もう五年くらい頭のなかに居座っている話をいいかげん追い出したいのだけれど、 鬱でどうにもならない。 十日くらい休みがあれば書き出せるんだけどな、 せめて五日。 書けない代わりにサイトを弄っている。 最近はそればかりだ。
わけもわからずただコピペするだけだった PHP は、 すこしずつ自力で書けるようになってきた。 十年前までデジタルデバイドの最底辺だったおれにしてみれば、 たいへんな進歩なのだけれど、 別にそれで収入が上がるわけでもない。 仕事にできる水準でもなければ本が売れるわけでもない。 わからなかった問題が解決したときはうれしいし、 日本でいちばん組版にこだわったサイトだという自負もある。 でもそれは、 うまく機能すればするほどだれも気づかない、 という性質のもので、 けっして評価されることはない。 おれは自己愛者ではないので、 客観的に認められないものに価値をみいだすことはできない。
作家の能力とは単に書かれたものだけじゃなく、 コミュニケーションまでをも含めてだと最近ようやく実感している。 むしろ他人や世間とうまくやることが九割で、 おれにはそれがない。 だから職業作家になれなかった。
若い頃はどうにもならない制約のもとで書いていた。 両親は息子が外の世界にすこしでも近づこうとすると暴れた。 就職のしようもなく、 無駄なあがきが書くことだった。 コミュニケーションの手段が断たれていたにもかかわらず、 いやだからこそ書こうとした。 そこに矛盾と甘えがあった。 破綻していた。 狂人の家庭に生まれ、 社会の理屈がわからなかった。
編集者の側にしてみれば書きたいというから仕事をやろうとしたら、 まともに連絡がとれない。 相手のしていることが見通せず、 仕事の段取りが組めない。 組めない予定はなりたたない。 状況がすっかり変わった頃になって、 需要に合わない完成品がいきなり送りつけられてくる。 作家志望者には作品が全世界だろうが編集者にはそうではない。 大きな会社だ。 山ほど仕事をかかえている。 合わせるつもりがない社外の人間とは組みようがない。 仕事をしたいのかしたくないのか、 どっちだよって話になる。
仕事にかぎらない。 どうなるかわからない都合にいくらでも合わせてくれるのを当然のように期待するのは、 虫がよすぎる。 最低限の礼儀だろう。
たとえていうなら、 こんな話だ。 いっしょに遊園地に行こうよと誘われる。 いつにする? と訊いたらうん、 そのうちいつか、 決まったら連絡するよと曖昧な返事。 この時点でとまどうけれど、 その後なんの音沙汰もなければ、 さすがになかったものとあきらめて別の予定を入れる。 あるいは別のひとと遊びに行く。 それで数ヶ月後にいきなり、 あした空いたよ、 さあ行こうといわれても⋯⋯。 ひとには事情ってもんがあるんだよ、 生活を優先しなきゃならないんだ、 と逆ギレされたところで、 そりゃそうだろうし察するけれど、 こっちとの関係が大切じゃないなんて、 面と向かっていえちゃうのかよ。 とがっかりする。
しかも若き日のおれの場合、 友人と遊びの約束をするのとは違った。 関係が対等ではない。 社会的になんの価値もないおれのほうが、 相手の都合に合わせるのが筋だった。
どうにもならない事情で働けない、 という現実を、 あたかも人間性の問題であるかのように切り棄てられるのは、 心情的には納得いかない。 ことにあの頃のおれのような境遇では。 状況や進捗を相談しようにもその手段がなく、 相談したところで理解されない現実は、 たしかにあった。 みんな違ってみんないい、 でもだれしも許された冗長性の範囲内でしか動けない。 差違を吸収するコストはだれかが負わねばならない。 自分は負わない、 あなたが負えと 「理解」 を求められても限度があるし、 その限度を見極めるのも仕事のうちだ。 営利企業のいち社員であれば、 なおさらだ。
働きたいというので雇ってやろうとしたらそれきり音信不通になり、 ずっとあとになって事情があって働けないんですといわれても、 あんたいったい何がしたいんだよとなる。 いいものを書いたのになぜ仕事として認められなかったろう、 とずっと悩んできたけれど、 そういうことだったのだ。 どんな事情があろうがそれがすべてだった。
おれは環境にも遺伝にも障害がある。 他人や社会とうまくやることができない。 なのにいま大勢の他人を巻き込んでいる。 動機はただ単にそのひとたちの文章を読みたいからだ。 なるべくなら美しい表示で。 読みたいものを読みたいように読むためには、 ただ待っていても天から降ってきやしない。 自分で動くしかない。 それはそうなのだが結果として、 優先すべき生活を抱えた他人を、 こちらの都合でふりまわしている。 書き手と編集者の立場こそ逆転しているものの、 若き日の過ちとどう違うというのか。 そのことに忸怩たる思いはあるし、 自分の価値を高めるには他人を巻き込むしかないんだな⋯⋯との苦い学びもある。
2015 年前後にやったこともそうだった。 あれも目的としては、 いいものが読める出版手法を確立したいというだけだったのだけれど、 巻き込んだ他人に言及されることで、 おれの本がすこしは売れたりした。 でもやり方がまずくて反感を招き、 協力してくれたひとたちまで危険に晒しかねなくなった。 それでサイトを閉じたり筆名を変えたりして再出発した。 あのときに受けた脅迫やいやがらせを説明してもだれも信じない。
評価とは世渡りの結果だ。 どんなものを書こうが、 認められなければ価値はない。 今回はあの頃よりはうまくやっていると思う。 反面、 憎まれてもいないが本が売れてもいない。 PHP がほんのわずか書けるようになっただけだ。 あの頃の自分が知ったらどう思うだろう。