バラクーダ・スカイ

第6話: ユートピアを求めて

Avatar photo書いた人: イシュマエル・ノヴォーク, 投稿日時: 2022.12.14

一四歳になったばかりのアビゲイル・ヘルダーリンにとって、すべては退屈で馬鹿げたもののように感じられる。彼女の人生が大きく変わったのは英国のケイソープに本部を置く人口上位二パーセントの知能指数を有する者たちの交流を主目的とした非営利団体から会員証が送られたことから。
 アビゲイルは窓の外に広がるサクラメント・タワーブリッジを、次に、壁に貼られた第一回MTVでミュージック・ビデオ・アワード最優秀女性歌手賞を受賞したシンディ・ローパーのポスターを見た。ポスターはリチャード・ドナーが監督した映画『グーニーズ』からのシーンを切り貼りしたものだが、彼女にとってはリチウム遷移金属酸化物を正極材料として提案したオックスフォード大学教授、ジョン・グッドイナフと同じように革命的なものだった。アビゲイルは隣に座る医学生のヴィントン・ホイットルを見ると、ホイットルは照れ笑いのようなものを浮かべて視線をそらした。アビゲイルはホイットルが彼女の未成熟な太腿や胸元、首筋を盗み見ては股間を撫でていることに気付いている。しかし、彼女が両親にどんなに不満を述べたところで、高IQ児童の我儘と解釈され、訴えが聞き届けられることはない。ペンを置いたアビゲイルが「トイレに行ってくる」と言い、ホイットルは笑みを浮かべた。廊下を速足で歩いたアビゲイルはアニメ映画『白雪姫』に登場する小人の石像の下に隠したクレジットカードをポケットに忍ばせ、そのまま外に出た。
 アビゲイルはフロント通りのニーシャム・サークルで違法駐車中のタクシーに乗り込んだ。運転手は紙パックに入った魚のフライを食べていた。
「お嬢ちゃん。おれぁ、見ての通り、今、食事中なんだ。他の車をあたってくれ」
 ポケットからとり出したクレジットカードをヒラつかせたアビゲイルが
「あなたが行ってみたいところを言って」
「いきなり、何を言っているんだ。ハイなのか?」
「早く言ってよ」
 運転手は膝の上に開かれたハスラー誌に目を落とす。ラリー・フリント編集長を頂点とする労働者寄りの進歩的な裸体はインペリアル・ビーチの桟橋の下でロナルド・レーガンを挑発するようなポーズをとっている。運転手が「インペリアル・ビーチ」と言うと、アビゲイルは首を縦に振り
「いいわ。そこに行きましょう」
「馬鹿言わないでくれ。とんでもない距離だ」
「同じカリフォルニア。あなたがするべきことは、さっさとペダルを踏むこと。食事は運転しながらでもできる。いい?」
 ハンチング帽に手を伸ばした運転手が「とんでもないお嬢ちゃんだ」と言って自動車を発進させた。

