器を手にとったエミールがダイヤルを回す。数秒の信号音の後にガチャリという音が聞こえた。

─ もしもし?
「エリか? おれだ。リロイはいるか?」
─ 今、何時だと思っているの? 学校よ。
「じゃあ、どうしてお前が家にいるんだ? 仕事はどうした?」
─ 私に難癖をつけたくて電話したの?
「違う。日曜日のことをおれの口から言いたかったんだ」
─ もう言った。
「どうだった?」
─ リロイは責めたりしない。彼は大人よ。何かある度に突っかかってくるあなたよりもね。
「悪いとは思っている」
 電話線の中をエリの大きなため息がダラスからサンディエゴまで駆ける。
─ リロイは夕方から習い事に行くから、明日、二〇時にもう一度電話して。
「わかった。必ず電話する」

 エミールが受付係にダイヤルフォンを返すと、受付係は受話器をピアノ拭き用クロスで拭いた。制帽のつばを撫でたエミールが「また、明日」と言って、事務所を出た。
 アカシアの枝の上ではアカシアアリが忙しなく歩き回っていた。枝から枝へと素早く飛び回るパギーラ・キプリンギは緑色に輝いている。ピックアップトラックに乗り込んだエミールは制帽を脱ぎ、助手席に置いてある白いカウボーイハットに手を伸ばしてアクセルを踏んだ。

 エミールはフロリダ通りのモーテルの前で自動車を停めた。モーテルの前には銀色のメルセデスが停まっている。舌打ちしたエミールは自動車から降りてモーテルに向かった。モーテルのガラスドアを押すと、ドアの上部から垂れ下がったベルが鳴り、カウンターの奥で新聞を読んでいた男が下顎にある吹き出物を撫でながら二つに折った新聞をカウンターに置いた。男はエミールを品定めするような目で見た。
「保安官が何の用かね?」
「空いている部屋はあるか?」
「そりゃあ、あるさ。ここはモーテルだ。部屋のないモーテルなんてモーテルじゃない」
 カウボーイハットのつばを撫でたエミールが「それじゃあ、部屋を貸してくれ」
「一泊? それとも、二泊にするかい?」
「何日になるかはわからない」
 男が吹き出物を押し、白い膿が飛び出した。
「一週間分を前払い。あとで短くなったからといっても割引なし。嫌なら他をあたってくれ」
「それで構わない」
「部屋は一〇三。真っ直ぐ行った三つ目の部屋だ」
 男は後ろに掛けられていた鍵を掴んでカウンターに置いた。支払いを済ませたエミールはピックアップトラックに戻り、助手席に置かれた制帽と服が詰め込まれた鞄を掴んだ。一〇三号室に入るなり、エミールは制帽をベッドに放り投げた。それから、部屋に備えられた金庫にバッヂをしまい、鞄からジーンズと白いシャツをとり出して着替えた。鏡に映るエミールの姿は、今は亡き、彼の父親、デニス・バーリングとほとんど同じものだった。違う点は胸に装着するサークル・スターがないことだけ。黒い髪を掻き上げたエミールは白いカウボーイハットをかぶり、部屋を出た。カウンターの前を横切ろうとしたエミールが立ち止まり「電話を貸してくれ」と言うと、男は右手の親指と人差し指を擦り合わせた。
「一ドル。前払い」
 ため息をついたエミールが一ドル硬貨を渡し、男はカウンターに電話を置いた。受話器を手に持ったエミールがダイヤルを回した。タイニーの
「こちら、保安官事務所」という声を聞いたエミールが口を開く。
「タイニー、おれだ」
─ 着いたのね。そっちはどう?
「遊びに来たわけじゃない」
─ そうね。今、所長に変わる。
 待っている間、エミールは男が読んでいた新聞記事の断片を見ていた。南アフリカにおけるアパルトヘイトに対して国際的非難を呼びかける記事や、ソビエトに誕生したゴルバチョフ書記長の動向を伝える記事。蠢動する世界を熱に浮かされたように書き記された文字群。
─ エミール。着いたんだな。
「あぁ」
─ そっちの保安官には会ったか?
「あぁ」
─ どうだ?
「銀行員みたいな奴だ。大した奴じゃない」
─ それでも、選挙で選ばれている。
「そう、名誉ある五つ星だ」
─ 信じられないか? エミール、カリフォルニアはテキサスと違う。同じようにやると面倒なことになるぞ。大した奴じゃなくても、言うことを聞け。
「わかっている。おれもそこまで馬鹿じゃない」
─ 冷静になれ。お前の親父なら、こういう時どうする?
「親父なら一人でジム・フライを捕まえる」
─ だろうな。だが、その前に冷静だ。デニスは一番のレンジャーだった。公安局でデニスを知らない奴はいない。
「レンジャーへの推薦の件、忘れないで欲しい」
─ もちろんだとも。だからこそ、上手くやるんだ。まわりに粗暴者のエミールはデニスの倅に恥じない男だと証明して見せろ。
「おれは粗暴じゃない」
─ トー・トゥー・トーの件は? どうせ、他にもあるんだろう?
「試合に出ただけで粗暴者扱いされるとはね」
─ しっかりやれ。
「わかっている」
─ 話は終わりだ。もう切るぞ。
 電話が切られると、エミールは受話器を置いた。男は柱時計を見ながら
「一ドルじゃ足りなかった。が、今日はおまけしておくよ」と言い、エミールは
「恩に着る」と言って外に出た。
 
