インペリアル・ビーチに違法駐車されたトレーラー・ハウスの天井を虹色スペクトルの紫煙が漂う。ジェイクはマリファナを口にくわえたまま、ヤシやパイナップルがプリントされた半袖のシャツを脱いで床に放った。窓辺から垂れ下がるラジオからはロナルド・レーガン大統領による独立記念日を祝うスピーチが流れている。レーガンの声は棒読みとまではいかないものの、抑揚は作り物のよう。ジェイクは口に挟んだマリファナを舌で左右に転がし
「こういう時はギル・スコット・ヘロンに任せりゃいいのにな」とつぶやきながら冷蔵庫を開け、缶ビールをとり出した。缶ビールの蓋が小気味良い音で鳴き、満面の笑みを浮かべたジェイクが腹を擦る。ラジオは朗々と『星条旗』を歌っている。舌打ちしたジェイクが無精ひげを掻き、ソファに腰を下ろす。そして、見計らったようなタイミングでドアがノックされる。手をヒラつかせたジェイクが立ち上がり、ゆっくり歩いてタツノオトシゴの尾のような形をしたドアノブを捻る。潮風は部屋に充満していた煙を押し出し、ジェイクはドアの向こうに立つ女を見る。女は二〇代前半、髪は短く、髪色はブロンドだが、これは染めたものである。ジェイクは彼女の髪が本当は茶色だということを知っている。それもそのはず、ジェイクと彼女、ステイシー・ベケットはほんの一時、恋人関係だったのだから。ステイシーはジェイクよりも背が高く、痩せている。胸が控えめなので、一見するとステイシーは学生運動に参加する家出少年か、ガレージで演奏するパンクバンドのベーシストのように見える。この二人は別れて一年以上も経つのに、未だに月に一度は会う。ジェイクはポルノ女優のように生理食塩水で不自然に膨らんだ乳房の女性が好きで、長い髪に大きな尻、健康的で日焼けした肌が好きだ。しかし、ステイシーの肌はロシア娘のように白く、胸も尻も小さい。中性的な容姿のステイシーと麦わら帽子に球形サングラス、白んだジーンズ、アロハシャツのマリファナ愛好家、ヒッピー崩れのスラッカーであるジェイクが良好な関係を維持していることは奇跡、あるいは腐れ縁という言葉がぴったり当てはまる。ジェイクはステイシーの顔をまじまじと見た。見慣れた顔だが、涙袋から目尻にかけて引かれたアイシャドウが霞んで見える。ジェイクが言う。
「ダイナーで尻でも触られたのかい?」
「そんなことされたら手首を捻ってやる」
「グルーヴィ。それで、何の用だい? 一日中、労働に勤しんだおれは疲れているんだ」
首を傾げたステイシーが「労働? 悪いものでも食べた? 大体、どうして裸なの? レッドツェッペリンの真似?」と言い、ジェイクは大袈裟に肩を竦めた。
「質問は一つずつか、でなけりゃ、頭の中でまとめてからにしてくれよ。まぁ、とにかく入りな」
戸惑った顔でステイシーがトレーラー・ハウスに入った。いつもならば、ジェイクに罵声を浴びせた上に啖呵を切るステイシーだが、しおらしい態度だった。ソファに腰掛けるなりステイシーは大きな溜息をついた。ジェイクは聞こえないふりを決め込み、冷蔵庫から缶ビールをとり出してステイシーに差し出した。ステイシーの「ありがとう」という声は掠れていた。ジェイクは窓辺から垂れ下がるラジオを切り、テレビのスイッチを入れる。テレビのアンテナはシュルレアリストの人体のように不自然なほど折れ曲がっている。ブラウン管の中ではカートゥーンアニメのネズミたちが悪戯を繰り返している。ステイシーの隣に腰を下ろしたジェイクがビールを一口飲み、彼女の肩に手をやった。ジェイクの動作に猥褻なものは感じられず、親しい友人にするような動作だった。これはジェイクがステイシーをハワード・ホークス的な女性として見ていることを示している。ビールを一気に飲み干したステイシーが
「パパから手紙がきたの」と言い、ジェイクは曖昧な返事をした。