 自動車はロサンゼルスまでは五号線を、次に一五号線をひたすら南下した。八時間に及ぶドライブ中に運転手がトイレはおろか休憩を一度も挟まなかったのは、アビゲイルの眠りを妨げたくないという思いやりではなく、乗り逃げを避けるためだった。
 インペリアル・ビーチ・ピアは全裸の若い女がいないことを除けば、ハスラー誌と寸分違わなかった。運転手は後部座席で眠るアビゲイルの肩を揺さぶり
「さぁ、着いたぞ。降りてくれ」
 アビゲイルがブロンドのくせっ毛を掻き上げ「もう着いたの?」と尋ね、運転手は青黒い顎鬚を撫でた。
「そう、着いた。早くしてくれ」
「どうしてそんなに急いでいるの?」
「お嬢ちゃんは八時間も小便を我慢させられたことがあるかね? まったく、狙撃兵じゃあるまいし、紙おむつが必要になるかと思った」
「どうして、狙撃兵に紙おむつが必要なの?」
「ベトナムで知り合った狙撃兵が紙おむつをしていたんだ。任務中に必要なんだとさ。さぁ、いい加減、その忌々しいカードを寄越してくれ」
 アビゲイルがクレジットカードを渡すと、運転手はヒラメのような機械にクレジットカードを挿入し、数秒後に縮れた感熱紙が吐き出された。運転手はクレジットカードをアビゲイルに返し
「領収書は?」
「いらない」
「だろうな」
 タクシーから降りたアビゲイルは桟橋を見た。犬を連れたカップルが見えた。彼女は大きく伸びをすると胸元を扇ぎ「シャワーを浴びたいんだけど」と言い、運転手は仮設トイレに向かって走りながら「海に入れ」と答えた。舌打ちしたアビゲイルが歩き出した。
 アビゲイルは行く先々でクレジットカードを振り回した。それらはコバルトブルーのアイスクリーム、ギンガムチェックのビッグショルダー、コンパクトショーツ、ロングブーツに早変わり。彼女は美容院で髪を短く切り、映画『グーニーズ』でマーサ・プリンプトンが演じた勝気な少女、ステフが着用したものとそっくりの眼鏡をかけて意気揚々、ナイトクラブに繰り出した。
ナイトクラブ、〈ベル・ミー〉のダンスホールでは大勢の若者たちが踊っていた。ドアマンが彼女にIDの提示を求めなかったのは、彼女が大人に見えたからではなく、資本主義体制にも社会主義体制にも共通する通貨、袖の下を渡したことによるものである。ダンスホールの片隅、薄暗いブースの中ではシュノーケルゴーグルを着用したDJがターンテーブルにレコードを置き、指先でテンポを弄っている。巨大なスピーカーからはノルウェー出身のシンセポップバンド、アーハの『テイク・オン・ミー』が流れ、若者たちは手描きコミックのバイクレースと恋人たちの物語を連想しながら踊っている。
レイリー散乱によって東の地平線が赤く染まる頃、アビゲイルはビーチを歩いた。捨て置かれた切頂二〇面体ボウル、波打ち際に打ち上げられた夢の残滓のような海藻。アビゲイルは汗で重くなったロングブーツと水玉模様の靴下を脱ぎ棄て、ビッグショルダーを北町奉行、遠山金四郎景元の肩衣かたぎぬのように揺さぶる。ビーチ利用者向け個室シャワールームを見つけた彼女は胸元を扇ぎながら映画『ブレードランナー』に登場した、公開当時は製造不可能とされた酒瓶のような形のシャワールームに入った。服を脱ぎながらアビゲイルは壁に肘や尻、背中がぶつかり、その度に舌打ちした。蛇口を捻り、冷水が流れ落ちる。排水口に引っ掛かった身元不明の白い陰毛の毛球が首を垂れる。置き忘れられた生乾きのタオルで身体を拭いたアビゲイルはシャワールームから出るなり、大きな欠伸をした。そして、ドアが開いたままのトレーラー・ハウスに誘い込まれるように足を向ける。物置小屋のようなハウス内は程よく雑然としていた。ソファ、テレビ、小型冷蔵庫、デンオン製レコードプレイヤー、スチームパンクゴーグルを着用したマネキンの頭部。眠気を誘う香の匂い。アビゲイルはソファに身を投げ出し、目を瞑った。

