Pの刺激
第21話: エピローグ PUNK
事務所は鮨詰めだった。窓を全開にしても蒸し暑く、紫煙が充満していた。透子と椎奈はソファーの両端に離れて座っていた。透子は諦めたような表情で椎奈の胸を盗み見た。その眼は充血していた。郁夫に手渡された原稿に睡眠時間を奪われたのだ。私家版を印刷したもので朝まで読みやめられなかった。瑠璃子は流しにもたれて煙草をまずそうに吸った。日の丸のような図案の銘柄だった。丸米は写真屋の娘と携帯対戦ゲームをしていた。
宍戸が催促するように太い眉を寄せた。「それで『PUNK』は」
「ウェブで読めますよ。まちがいなく真作です。呪いも解けたみたいだし」
宍戸は腕組みして唸った。「匿名オンライン文学の書籍化か……」
「呪いって?」
郁夫は透子の問いを無視し、机に尻を乗せて説明した。「支倉秀一郎はかつて教団と癒着してました。資金力があり自由に動かせる政治家もいる。組織票を握る教団とは持ちつ持たれつでした。若様——新教団の教祖は当時の関わりをネタに資金供与を強要しました。ところが支倉グループも不況で苦しい。大ヒットするような画期的な商品が必要でした」
「そこで登場するのがプリオネラ666」と丸米が口を挟んだ。「細菌を培養する過程で教団が発見した酵母す。そいつに皮膚の若返り作用があると最近の研究でわかったんす。クリームや乳液に応用すりゃ大儲けすよ」
郁夫は頷いた。「教団は技術供与と引き替えに、支倉から草稿を巻き上げて街にばらまきました。生之介をおびき出してPの在処を聞き出すためです」
「あの世界は何だったの。いなくなったひとたちはどうして戻ってこられたの」
宍戸と透子は困惑したように椎奈を見た。丸米は小二女児の攻撃に気を取られたふりをした。瑠璃子は郁夫の表情を見た。郁夫は何もいわなかった。
失踪者の多くは廃墟で発見されていた。彼らが口にした密林の記憶は心的外傷による混乱と見なされた。彼らが戻った理由を郁夫は知っていた。若様の死とともに呪縛が解けたのだ。その意味を郁夫は考えたくなかった。自分たちがそこまで忌まわしい存在だと信じたくなかった。
瑠璃子には郁夫が何を考えているかわかった。あんたはそれを乗り越えなきゃいけない、と彼女は思った。たったひとりで悪夢に放り出されたとき。汚染された世界に押し流されかけたとき。あたしたちは音楽や言葉に勇気づけられて人生に立ち向かう。その未知の刺激はあたしたちにけしかける。どんな逆境にあっても。誰ひとり信じてくれず、自分が愚かで汚く惨めに思えても。死のほかに脱出法が見出せなくても。
それでも生きろ……と。
あんたまだほんの若造だ。諦めるには早い。これからきっと見つけるのよ。あんた自身のPUNKを。
携帯が鳴った。瑠璃子は傾いた扉を出て通話ボタンを押した。息子からだった。あした帰るよ、と吾朗はいった。僕がいないあいだに色々あったみたいだね。
まったくよ、と瑠璃子は思った。あんたはいつだってそう。
彼女は微笑んだ。