「あたしのこと……話したことなかったかしら?」
手をヒラつかせたジェイクが「こっちから聞かなかったからな。ステイシーだって、おれのことを聞かないだろ?」
「何かあるの?」
目元を擦り、パンダのような目になったステイシーが不安そうにジェイクの目を覗き込む。大袈裟にため息をついたジェイクが
「ハッパとモータウン。多少のロック。ビーチ、水着姿の若い女が大好きってところだよ」
「見たまま。それに、いつものこと」
「聞くまでもなかったな」
ステイシーが笑う。あたりに漂っていた緊張が弛緩され、だらりとした時間の粒が埃と共に飛び去る。
〈デルガド ハ アナタ ニ 最高 ノ 時間 ヲ〉
いつの間にかコマーシャルに切り替わったテレビが不動産取引を持ち掛ける。大袈裟に息を吐いたジェイクが「こうやってソファに座りながらビールを飲んで、テレビを点けていると頭の中が洗い流されちまうような気がしてくる。つまるところ、ニュースは忘れられるために流されているんだ。しばらくするとニュースどころか、自分が何をやっていて、やろうとしていて、誰だったかも忘れて、しまいにはぐっすり眠れる」
ステイシーがジェイクの肩に寄りかかり、ブロンドに染められた髪の毛から煙草の臭いが漂う。ステイシーがつぶやくように言う。
「あたし、クレイ・ウォールっていう町で生まれたの。海はないし、なんにもないところ」
首を横に振り、口を曲げたジェイクが「本当になんにもない。おれならさっさと町を出るよ」
ステイシーは何かを掴むように、手をかざし
「そう……なんにもない町。あたし、器械体操が得意なの。トロフィーを三つもらったぐらいには」
「身体が柔らかいのは知っているよ」
ジェイクの言葉に水を差されたステイシーが顔を顰める。
「真面目な話よ。こういう時は黙って聞くものでしょ?」
ジェイクがうなずく。
「そう、いい子ね。町が嫌いだったから、せめてと思って大学はオークレーに進学した。奨学金を申請して、アパートを借りて……信じられる? 今、ダイナーでウェイトレスをしているあたしがオークレーでジャーナリズムを専攻していたなんて?」
再び、ジェイクがうなずく。小さく舌打ちしたステイシーが「うなずく時は声を出してもいいのよ? やりにくいじゃない……その時、オークレーの警察は色んな所で賄賂を受け取っていた。あたし、それが嫌でたまらなかった。オークレーはクレイ・ウォールよりも都会だし、洗練されていると思っていたのね。だから、証拠を集めて大学新聞に載せてやった。探偵みたいにね」
膝を叩いたジェイクが「悪党をブタ箱にやってどうだった?」と言うと、ステイシーは首を横に振り、短い髪がサラサラと揺れた。
「何も変わらない。警察はアタシが嘘つきだって主張した。味方は一人もいなかった。裁判沙汰になりそうだったから、パパに電話して弁護士のマーフィーにオークレーまで来てもらった。それから色々あったけど、なんとかなった。でも、大学は放校。アパートを引き払って、カバンに服を詰め込んで夜逃げみたいにオークレーからクレイ・ウォールに帰った。深夜バスってひどく冷えるのね。家に帰ったら、パパはあたしを殴った。恥さらしってね。あたしは気が動転して、部屋に駆け込んで泣いた。泣き止んだら、もうここにいられないと思った。クレイ・ウォールに居場所なんてなかった。あたしは嘘つき扱いだったし。机の上にママ宛てにメモを書いて、窓から家を出た。ここまではヒッチハイクで来た。本当のところ、どこでも良かった。でも、あなたと会って、デラウェイのダイナーに雇ってもらって……あたしなりに頑張ってきたつもり、だけど……」
「親父さんからの手紙ってわけだ。なんて書いてあったんだい? 〈もう一発殴らせろ〉かい?」