 タイプライターを打つ音に舌打ちのバロック式装飾音が混ざる。アビゲイルはソファに寝転がったまま額を撫で、目を動かすと、引き出しの上に置かれたタイプライターを立ったままモクモクとタイプする男が見えた。アビゲイルは上体を起こし、目眩を感じながら頭を振ると、彼女には不必要な眼鏡が落ちた。男の唇の隙間から、湿った煙と「いいぞ」「ゴミだ」という言葉がチャーリー・ワッツの演奏のように的確に合いの手をいれた。タイプライターから伸びた紙が引き千切られ、クシャクシャに丸められた。ふわりと舞った紙がゴミ箱に吸い込まれる。アビゲイルが「上手いのね」と言うと、麦わら帽子に球形サングラス、黄色いアロハシャツ姿の男が振り向いた。
「他人の家に勝手にあがり込んだ挙句にベッドまで占領した気分はどうだい、お嬢ちゃん?」
「お嬢ちゃんなんて言わないで。私、アビー」
 男は麦わら帽子を脱いで引き出しの取手に掛けた。
「ジェイク・キニスキー。ジェイクって呼んでくれよ」
 怪しんだ様子のアビゲイルが言う。
「OK、ジェイク。私に触った?」
 ジェイクは球形サングラスの縁を撫で、肩を竦めた。
「おれ、そんな奴に見えるかい?」
「うん」
 溜息をついたジェイクが
「おれは州法を隅から隅まで読んだことはないし、これからもないだろうが、アビーが一八歳じゃないってことはわかるぜ」
「それはつまり、何もしてないってこと?」
「蝶の採集には興味がないんだ。わかるかい?」
「えぇ、ハンバートさん」
 ジェイクは上機嫌な様子で口笛を一吹きして手をヒラつかせた。
「OK。それで、おれに何の用だい?」
「用なんてない。ただ眠たかったから。それだけ」 
ジェイクが片目を細める。煙は天井から垂れ下がった白熱灯の周辺で渦を巻く。
「それで寝たわけだ。おれのベッドで」
「不満? 自分のものが横取りされたと思っている? あなたもパパやママみたいに大人の道理ってものを並び立てる?」
「横取りなんてとんでもない話さ。おれだってやりたいようにやっている。やりたいようにやればいい。結末はいつもお楽しみさ」
「あなた、嫌な奴って言われるでしょ?」
 ジェイクは口が開いたビール缶に吸い終えたマリファナを放り込んだ。
「おれが嫌な奴かどうかは関係ないだろ? それこそ余計なお世話ってもんだ。おれはアビーの親父やおふくろを知らない。まぁ、想像するに難くはないが、知ったことじゃない。多分、アビーはこう思っているんだろう。知りもしない、いかがわしい男からの説教なんてうんざりってな」
「うん」
「正直さは美徳だな」
 アビゲイルは足裏を擦り合わせて言う。
「私のこと知りたい? いいわ。私はアビゲイル・ヘルダーリン。先月のジューンティーンスで一四歳。学校は通っていないのに飛び級。悪いのは私。イギリスの社交クラブから会員証が届いたのも、私の首に吸い付きたそうな顔をする家庭教師も。全部、私が悪いから。だって、仕方がないじゃない? 少し頭を捻ればわかってしまうんだもの。好きでこんな風になったわけじゃないのに押し付けばかり。本当、うんざり」
 壁に寄りかかったジェイクは口笛を吹き
「誰しも、持っていないものはわからないもんさ」
「持っていないものはわかる。うらやましいと感じるから」
「アビー、それは違うぜ。うらやましいっていうのは、欲しいと感じるものが手に入らなくてこねくり回した挙句に絡まった残り物なんだ。デカルトなら人形とダンスしながら〈我、思う〉と言うだろう。でも、今は八五年。レーガンは撃たれても、ポリープがあっても元気いっぱい。〈我、欲す〉さ。欲しいと感じるものは、他の奴から見ればゴミかも知れない。たとえば、おれの知り合い。ホーデルは空き缶を集めるのが好きだ。世界中、ありとあらゆる空き缶を集めている。家の壁一面を空き缶で囲むホーデルはクレイジーだ。もし、あいつが死んだら女房はリサイクルセンターに電話するだろう。一ポンド一ドル。一財産になるし、エコだ。溶かされた空き缶は銃弾になるかも知れない。だから、レーガンはホーデルに勲章をやってもいいだろう。勇気ある愛国者として」
「政治に興味ない」
「そうかい? レーガンは演技こそ下手だが、ジョークは上手いぜ。撃たれたレーガンが病院に担ぎ込まれた時、医者になんて言ったと思う?」
 アビゲイルが首を横に振る。
「〈君たちが共和党だったらいいんだが〉さ。笑えるだろう?」
「いいえ、まったく」
「ちなみに、医者の答えは〈今日一日だけは共和党を支持します〉……どうだい?」
 しかめ面をしたアビゲイルが「センス最悪」と言い、ジェイクは球形サングラスの縁を撫でた。
「グルーヴィ」
「それ、どういう意味?」
「ドゥワ、ドゥワ、ドゥワ。意味がなくちゃスウィングしないのかい?」
 アビゲイルは大きなため息をつく。手をヒラつかせたジェイクが
「大切なことは他人から得られるものじゃないってことさ。特にヒッピーからは。賢くなったところでアビー、メシを食いに行こうぜ」
「お腹減ってない」
「おれの腹が減っているんだよ。デラウェイのフライド・オニオンはカリフォルニアで一番美味い。一度食ったら、他の店でフライド・オニオンを食うのがバカバカしく思うようになるぐらいさ」
「フライは嫌い。太るから」
「おれは好きだぜ」
 ジェイクは引き出しに引っ掛けていた麦わら帽子を手にとり、つばをぐるりと撫でてから頭にのせた。アビゲイルはぶつくさと不満を言いながらソファから起き上がり、二人はトレーラー・ハウスを出た。

