初めて会った日のことはよく覚えている。イースト・ヴィレッジの二番街にあるカフェだ。彼はウェイトレスが運んできたコーヒーカップを真剣な眼差しで見ていた。隣のカフェは昼間から演奏しており、バスドラムの低音の衝撃が壁越しに伝わってきた。彼はコーヒーにビスケットを浸して口に放り込んだ。味わうというよりは咀嚼し、嚥下といった生理現象に興味があるように見えた。作家という職業を選択し、幸運にも実現させることができた人々には奇癖があることが多い。ありふれたものから、この世の真理や普遍的愛といったものを描こうとすることは並大抵なことではないことだろう。私自身、そういった人々に憧れたことがある。もっとも、それは遠い昔のことだが。
彼はブルックリンで生まれ、大学で応用光学を学んだ。彼の両親は、いずれは息子がパロアルトの研究所で最高品質のカメラを設計すると思っていただろうが、期待は裏切られた。彼は大学を休学してベトナムに行き、除隊後に復学した。彼は軍隊時代のことを語らなかった。ベトナムで何を見、何を感じたかを尋ねても首を横に振るだけ。とはいえ、辛い経験を語らせて相手の気分を落ち着かせるのは精神科医の仕事であって、私の仕事ではない。彼の人生に何があったかより、彼が書き上げた作品のほうが重要なのだ。小説の物語は南北戦争直後の南部の町が舞台となっていた。登場人物や俗語の使い方はウィリアム・フォークナーに近く、各章は様々な語り手たちによって構成されている。手法を除けば五〇年代以前の一般的な西部小説と言えよう。しかし、読み進めていくうちに物語は変質していく。枝葉が分かれ、菌糸が地上を覆っていくように。フォークナー的因習はエドモン・ジャベスやパウル・ツェランといった詩人から影響を受けた文体から穏やかなものになっていき、それと同時に複数の枝葉が矛盾しながらも有機的に結びつく。最終的にこれらは光学的愛と呼ばれるべきものによって照らされる。原稿を指差し「タイトルは?」と尋ねると、彼はベネチアン・レッドの紙ナプキンに人差し指を置き、円を描きながら『暈』と答えた。出版された彼の本はベストセラーになり、批評家たちからも好評だった。これは意外に思えた。なぜなら、批評家が好むものはおおむね売れないものだから。ほどなくして、ペン・フォークナー賞の受賞が決まった。私には、いささか過大評価のように思えたが、それは彼が受賞を断る理由にはならない。彼のガールフレンド、ミランダは社交的で活動的、人好きする女性だった。ミランダは彼の雑事一切を引き受けていた。彼女は口癖のように「彼には煩わしい思いをして欲しくない」と言った。彼女は二五歳にもなっていなかったが、恋人というより母親のようだった。ミランダは交通事故で亡くなった。その時の彼は茫然自失。何を言っても悲しませ、混乱させるだけだと考えたので、私は何も言わないことにした。結果、彼は行方知れずになった。それから、月日はあっという間に過ぎ去り、その間、私は彼のことを忘れていた。
息子のジェイソンを寝かしつけた私は、妻のトニと夏休みの予定について話し合った。私はいい加減、父が遺したインフレマゴク湖に近いイースタン・タウンシップの別荘を処分したかったし、トニも同意見だったので、処分する前に一度、行ってみようということになった。
電話が鳴り、受話器をとると彼の声が聞こえた。話し方は変わっていたが、声色から彼だということはすぐにわかった。空白の時間に何があったのかを尋ねても、はぐらかすばかりだった。
「何があったのか言いたくないのなら、それで構わない。それでも、今、どこに住んでいるかぐらいは話してくれてもいいとは思わないかい?」
ヘラヘラと笑う声が聞こえた。軽薄な笑い声なので、本当に彼なのかと疑ってしまうほどだ。私が知る彼はこういう笑い方をする人物ではなかった。
─ インペリアル・ビーチに住んでいるんだ。あったかいし、色々ある。いいところさ。
「カリフォルニアかい?」
─ グルーヴィ。
「なるほど。それで、電話してきた理由は何かな?」
─ そうだな……差し当って、四年分の印税を小切手で送って欲しいんだ。
「宙に浮いていたので、どうしたものかと困っていたんだ。銀行口座は?」
─ ジョー・ストラマーは最高だな。
「破産したのかい?」
─ 破産しちゃいない。こっちで口座を持ってないんだ。今から言う場所に小切手を送ってくれ。
「君だという確証が持てない」
─ 合言葉を言って欲しかったのかい? 〈開けゴマ〉? それとも、〈トラトラトラ 闇くろぐろの〉?
