人格 OverDrive への寄稿、 敷居が高くなっちゃってるのは、 何をやるにもおれを通さなきゃいけないからだとわかっている。 システム上そうせざるをえないんだ。 たとえば連載は WordPress のカテゴリで管理しているのだけれど、 故意やうっかりでほかの寄稿者の連載がだいなしになるのを避けるため、 おれにしか触れないようにしてある。 代わりにおれはなるべく寄稿者の意図をくみ取るべく努力している。 設定に意図を反映させるには、 やりとりを避けて通れない。 相互の協力によってなりたつ作業だ。 これは質を担保するためにも避けられないかもしれないな。 コミュニケーション能力ありきなんだわ、 作家は。
最初から評価されるひとと、 おれみたいにいくらやってもだめなひととのちがいは 「コミュニケーションの上で書いているかどうか」 だと思う。 いきなり長編を書いて応募ではなくて、 あえて短いのを、 多くのひととかかわりながら積み重ねる。 作品のためではなくて他人とのかかわりを重ねるために書く。 そのようにして積み重ねた実績のうえで、 長編を書くのだけれど、 その作品にしても作品ありきではなくて、 多くのひとたちとのコミュニケーションの延長上にある。 そういうのが評価されるんだ。 仕事ってそういうものだから。
なんでおれはだめなんだろうって内省からもその結論には達していたけれど、 ここ数年、 人格 OverDrive で大勢の作家とかかわってきて、 理屈ではなく実感として身に染みた。 やっぱそういうことなんだよ。 おれは遺伝と生育環境のために、 社会性に欠陥がある。 生きていることが恥ずかしい。 そんなやつの書くものを人前に出しちゃだめだ。
おれの書くものがだめな理由は、 経験したことしか書けないからってのもあるかもな。 物語の都合で作家や編集者をよく登場させるけど、 商業出版のことは何も知らないし、 風俗店の内装がどうなっているかとか知らないし、 車の運転方法すら知らず、 そういうのをすべて想像で書いている。 知っているひとからしたらおかしな描写だろう。 コミュニケーション能力があればちゃんと取材できるだろうし、 社会経験があればそれだけで説得力のあるものを書ける。 境界知能のおれはただ、 だめな人生について愚痴を垂れ流すだけだ。 いくらエンターテインメントの技術で仕上げたところで、 しょせん話にならない。
そもそも、 精神を病んでいる人間は作家にはなれない。 もてなす側は健康でなければ。 鼻水ずるずるくしゃみ連発の板前の料理になんか、 だれが手を出すものか。 これまで書いたものをざっと読みかえしてみたら、 技術的にはどれもそれほどひどくはなかった。 でもどこかで線引きをすべきだと感じたし、 そう感じさせるものはどれも病との距離感を見誤っていた。 小説は手綱がとれていなければ。 商品として読みものとして、 健康な理性で客観的に管理されていなければ。
コミュニケーション能力にせよ社会経験にせよ、 精神衛生の面にせよ、 人間としてまともでなければ社会の迷惑だ。 まして大勢の前に出る職業作家になんてなれない。 健康でまともな社会人であることが最低限の前提で、 それがあっての作家なんだよな。 おれはそうじゃなかった。
おれの本にていねいな感想を書いてくれた asa_suzz さんのツイートで教わったのだけれど、 「いろんな生き方や考え方を示して、 後からくる人のために 『この道、 抜けられます』 の看板を立てていく」 のが作家の仕事だ、 と田辺聖子はいったそうだ。 人生経験が豊かな作家の言葉だけに、 説得力がある。 小説はきっとそういうものだとおれも思う。 いっぽうおれは、 いつだって袋小路のどん詰まりだ。 「この先行き止まり」 の看板だって、 ひょっとしたらだれかの役には立つかもしれない。 でもだれがその先を知ろうとするものか。 ふうん、 じゃあ読まないよ。 と通過するだけだ。
もちろんおれだって、 おなじ経験はだれにもしてほしくない。 だから書いている。 不幸にしておなじ道に迷い込んだひと。 あるいはおれとおなじように、 邪悪なものに追い込まれて抜け出せなくなったひと。 そういうひとのために四半世紀、 おなじ気持だと伝えたくて書いてきた。 でもそんなことが何の役に立つのか。 抜け道を教えてくれなければ、 わざわざ金や時間や労力をついやして読む意味がない。
作家にはなれなかったけれど、 書いてきたすべてを全否定するつもりもない。 手綱がとれていると判断したものは公開している。 『血と言葉』 以降はどれも問題ない。 お蔵入りにしたものだって必要な経験だった。 失敗を経なければ何も書けない。 人前に出るべきではないと自覚できたことだって大きな収穫だ。 何ひとつ、 むだじゃなかったよ。
書いた通りに表示させたい、 気を利かせたつもりで勝手なことをされたくないとの気持があったので wptexturize を停めていた。 ダブルクォートについて調べるうちに (勝手に変換されたやつが全角だとは知らなかった)、 ひとさまの文章は変換されたほうが美しく表示できるのではないかと考えはじめた。 ためしに有効にしてみた。 どこかに大きな不具合がでるかもしれない。 いまのところ、 特におかしなところは見当たらない。