首を横に振ったステイシーが「〈悪かった。帰ってきてくれ〉ですって」と言った。ジェイクは飲み終えた缶ビールを床に置いた。
「それで、どうしたい? おれにどうにかして欲しいっていうのなら、お門違いだぜ。ステイシー、一度しか言わないからよく聞いてくれ。大抵の場合、答えは先に決まっている。それなのに他人に尋ねる理由は二つ。一つ目、自分の考えを後押しして欲しいから。二つ目、人形みたいに黙って話を聞いて欲しいから。おれに言わせりゃ、いい迷惑さ。やると決めたことをやればいい。その結果がロクなものじゃなかったとしても、受け入れるしかない。幸福も不幸も自分だけのものなんだ。それで、今、おれがやりたいことは」
立ち上がったジェイクは球形サングラスの縁を撫で「踊らないか?」と言った。ステイシーが目を丸くした。
「正気?」
「グルーヴィ。今、やりたいことなんだ」
「レッドツェッペリンの真似が?」
「ロバート・プラントみたいにやってもいい」
ジェイクはテレビのスイッチを切り、棚からレコードを引っ張り出した。そして、デンオン製レコードプレイヤーDP六〇Mが回りはじめる。針を落ち、スピーカーからダニー・ハサウェイの『ゲットー』が流れ始める。冷めた目つきのステイシーが「最低」と言った。ジェイクはステイシーの右手をとり、彼女を立ち上がらせると左手を彼女の細い腰にまわした。ジェイクの球形サングラスにはステイシーの顔が鏡のように映っている。破顔したステイシーが「ひどい顔」と言うと、ジェイクは顔を歪めた。
「そりゃないぜ」
「違う。あたしの顔。本当にひどい」
「フレンチカンカンをやるロバート・プラントは見たことないだろ?」
大音量の『ゲットー』、二人の笑い声は波のようにうねるパーカッションに華を添えた。狭い空間の狂騒、痴態、セックスのチルアウト。
朝、目覚めるなり、ジェイクは枕元に置かれた紙片を見た。ジェイクは後頭部とむきだした下腹部、尻を掻いて片目を吊り上げる。
─ ジェイクへ 掃除しておいたから代金は五ドル。せいきょうしょ S・B ─
手をヒラつかせたジェイクが「綴りが間違っているぜ」と言い、裸のままマリファナに火を点けた。
連載目次
- 星条旗
- テキサス人
- 保釈保証書不要につき
- バロース社製電動タイプ前にて
- アスク・ミー・ナウ
- ユートピアを求めて
- ヴェクサシオン
- フィジカル
- バロース社製電動タイプ前にて ~テイクⅡ
- ジェリーとルーシー
- プレイヤー・レコード
- イースタン・タウンシップから遠く離れて
- エル・マニフィカ ~仮面の記憶
- バロース社製電動タイプの前で ~テイクⅢ
- 炸裂する蛾、網を張る蜘蛛
- 窓の未来
- セックス・アフター・シガレット
- バロース社製電動タイプ前にて ~テイクⅣ
- アタリ
- 小カンタベリー、五人の愉快な火かき棒
- 回遊する熱的死
- 顔のないリヴ・リンデランド
- 有情無情の歌
- ローラースケーティング・ワルツ
- 永久機関
- エル・リオ・エテルノ
- バトル・オブ・ニンジャ
- 負け犬の木の下で
- バロース社製電動タイプ前にて ~テイクⅤ
- エアメール・スペシャル
- チープ・トーク
- ローリング・ランドロマット
- 明暗法
- オニカマス
- エル・マニフィカ ~憂鬱な仮面
- ニンジャ! 光を掴め
- バスを待ちながら
- チープ・トーク ~テイクⅡ
- ブルックリンは眠らない
- しこり
- ペーパーナイフの切れ味
- 緑の取引
- 天使の分け前
- あなたがここにいてほしい
- 発火点
- プリズム大行進
- ソムニフェルムの目覚め
- テイク・ミー・ホーム
- オン・ザ・コーナー ~劇殺! レスリングVSニンジャ・カラテ
- 血の結紮(けっさつ)
- 運命の交差点