 パーム・アベニューの果てにはキャブ・デラウェイが経営するダイナーが建っている。太平洋に最も近い厨房では真剣な眼差しのデラウェイがハンバーグに火を通している。デラウェイにとって、火加減は民主党と労働組合に対する熱意と同じように大切なことだ。しかしながら、民主党は選挙で敗北することがあるし、彼自身、労働組合のストライキを違法に扇動した罪で逮捕されたことがある。それに引き換え、火加減は裏切らない。物質の燃焼を生命の根源と同一視するデラウェイは黒い鉄板と青い炎を見つめながらガストン・バシュラールのように思いを巡らせる。ロウソクに灯る火がバシュラールに平穏と沈思、経験論と合理論の対立を乗り越えさせようとしたように、ガスの火はデラウェイに肉と脂の対立を乗り越えさせようとしている。デラウェイが腰を落とし、ゴム靴がアイトーンのような音で鳴る。ウェイトレスのステイシー・ベケットが厨房に顔を出して注文票を置き、仏頂面のステイシーが
「シュリンプ・サラダ」と言った。
「ソースは?」
 ステイシーは首に巻いたチョーカーを触り、僅かに首を傾げる。
「チリ。二番テーブルのクラブ・サンドは? あいつ、あたしのお尻を触ったのよ? 信じられない」
 デラウェイはハンバーグから目を逸らさず「二番の会計に一〇ドル足して」と言い、片目を瞑ったステイシーが「そうさせてもらう」
 ステイシーがクラブ・サンドを盆にのせて歩いていると、ドアが開き、麦わら帽子に球形サングラス、アロハシャツを着たジェイクの姿が見えた。それまで燻っていた怒りは僅かに収まったものの、ジェイクの隣にいるアビゲイルを見るなり、ステイシーの怒りはイエローストーン国立公園の間欠泉のように噴き出した。ジェイクが「よぅ、ステイシー」と言って手をヒラつかせていると、ツカツカと歩み寄ったステイシーがクラブ・サンドを投げつけた。クラブ・サンドはジェイクの顔に命中。マーガリンが頬から首筋に滴り落ちた。頬を指で撫でたジェイクが「世界最速の注文だ」と言って指を口にやった。ジェイクの隣に立つアビゲイルは呆気にとられたままピクリとも動かない。ジェイクが言う。
「そんな顔しちゃ、美人が台無しだ。紹介するよ。今日、勝手におれの家で寝た不良娘のアビー」
 アビゲイルはステイシーのいきり立った顔を前にして声が出ない。ステイシーが軽蔑した目で
「寝たの?」と言うと、ジェイクは両手を大袈裟に振り
「そう、おれのベッドで。おれは遵法精神に疎いし、ろくでなしだってこともわかってる。でも、思い出してくれ。おれが好きなものをさ」
「ビーチ」
「ウィ」
「音楽」
「ウィ」
「プレイメイツ」
「ウィ」
「ハッパ」
「セ・マニフィック」
 腕を組んだステイシーが大きな溜息をついた。緊張が走る店内の空気がほんの少し緩む。ジェイクは床に落ちた皿とクラブ・サンドの残骸を拾い、ステイシーが持っている盆の上にのせた。踵を返したステイシーが無表情で厨房に向かって歩き出した。アビゲイルが
「いつもこうなの?」
手をヒラつかせたジェイクが「たまに」と言い、空いたテーブルから紙ナプキンを手にとって床についたマーガリンを拭き取った。ジェイクが思い出したように
「ステイシー、ビールとオレンジジュースとオニオン・フライを頼むぜ」
 テーブル席に腰掛けるなり、ジェイクは紙ナプキンで球形サングラスを拭いた。アビゲイルが
「そういう顔していたのね」
「どういうことだい?」