 エルム・アベニューにあるバー、〈ドリーム〉は一軒家を増築したものであり、剥き出しの鉄パイプや断熱シートはシュヴァルの理想宮のように荘厳である。夢というよりはエルムの悪夢と呼ぶほうが相応しい。開放的なカウンター席に腰を下ろしたステイシーが口を開く前に、マオカラースーツに身を包んだ小柄な女がステイシーの前にショットグラスを置いて琥珀色の液体を注いだ。目の下を擦ったステイシーが「頼んでない」と言うと、バーテンダーは首を縦に振り、長い髪にさした漆塗りのかんざしが揺れた。
「着付け薬よ」
 カウンターに肘をついたステイシーが「こんな時間から飲むなんてどうかしている」と言うと、バーテンダーが
「こんな時間にバーに一人で来るほうがどうかしている」
 ステイシーは手をヒラつかせ、細い足を組んだ。琥珀色の液体を一気に飲み干したステイシーが大きなため息をつくと、バーテンダーは緑色の瞳をぱちくりさせ
「落ち着いた?」
「えぇ……ありがとう。パム」
「それで、何があったの? いいえ、当ててあげる。こう見えて、占いをやっているんだから。よく当たるって言われるの」
「見たままね。誰かと一緒」
「ステイシー、見掛けは重要よ。それで、あなたの悩み事、それは……」
 首を左右に振ったパムが「ジェイクね」と言った。ステイシーは大袈裟に手をヒラつかせた。
「いい加減、うんざり」
「別れれば?」
「とっくに別れている」
「別れているのに気にする必要ないじゃない? 昔の男には価値なんてこれっぽっちもないんだから」
 ステイシーはポケットから煙草の箱をとり出し、細長い紙巻煙草に火を点けた。
「あたしは馬鹿にされている。都合のいい女だと思われている」
 目を細めたパムが「そういう時、女がすべきことは一つ。頬を張ってやるのよ」と言って右手を振った。
「それはもうやった。少し違うけど。大体、同じ」
 パムはショットグラスに琥珀色の液体を注いで「ジェイクは変わらないわ。そもそも、無地のシャツを着たホワイトカラーのジェイクなんて想像できる?」と言うと、笑みを浮かべたステイシーが
「似合わない」
「そう。ジェイクはジェイク。思うに、彼のライフスタイルはあれに決まっている。だから、ステイシー。あなたに必要なことは、前を向いてしっかり生きることよ。たとえば……」
 ドアが開き、店内に鈴の音が響いた。ジーンズ、白いシャツ、カウボーイハット。落ちくぼんだ陰りのある黒い瞳の男が入って来るなり、目を輝かせたパムが「新しい出会い」と言った。男はステイシーの隣に腰を下ろして「ビールをくれ」と言った。目配せしたパムがビールの栓を抜き、カウンターに置いた。男はビールを飲み、パムが口を開く。
「見ない顔ね。どこから来たの? いいえ、当ててあげる。コロラドのブエナビスタ」
 男は黒々した無精ひげを撫で「エルパソだ」と言い、パムは残念そうに片目を瞑ってステイシーを見た。ステイシーが言う。
「何をするためにエルパソから来たの? 牛の買い付け? そんなわけないわよね」
 男は目を細め、黒曜石のような輝きを放つ瞳にステイシーの肢体が映る。男が白いカウボーイハットのつばを撫でる。
「仕事だ」
 興味津々な様子のパムが「馬に乗って?」と尋ねると、男はビールを一口飲み、笑みを浮かべた。若々しく、裏表のない笑みだった。男は「エミール・バーリングだ」と名乗り、ステイシーも名乗った。邪気を払うように手を叩いたパムが
「あら、そうだ。急用を思い出したわ。ちょっとだけ店を留守にするけど、二人とも、お金は置いて行ってね」と言い、ステイシーが首を傾げた。
「出入り禁止になりたくない」
「カリフォルニアまで来て飲み逃げなんてしない」
 パムは眉を上下させ「二人とも、息ピッタリ」と言って、そそくさと出て行った。ウィスキー瓶の間に隠れるように置かれた小さなスピーカーからはエリック・サティによるピアノ曲『ヴェクサシオン』が流れていた。欠伸が出るほどゆっくり奏される、小節線が廃された家具のような数列。ステイシーが言う。
「エミール、仕事は? あぁ……こういう時はあたしからね。あたしはこの近くのダイナーでウェイトレスをやっているんだけど、今日は色々あって、それでこんな時間から飲んでいるというわけ」
 エミールは「仲間の尻拭いで来たんだ」と言い、カウボーイハットのつばを撫でた。
「込み入った事情ってわけね」
「そうでもない。腕を折られたら、折った奴の鼻っ柱を折る。単純な話だ」
「あなた、腕を折られたの?」
 首を横に振ったエミールが「おれのじゃない。ベケットさん。おれはエルパソの保安官代理なんだ。仲間が護送中にヘマをやったんだ」と答えた。
「昼間からバーに入り浸って平気?」
「今日はもう終わったんだ。どの道、保安官代理が一人いようがいまいが変わらない」
「いなきゃいけない人なんていない」
 ビールを一口飲んだエミールが「いなければいいと思うような奴ばかりがのさばっている」と言い、ステイシーはショットグラスに注がれた琥珀色の液体を飲み干した。『ヴェクサシオン』は繰り返され続け、震えた弦が微かな倍音を伝えた。
「エミールはエルパソで暮らしているの?」
エミールは「親父の代からな」と答えて笑みを浮かべた。目を丸くしたステイシーが
「おかしなことを聞いた?」
「いいや、思い出したんだ。バーテンダーが言っていたことを。親父はコロラド生まれなんだ」
「すごい偶然。パムが喜びそう。でも、占いはそれらしいことを言っているだけってジェイクが言っていたわね」
「ジェイク?」
 舌打ちしたステイシーが「知り合い。たしか、ナパーム効果だったかしら?」と言った。口角を吊り上げたエミールが
「焼け尽くされそうだ」
 ステイシーはため息をつき「最近、ジェイクは、なんとかっていう、学者が書いた論文をわざわざ取り寄せて読んだらしいの。そんなことよりも、マトモな仕事をすればいいのに」
「ジェイクって奴は学者なのか?」
「一日中、マリファナを吸うのが学者?」
「ドラッグはこの国を蝕んでいる」
「えぇ、あたしもそう思う。何度、やめろと言っても聞く耳持たない」
「中毒者に何を言っても無駄だ」
 ステイシーは「そうね」と言うなり、立ち上がってポケットからとり出した小銭をカウンターに置いた。
「少し歩かない?」
「構わないが、いくら置けばいい?」
「置きたいだけおけばいい」
 エミールは財布からとり出した一ドル硬貨をカウンターに置いて立ち上がった。

