おれがおれである以上、 他人によく思われるのはむりなんだ。 おれだって好きじゃないが、 死ぬまで付き合っていくしかない。 これがおれなんだ、 叱られたところで変えられない。 別な人間になれたらよかったけど⋯⋯。
書いたとおりに表示したい。 それに加えて、 ウェブの横書きはすくなくとも日本語では、 段落間の空白をそうでない行間よりも広げないと読みにくい。 Enter 一回ですこし余白をとった改段落、 二回で空白行にしたかった。 html と css は英語にもとづく発想でつくられている。 段落とパラグラフ、 改行とブレイク、 行間とラインハイトは似ているようで異なる。 しかも空白行には単に装飾だけではなく、 場面や感情や思考の切替を意味する構造の性質もある。 本来は独自の html タグがあってもいいはずだ。 なのに改段落を br で処理するのはパラグラフの概念と合致しないから不適切とされ、 空白行を構造として記述する html タグが存在しないために、 css で装飾として処理するしかない。 日本人は上から押しつけられた枠組をただありがたがって受け入れる性質がある。 疑いをはさむと無礼とされて排除される。 電子書籍元年と呼ばれた 2010 年でさえ、 縦書きをなくせとか英語で充分だろなどと声高に主張する技術者がめだった。 おかげで日本語話者でさえないイラン系米国人の尽力がなければ、 携帯で本を読むという最低限の文化的な営みすら叶わなかった (日本人はこのことを恥じるべきだし、 彼女に感謝して記念日でも制定すべきだ)。 改行ごとに空白を入れるような壊れた文章が横行するに至ったのは、 ウェブの仕様を日本語の表示に適したものにしようとする発想が多くの日本人になかったことが原因だと思っている。 言葉は容れ物に応じて変わるものなので、 それはそれでひとつの表現様式ではあり、 そうした容れ物ではじめて声を獲得できた書き手もいるだろうけれど、 おれ自身がそれを強いられるのは、 帽子に合わせて頭を削ったりベッドに合わせて脚を切断したりするようなもので、 どうしても我慢ならない。 妥協として Enter 一回でただの p、 二回で余白を調節した p で囲うことにした。 不本意ながら、 構造と装飾の意味からいっても正しいといえる。 最初は str_replace で br を p の閉じタグと装飾つきの p 開始タグに置換しようとして、 うまくいかなかった。 そこで br をブロック要素にして高さやマージンを割り当てようとしたが機能せず、 あきらめきれずに br を今度は上寄せにしてフォントサイズを指定するというむちゃくちゃな荒技をためして、 Safari と FireFox では成功したかに見えたが Chrome ではだめだった。 だめなのが正しい表示だと思う。 で、 再度 str_replace に挑戦して最終的にはやり遂げた。 WordPress では br にスラッシュが入る。 それを取り除く処理をしていたのを忘れていた。 スラッシュつきの br を置換したらうまくいった。
mimei さんの記事を読み返していて、 英文の半角空白を和欧間処理の薄い空白が挟むというわけのわからない不具合に気づいた。 str_replace で置換しようとしてもうまくいかず、 結局すべて手作業でなおした。 えらい時間がかかった。 今後 mimei さんが寄稿されることはないだろうから、 これ以上労力を使うのは無意味だけれど、 気になりはする。 あらためて原稿にあたってみたら別の怖ろしいことに気づいた。 もとの文章では引用部分が a.b.c.d. の箇条書きになっている (そしてそこだけサンセリフ体になっている)。 原稿を無視した掲載をしてしまった。 mimei さん、 遠慮していえなかったんだろうな。 おまけに 「[…]」 という原稿に存在しない文字列が文末に勝手に足されていた。 原稿をまともに確かめもせず、 著者の意図を尊重するという最低限の役割もはたさないなんて、 いくら素人編集者でもあってはならないことだ。 CotEditor で不可視文字を表示すると、 あきらかに半角空白ではないものが混じっている。 なんだこれ? C2A0 (改行禁止空白) だった。 str_replace で一発置換できる代物だ。 手間と時間をむだにした。 mimei さんこれ意図してやってたの? どうもそんな感じがする。 だとしたらその意味を汲んだ組版なりコーディングなりをすべきだったのかな。 教えてほしかった。 数十万回も読まれたあとで今さらだけど、 ようやく本来あるべきすがたで表示できた。 なんで気づかなかったんだろう⋯⋯これまでで最悪の失敗だ。 いずれにせよ Word での入稿はトラブルのもとなので、 今後は 「テキストファイル+装飾にかんする指示」 で納品してもらうようにしよう。 というかおれが変名で書いたほうがよさそうだな。 他人に協力してもらうと、 優れた作品が読めるうえに問題点や改善点を見つけやすいから、 おれにとってはよいことずくめなのだけれど、 他人にかける迷惑が大きすぎる。