私が黙っていると、彼の声が聞こえた。
─ 初めて会ったのはイースト・ヴィレッジのカフェだった。隣のカフェでセッションしていて、プレイしていたのはモンクの曲だった。テーブルにはベネチアン・レッドの紙ナプキンが置かれていたな。そこで本のタイトルを聞かれたよ。
「どうやら、君みたいだ」
─ おかげさまでね。電話したのは、おれが生きているってことを言いたかったのと、金を送って欲しいってこと。それから、次のものを書いているってこと。
「君は元気だと伝えるためだけに電話するような人じゃない。相変わらずのようだ」
─ グルーヴィ。
「小切手は明日にでも振り出そう。数日後には手元に届くだろう」
─ よろしく頼むよ。
「原稿が進んだら電話して欲しい。ただ、今みたいな時間は避けてくれると助かる。ジェイソンを寝かしつけなくちゃいけない時間なんだ」
─ ジェイソン?
「息子のジェイソンだよ。忘れたのかい?」
─ 今の今まで忘れていたよ。それにしても、ジェイソンにクエンティン、ヨハナパトーファで川に身を投げちまいたくなるような名前だな。
「初めてジェイソンの名前を口に出した時も、君は同じことを言った」
─ そうかい?
「そうだよ」
沈黙が訪れた。咳払いをした私が「電話を切るよ。言い忘れたが……おかえり」と言うと、彼の「グルーヴィ」という声を聞こえ、私は受話器を置いた。
連載目次
- 星条旗
- テキサス人
- 保釈保証書不要につき
- バロース社製電動タイプ前にて
- アスク・ミー・ナウ
- ユートピアを求めて
- ヴェクサシオン
- フィジカル
- バロース社製電動タイプ前にて ~テイクⅡ
- ジェリーとルーシー
- プレイヤー・レコード
- イースタン・タウンシップから遠く離れて
- エル・マニフィカ ~仮面の記憶
- バロース社製電動タイプの前で ~テイクⅢ
- 炸裂する蛾、網を張る蜘蛛
- 窓の未来
- セックス・アフター・シガレット
- バロース社製電動タイプ前にて ~テイクⅣ
- アタリ
- 小カンタベリー、五人の愉快な火かき棒
- 回遊する熱的死
- 顔のないリヴ・リンデランド
- 有情無情の歌
- ローラースケーティング・ワルツ
- 永久機関
- エル・リオ・エテルノ
- バトル・オブ・ニンジャ
- 負け犬の木の下で
- バロース社製電動タイプ前にて ~テイクⅤ
- エアメール・スペシャル
- チープ・トーク
- ローリング・ランドロマット
- 明暗法
- オニカマス
- エル・マニフィカ ~憂鬱な仮面
- ニンジャ! 光を掴め
- バスを待ちながら
- チープ・トーク ~テイクⅡ
- ブルックリンは眠らない
- しこり
- ペーパーナイフの切れ味
- 緑の取引
- 天使の分け前
- あなたがここにいてほしい
- 発火点
- プリズム大行進
- ソムニフェルムの目覚め
- テイク・ミー・ホーム
- オン・ザ・コーナー ~劇殺! レスリングVSニンジャ・カラテ
- 血の結紮(けっさつ)
- 運命の交差点