 二人はエルム・アベニューを太平洋に向かって歩いている。九番通りの交差点で信号待ちをしていると、空を見上げたステイシーがボーイング社製飛行機雲を見た。エミールは道路脇に植えられたシラカバの幹に片手を置く。ステイシーが言う。
「エルパソもこんな感じなの?」
 カウボーイハットのつばを撫でたエミールが「もっと田舎だ」
「ここまで、どうやって来たの? 馬?」
「酔っているのか?」
「えぇ、そうね……多少。パムの自家製酒は密造酒よりもキクって言われていたのを思い出した」
「歩けるか?」
「あたしには足がある。それこそ、ハイスクール時代に器械体操でトロフィーを貰ったぐらいの」
 ステイシーが手足をバタつかせると、エミールはため息をつき
「肩を貸す。家はどこだ?」
「あっち。でも、クレイ・ウォールほどじゃない、あっち」
エミールが肩を貸し、ステイシーは腕をエミールの首にイチヂクのように絡めた。
「かなり酔っているみたいだな。住所ぐらいは言えるだろう?」
「そこを左に曲がったら、空みたいな色のアパート。多分、二ブロック」
「眠るのは、もう少し待ってくれ。いや、眠っても構わないが、足は動かしてくれ」
 信号が変わり、ステイシーが首と片腕をダラリと垂らす。ため息をついたエミールがステイシーを赤子のように背負って九番通りを歩き出した。
 エミールが青いアパートを見つけたのは四ブロック先だった。こめかみから汗が滴り落ち、エミールが「どの部屋だ?」と尋ねると、ステイシーはポケットからエジプト十字のような飾りがついた鍵を出した。
「鍵が開くのはどれか一つ」
 エミールが聞き返す前にステイシーの規則正しい寝息が聞こえた。鍵を握ったエミールはアパートの階段を上りはじめた。
 狭いものの、整理整頓が行き届いた部屋に入ったエミールはベッドにステイシーを寝かしつけ、顔に張り付いた汗をシャツの袖で拭った。一人用テーブルと椅子。体力を失い、絵筆を握ることが困難になったアンリ・マティスが自由という名のハサミで刻んだ生命の記号を複製したポスター、棘のないウニのようなクッション、針金を組んだだけのライトを見ながらエミールはカウボーイハットのつばを撫で、胸ポケットからとり出した煙草に火を点ける。天井を見つめるステイシーが「窓を開けて」と言った。うなずいたエミールが窓を開けた。フォルクスワーゲンのバンが走り去るのが見えた。エミールが階下に灰を落とした。
「あたし、寝ていたみたいね」
「それほど長い時間じゃない」
 ステイシーは短いブロンドの髪を弄り
「思い通りにいかないことばかり。それが人生?」
 壁に寄りかかったエミールが「おれの親父は、生きて行くには忍耐が必要だと言っていた」
「それで、あなたは?」
「おれが忍耐強かったら、今頃はレンジャーになっていた」
「父親は勝手なのよ」
 ステイシーはベッドから起き上がってフラフラと歩き出し、洗面所に向かった。開け放たれたドアの奥からはトイレの穴に向かって吐き出される吐瀉物の音、次にレバーが引かれて水が勢いよく流れ落ちる音が聞こえた。灰皿に煙草を置いたエミールが「大丈夫か?」と言ってトイレに向かうと、薄っすらと笑みを浮かべたステイシーが立っていた。彼女の薄い唇からは唾液が糸を引いていた。ステイシーはエミールの肩と首に手を回すとカウボーイハットを脱がせ、プラスチックのカゴに入れてエミールの唇に吸い付いた。アルコールと吐瀉物、胃液、煙草の残り香が混ざり合う。ステイシーは便秘の気を紛らわすために置いたラジオのスイッチを入れ、マイクの近くでささやくように歌うロイ・オービソンの『オンリー・ザ・ロンリー』が流れ出した。