書くのは整理したいからで、 消すのは気が済んだのと、 残しておくほどおもしろくないから。 たまに怒られるけど、 他人はおれにとってわざわざ気にかけるほど重要じゃない (書かれたものは重要にもなりうるけど、 読む主体はあくまでおれにある)。 おれのコンテクストは実際にはおれだけのものだ。 ところが当然のようにあらゆるコンテクストが共有されたものと思い込んでいたり、 あらゆるコンテクストが開かれているべきだと信じていたりするひとにとっては、 自分のコンテクストに乱暴に介入してきたと感じるんだろうな。 たしかに広い意味では文章は開かれたものだから、 どう読もうと勝手だけど、 他人の読み方にまで責任もてないよ。 がんばって評価される世間のひとたちはすごいと思うし、 努力した他人がその当然の結果として評価されるのはもちろん寿ぐべきことだけれど、 そんなのはおれにとってどうでもいい。 他人がどうあろうと関係なく、 おれには何もなさすぎるどころか、 罰されるだけだってことをいいたい。 妬みそねみは他人を落とすことだろ、 そうじゃなくて、 終始おれの話なんだよ。 相対評価じゃなく絶対評価としておれの人生がこうだって話。 書いたものやサイト運営だけじゃなくてね。 努力した見返りがほしいとまではいわない、 せめて蔑まれたり憎まれたり疎まれたり、 そんなのはもういやだ。 で、 そのためにおれは今後、 これまで以上におれの部屋だけで出版を完結させるつもりでいる。 自分自身への絶対評価としての、 「おれにはできた」 「よくやっている」 って実感を得るために。 手作業で印刷して製本しておれのサイトで売る。 売れたらおれが梱包して郵送する、 そこは読者なり買い手なりをあたかも想定するかに見えるけれど、 実際そこはどうでもよくて、 大切なのはおれにそれがやれるってこと、 それをやるだけの仕組をおれが実現するってこと。 報われない努力の話とか、 そういうのですらないんだ。 読者という他人をつい想定してしまう時点で、 おれはだめなのだろう。 他人というコントロールできないものを、 やりたいことの前提にするのがそもそも矛盾していて、 おれがずっといってきたこと、 やりたいことは徹頭徹尾、 おれの気持のなかだけで完結すべきことだ。 おれ自身がどうありたいかって話なんだよ。 そういう意味でおれはヘンリー・ダーガーを尊敬している。 死後に評価されたかれではなくて、 あれだけの益体もない妄想を抱えながら、 市井の生活者、 ただの雑役夫として死んだかれを。
今回の改修で、 いちいち手作業でコーディングしなくても柳楽さんの最初の連載とおなじことを実現できるようになった。 ほかにもちょっとした小技をいくつも実現していて、 たとえば著者のソーシャルメディアを紹介している。 これは公式アカウントもあれば bot もあり、 非公式のファンクラブもあれば、 粗悪ななりすましもある。 寄稿者には認証バッジもつけたので、 そうした点で著名な文豪たちが寄稿者より見劣りするという、 価値観の転倒を演出できたわけだ。 ただ Wikipedia のリンクもつけてしまったので、 あいにくこれは著名人に部がある。 寄稿者のふたりはメディアに取材されたし (うち一名はおれを罵倒して原稿をひきあげた)、 別のふたりは商業デビューしたから、 遅かれ早かれこのリンクも機能するだろうけれど⋯⋯おれ以外はね。 ほかにはトップページのおすすめ著者名を中黒で折り返せるようにできたのが個人的には快挙だった。 あとはいずれ Teams みたいに寄稿者と作業の進捗を共有できるようにしつつ、 Twitter で他人に迷惑かけないように、 こうした思考の垂れ流しを Activity Stream に隔離するつもりなのだけれど、 どういうわけか数年前は使えていた BuddyPress が機能しない。 Activity も Member ページも真っ白のままだ。 たぶん何かが干渉しているのだろうけれど原因が特定できない。 おれが自分で書いた設定が悪さしているにちがいない。 早いとこなんとかしなければ、 とは思っている。 これ以上、 他人に迷惑はかけたくないからね。 きちがいは隔離だ。