「そのサングラス、顔にくっついているのかと思った」
「そんなことか」
「あの人はジェイクの恋人?」
 球形サングラスをかけたジェイクが肩を上下させ
「二人でダニー・ハサウェイを聴きながらレッドツェッペリンの真似をしたり、セックスしたりする関係が恋人って言うのなら、そうかもな」
「愛し合っていないの? 恋人なんでしょ?」
「これまた哲学的だ。アビーは哲学専攻なのかい?」
「ううん」
「オススメするぜ。金にはならないし、流行は構造主義、ポスト構造主義に変わっちまってはいるが、基本的な問いは変わらないからな」
「なにそれ?」
「リーヴァイスに聞いてくれよ。誰がサルトルを殺したんですか? ってな」
「ジーンズに聞くの?」
「ジーンズか本に。愛し合っていなくてもセックスはできるし、セックスしなくても愛し合うことはできる」
「そんなの変」
「変でも事実さ」
「それも、あなたの言う〈我、欲する〉?」
「ウィ」
「それじゃあ、料理を投げつけられることが代償?」
「代償じゃない。ちょっとした誤解、人生を彩る香辛料さ」
 頬杖をついたアビゲイルが「謝ったほうがいい」と言うと、ジェイクは耳に手を当てた。天井に埋め込まれたスピーカーからはモータウンを支え続ける奇跡、スモーキー・ロビンソンが率いるミラクルズの『ひとすじの涙』が流れていた。爪弾かれるギター、バックビートで叩かれるタンバリン、素朴で開放的なベースライン。ジェイクは「君が必要なんだ」と口ずさみ、二拍三連のキックに合わせてテーブルを叩く。呆れ顔のアビゲイルが「ステイシーが好きなのね」と言うと、ジェイクは球形サングラスの縁を撫で「グルーヴィ」と言った。
 フライド・オニオンとビール、オレンジジュースを持ってやって来たのはデラウェイだった。テーブルに皿を並べたデラウェイは腰に手をやり
「いつも、君の傍若無人ぶりにはうんざりさせられているけれど、今日は特にひどい。目に余るものがある」
ジェイクが「ステイシーは?」と尋ねると、デラウェイは眉間に皺を寄せ
「帰ってもらった。ジェイク、いいかい? 君は彼女を傷つけた。君にこんなことを言うことが無駄だということは、よくわかっている。でも、君は酷いことをしたんだ」
 上唇と無精ひげを撫でたジェイクが
「おれは何もしちゃいない」
「かもね。ひょっとすると、ステイシーが誤解しただけなのかも知れない。でも、君の態度は彼女に誠実だったと胸を張って言えるかい?」
「悪いとは思っているよ」
「本当に悪いと思っているなら、ステイシーに謝って」
 ジェイクはオニオン・フライを口に放り「あとで謝る。今、謝るのはバツが悪い」
 アビゲイルはオレンジジュースが注がれたグラスを両手で持ち「彼の言う通りね」と言った。ジェイクは真っ赤なディスペンサーを逆さにしてケチャップを絞り出した。ジェイクが言う。
「ミラクルズ、そらに知ろしめす。すべて世は事もなし」
「あなたは経験から学ぶことができないのね」
 フライド・オニオンをビールで流し込んだジェイクが
「賢そうに振舞うことが正解じゃない。物事には常に正反対の意味があるんだ。おれがステイシーにアビーとは寝ていないと言えば、寝たという意味に聞こえるだろ? 否定と肯定の境目はいい加減なんだ」
「でも、誠実じゃない。彼が言った通り」
ジェイクは「難しい問題だな。フライド・オニオンが冷めちまうぐらいの」と言って、フライド・オニオンに穿たれた穴を口に放った。