作家、ジャズピアニスト、画家。同人誌サークル「ロクス・ソルス」主催者。代表作『暈』『コロナの時代の愛』など。『☆』は人格OverDrive誌上での連載完結後、一部で熱狂的な支持を得た。

連載目次


  1. 星条旗
  2. テキサス人
  3. 保釈保証書不要につき
  4. バロース社製電動タイプ前にて
  5. アスク・ミー・ナウ
  6. ユートピアを求めて
  7. ヴェクサシオン
  8. フィジカル
  9. バロース社製電動タイプ前にて ~テイクⅡ
  10. ジェリーとルーシー
  11. プレイヤー・レコード
  12. イースタン・タウンシップから遠く離れて
  13. エル・マニフィカ ~仮面の記憶
  14. バロース社製電動タイプの前で ~テイクⅢ
  15. 炸裂する蛾、網を張る蜘蛛
  16. 窓の未来
  17. セックス・アフター・シガレット
  18. バロース社製電動タイプ前にて ~テイクⅣ
  19. アタリ
  20. 小カンタベリー、五人の愉快な火かき棒
  21. 回遊する熱的死
  22. 顔のないリヴ・リンデランド
  23. 有情無情の歌
  24. ローラースケーティング・ワルツ
  25. 永久機関
  26. エル・リオ・エテルノ
  27. バトル・オブ・ニンジャ
  28. 負け犬の木の下で
  29. バロース社製電動タイプ前にて ~テイクⅤ
  30. エアメール・スペシャル
  31. チープ・トーク
  32. ローリング・ランドロマット
  33. 明暗法
  34. オニカマス
  35. エル・マニフィカ ~憂鬱な仮面
  36. ニンジャ! 光を掴め
  37. バスを待ちながら
  38. チープ・トーク ~テイクⅡ
  39. ブルックリンは眠らない
  40. しこり
  41. ペーパーナイフの切れ味
  42. 緑の取引
  43. 天使の分け前
  44. あなたがここにいてほしい
  45. 発火点
  46. プリズム大行進
  47. ソムニフェルムの目覚め
  48. テイク・ミー・ホーム
  49. オン・ザ・コーナー ~劇殺! レスリングVSニンジャ・カラテ
  50. 血の結紮(けっさつ)
  51. 運命の交差点
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