 ビールを飲み干し、フライド・オニオンを食べ終えたジェイクは爪楊枝を口にくわえると、テーブルに金を置いて立ち上がった。
「さぁ、行こうぜ」
「どこに?」
「カタツムリが枝を這うんだ」
「明日になりそう」
「明けない夜はないし、終わらない旅行もない。お嬢ちゃん、代金の用意は?」
「嫌な奴」
 球形サングラスの縁を撫でたジェイクが「グルーヴィ」と言った。

 パーム・アベニューでは千鳥足の酔っ払いが潮風に背中を押されながら歩いている。酔っ払いは調子外れの『オー・シャンゼリゼ』を歌っており、旋律の三度がフラットしたことでブルースのように響いている。〈一日一善〉という漢字のステッカーが貼られたタクシーの運転席に座るトム・ドーンシーはハンドルに足をのせながら前を見ている。千鳥足の酔っ払いはイギリスのサイケデリックバンドが生み、フランス在住アメリカ人によって鍛え上げられた楽曲を高らかに歌っている。ウォータールーの道は凱旋門に続いている。ドーンシーがバックミラーから垂れ下がるフラダンス人形を指で突くと、人形は笑顔で腰を振った。窓ガラスがノックされ、ドーンシーがドアハンドルをまわした。
「よぅ、ジェイク。マリファナを吸い過ぎて、とうとう自分の家を忘れたか?」
 手をヒラつかせたジェイクが
「仕事を頼みたいんだ。膨れっ面のアビーを家まで送って欲しい」
 ドーンシーはジェイクの後ろにいる女の子を見た。不貞腐れた様子で、ビッグショルダーは角張っているように見えた。
「その子は?」
「アビー。おれの家で勝手に寝る不良娘」
 ジェイクが振り返ると、アビゲイルは横を向いた。ジェイクが「アビー、家はどこだい?」と尋ねると、アビゲイルは中指を突き立て「サクラメント・タワーブリッジの近く」と言った。口笛を一吹きしたジェイクが
「グルーヴィ。それじゃトミー。頼んだぜ」
「万年文無しのお前の頼みなんて聞いていたら、あっという間に破産する。それじゃなくても、最近はヤバイんだからな」
「貧乏金なし。トミーもかい?」
 大袈裟にうなずいたドーンシーが「景気とやらは地下深くに潜っちまっている。ソビエトからミサイルが飛んでくるかも知れないから、ビビっているのかもな」
「チェルネンコは愉快な奴さ」
「アカに愉快な奴なんているはずがない」
「ジョークには温度差があるってことさ。クレムリンは冷えるからな。アビー、金は持っているかい? 先に言っておくけど、おれはないぜ」
アビゲイルはポケットからとり出したクレジットカードをヒラつかせ、ドーンシーが「さぁ、乗りな」と言った。ジェイクが後部座席のドアを開け、アビゲイルは不機嫌な顔でタクシーに乗り込んだ。ジェイクがドアを閉め、ドーンシーはアクセルを踏む。そして、タクシーが発進する。振り向いたアビゲイルが舌を出すのが見えた。


作家、ジャズピアニスト、画家。同人誌サークル「ロクス・ソルス」主催者。代表作『暈』『コロナの時代の愛』など。『☆』は人格OverDrive誌上での連載完結後、一部で熱狂的な支持を得た。

連載目次


  1. 星条旗
  2. テキサス人
  3. 保釈保証書不要につき
  4. バロース社製電動タイプ前にて
  5. アスク・ミー・ナウ
  6. ユートピアを求めて
  7. ヴェクサシオン
  8. フィジカル
  9. バロース社製電動タイプ前にて ~テイクⅡ
  10. ジェリーとルーシー
  11. プレイヤー・レコード
  12. イースタン・タウンシップから遠く離れて
  13. エル・マニフィカ ~仮面の記憶
  14. バロース社製電動タイプの前で ~テイクⅢ
  15. 炸裂する蛾、網を張る蜘蛛
  16. 窓の未来
  17. セックス・アフター・シガレット
  18. バロース社製電動タイプ前にて ~テイクⅣ
  19. アタリ
  20. 小カンタベリー、五人の愉快な火かき棒
  21. 回遊する熱的死
  22. 顔のないリヴ・リンデランド
  23. 有情無情の歌
  24. ローラースケーティング・ワルツ
  25. 永久機関
  26. エル・リオ・エテルノ
  27. バトル・オブ・ニンジャ
  28. 負け犬の木の下で
  29. バロース社製電動タイプ前にて ~テイクⅤ
  30. エアメール・スペシャル
  31. チープ・トーク
  32. ローリング・ランドロマット
  33. 明暗法
  34. オニカマス
  35. エル・マニフィカ ~憂鬱な仮面
  36. ニンジャ! 光を掴め
  37. バスを待ちながら
  38. チープ・トーク ~テイクⅡ
  39. ブルックリンは眠らない
  40. しこり
  41. ペーパーナイフの切れ味
  42. 緑の取引
  43. 天使の分け前
  44. あなたがここにいてほしい
  45. 発火点
  46. プリズム大行進
  47. ソムニフェルムの目覚め
  48. テイク・ミー・ホーム
  49. オン・ザ・コーナー ~劇殺! レスリングVSニンジャ・カラテ
  50. 血の結紮(けっさつ)
  51. 運命の交差点
ぼっち広告